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from: クマドンさん
2020/01/23 05:31:56
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信ずるとは何か
昨夜は、学びの時だった。
教会に集まって、アルファの学びを続けている。
昨夜で4回目だった。
全部で15回の学びだ。
信仰の原点に立つ。
そのことを改めて参加者で分かち合い、確認している。
信ずるとは、不思議なことだ。
どうして私が、こうして信ずることができたのか。
それは、きっと自分自身を信じられなくなったからだろう。
愚かで、どうにもならない自分自身を、
きっと私は、信じられなくなったのだと思う。
しかし、反面、そうした自分自身を超えて、
私のことを信じている私も確かに居てくれた。
そのおかげで、私は、とことんどん底に堕ちながらも、
絶望することはなかった。
いつも、その度に、助け手が現われ、
逃れる道が備えられていた。
実は、そうした苦境に立たされながら、
その度に、選択を迫られながら、
そして、ある大いなるものに聴きながら、
1つの決断をしてきた私。
その一つ一つの決断の連続が、今の私だ。
ここまで来るまでには、長い長い道程だった。
振り返って見たら、全てが「これでいい」と、今は想える。
この先はどうなるのかは、「神のみぞ知る」だ。
私がね決めることではなく、
私は、その岐路に立たせられたのなら、
神様に聴くことなんだ。
沈黙の時もある。
ずっとずっとどうしたらよいのかを、示されない時もある。
また、自分を捨てなければならない時もある。
自分のことを忘れ、捨て身になって、相手のことを優先する。
その選択には、リスクが伴う。
私は、ある意味、それまで大事にしてきたことを失うことになる。
それでも、その道を選択するか、どうかで、
それからの生き方は、全く違う生き方となる。
日々、私4名の参加者でその話になった。
私は、「今は、人を気にせず、独りで生きている」と、話した。
本当にそうだった。
人の中に居ながら、その人たちに影響を受けず、
私は、独りで、自由に、生きている。
それは、我がままとはちょっと違う。
自分勝手に生きていては、この安心感は絶対に得られない。
きっと深くで「それで、いい」と、言ってくれるからだと、私は思う。
つまり、日々の選択・決断には、
「それで、いい」という、確信が、是認が、必ず与えられるということだ。
そのことは、私にとっては大きな安心であり、
心の大きな安心立命でもあった。
「信ずる人たち」には、これがあった。
だから、真っ直ぐに心地よく進む。
しかし、今は、反対勢力が大きな企みをもって対抗している。
教会で、こんな愚かなことが行われ続けてもう3年目になる。
一部の人たちが、徒党を組む。
そして、激しい攻撃を加えて来る。
教会で、こんなことが行われているのかの驚きだった。
しかし、それも人間の為せる業と、今は、憐れに感じている。
この人たちが居てくれるおかげさまで、
私の立ち位置は明確になった。
私は、あの人たちとは全く真逆の位置にいる。
というか、その立場に立たせられた。
そして、明確になった。
他者を通して、自分自身の在り方が、より鮮明になる。
それは、私は、あの人たちとは、全く違う信仰をもっているということが、
よくよく分かったからだ。
その実感として、今を生きる根源として、
時には、師として、友として、共にこの荒波の中を後悔している同志として、
私は、いつも傍に感じ、語り掛ける。祈り求める。
そうした「ある」という実感で、日々を生きている私たちと、
まず「ある」のは、自分であり、
そして、その自分にとって都合のよいことを言ってくれるのが神である。
つまり、神様を自分の利益や権威のために利用しようとしている人たちとは、
私は、全く違う人だということが、この半年でよくよく分かった。
あの人たちは、「信じられない」から、「信じようと」する人たちだ。
そして、「信ずる」を頭で考え、不安定な自分のことを誤魔化すために、
形式を重んじ、人目に目立つ行為を重んじ、理屈を重んずる。
つまり、律法主義者たちのように、
昔から守られて来た伝統・形式を踏襲することで、
誰が一番偉いのかを競っている人たちだった。
心は、空虚で虚しくとも、「信じている」ふりを続ける。
自分のことを自分で信じられないのだから、
どんなに無理をして「信じよう」としても、それは無駄だ。
「信ずる」と、「信じられない」には、越えられぬ隔たりがある。
それを、頭で理解して、そうなんだと思い込ませようとしても、
それは、嘘だ。見せかけだ。ただの形式だ。
何故なら、「信じられない」自分のことを、
一番よく知っているのは自分だからだ。
そこに、今回の謀反の原因があると分かった。
信じられない自分たちにとって、
信じられる人たちは、目障りなんだな。
何十年と信仰をもって生きてきたはずの自分には、
本当の「信仰」が存在していなかったということの気付きは、
深い深い絶望であり、驚きだったと想像する。
だから、やっつけたいと思う。
だから、執拗に嘘を繕い、周りの人たちを騙して、正当化しようとする。
その現実の醜い人間としての姿が、
私にとっては、物語ではなく、現実の人間の姿として見える。
「信仰」をもっているという人たちは、
こんなに悍ましく生きられるのかの、驚きと、嘆きとだった。
これは、ある意味、「聖書」に描かれている物語そのものだ。
人とは、こうした過ちを犯す者だ。
それは、私もまさにそうだったからよく分かる。
ただし、その過ちや罪に気付き、悔い改められるかどうかで、
その人の生き方は変わり、
平安と自由と希望とをその人が得られるかどうかが決まる。
そのことを、昨夜集まった4人は、実体験を通して知っている。
信ずるとは、自分のことではない。
ここに在ると、言える、その自分が生きているかの問いなんだな。
私は、その問いには、明確に応えられる。
「ここに在ります」と。
それを答えられない人たちが、頑なに魂を支配され、暴れることとなる。
それだけのことなんだと、今は、思える。-
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