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from: クマドンさん
2020/02/24 10:30:28
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映画「沈黙」
昨日は、アルビの開幕戦。
群馬に対して後半10分間で3点の快挙だった。
今年のアルビは、違う。
そうした手応えを十分に感じさせる試合だった。
その先は、分からない。
信ずると言うことは、まだ見ないその先、曲がり角の向こうを信ずる。
観ていないから、信ずる。
これではないかと、思う。
そして、信じた通りに、なるものだった。
それは、本気で、本当に、芯から信じていたならばだ。
信じることに、裏切りは存在しない。
たとえ、その結果が思い通りでなくとも、
沈黙であったとしても、それは、今ではなく、その先なのかもしれないからだ。
だから、信ずるなら、ずっとずっと信ずることだ。
映画「沈黙」をやっとネットで観れた。
観たかった映画であった。
しかし、観てはいけない映画ではないのかとも思っていた。
だから、映画館での上映を見逃した。スルーした。
しかし、やはり、観てよかった映画だった。
パッドレが転ぶ。棄教する。
その時、イエス様は、何を彼に語るのか。
迫害を受け、どん底の苦しみだった。
切支丹として隠れた暮らす人たちが、長崎や五島の僻村に住んでいた。
その人たちは、奉行からの迫害から逃れ続けて今に至った。
信仰を守ることは、許されている時代もあった。
しかし、ある頃から、このキリスト教信仰は、危険な信仰として咎められた。
禁止されたその信仰を生きる人たちを、幕府は断罪した。
惨いことだった。
熱湯の温泉を裸の身体にかける。
こもで身体を撒いて薪の上で火あぶりにする。
十字架に磔にして、波に飲み込ませる。
袋に詰めて、逆さづりにする。
それでも、信者たちは信仰を続けた。
死んだらパライソに行ける。
そこでは、みんな幸せに暮らせる。
貧しさも、飢えも、年貢の取り立てもない。
神様と共に平安に暮らせる。それが、切支丹たちの信仰だったる
二人の司祭が密航して来る。
それは、自分たちの師か棄教したという噂を確かめるためだった。
命懸けで長崎の浜にたどり着いた。
そして、僻村の切支丹たちに助けられ、かくまわれた。
そして、キチジロウの密告で捕えられ、牢に入れられた。
その村の人たちも隣の牢に入れられた。
ここから、本当の信仰の闘いが始まる。
奉行の井上は、司祭を転ばせたかった。
そのために、多くの村人たちを目の前で殺した。
踏み絵は、彼の足元に在る。
そのイエス様の身体を足で踏めば、命を助けられる。
彼は、ためらった。
しかし、その魂にイエス様の声が聴こえた。
「私はあなたと共に居る。あなたと共に苦しみの中に居る」
「踏みなさい。踏みなさい。」
しかし、その声は、本当にイエス様からの声なのか。
試練の中。迫害の中。祈った司祭であり、村人たちだった。
しかし、神様は、「沈黙」だった。
何の声も聴こえず、その悲惨な運命から救い出してはくれなかった。
現実は、そのまま何も変わらず、次々に仲間たちが処刑される。
彼と一緒に長崎に渡って来た司祭は、最後まで信仰を守った。
棄教せず。転ばなかった。
しかし、そのために、多くの村人の命は犠牲となり、彼も死んだ。
これが、信仰を貫くと言うことなのか。
キチジロウは、何度も転んだ。
何度でも踏み絵を踏んだ。
そして、しばらくすると告解にやって来て、救いを求めた。
司祭は、そんな彼を赦した。
彼は、村からは追放されても、彼は、生き延びた。
では、彼には、信仰がなかったのか・・・。
司祭は、最後には呻き、泣き、叫び、踏み絵を踏んだ。
しかし、だからと言って、それが何だったのだろうかの問いだ。
「沈黙」が、神様なんだ。
踏み絵を踏む。転ぶ。棄教する。
しかし、神様は、そこにいなさる。何も変わらない。
人が、神様を選ぶのではない。
神様が、ご計画にしたがってその人を召すのだ。
その約束や祝福は、人がどうあろうと変わるものではない。
それは、たとえ「沈黙」であろうとも、在るものだ。
神様の瞳に、私が映っている。
あの悲惨な運命の中で泣き、叫び、死んでいった人たちのことを、
神様は、黙って見ている。
踏み絵を踏み。
棄教して、友を裏切ったとしても、
神様の眼差しは、変わるものではないはずだ。
信仰は人が棄てるものではない。
信仰は、神様が人に与えたものだから。
人が、踏み絵を踏んでも、棄教しても、神様を裏切っても、
神様は、神様のまま。
「沈黙」こそ、神様の人への愛ではないだろうか。
「沈黙」であるからこそ、祈りが聞き届けられてたと信ずる。
たとえ、私が人として神様を棄てたとしても、
神様は、絶対に私のことを見棄てない。
その眼差しに何の変わりがあるものか。
「沈黙」を信ずる。
司祭は、江戸で暮らした。
キチジロウが共に居た。
彼は、キチジロウに感謝した。
「いつも私の傍に居てくれてありがとう」と。
キチジロウは、何度も何度も転んだ男だ。
しかし、神様は、きっとこの男のことを愛し続けていたと思う。
信仰とは、人が勝手にどうこうと決めるものではないのだ。
それは、きっと神様からの祝福であり、約束、贈り物なんだ。
そして、それを受け取った人は、あの当時もごくごく限られた人たちだった。
踏み絵を踏まず、棄教せずに、死を選んだ人たちは、
今もパライソで幸せに生きているはずだ。
棺桶の中で司祭の手に握られていたものは、
小さな木彫りの十字架だった。
「沈黙」を信じよう。
長崎や五島の隠れ切支丹の人たちを、
きっと神様は涙の眼差してじっとじっと見つめていたに違いない。-
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