サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: クマドンさん
2020/04/25 07:47:20
icon
縄文人からの手紙を読む
今朝のラジオ深夜便「明日への言葉」
ほんの最後の5分だけしか聴けなかったが、
大事な言葉を女優の渡辺美佐子さんから頂いた。
「普通の生活ができなくなることが、戦争なんです」だった。
彼女は今、原爆の独り語りを続けている。
「戦争中は、毎朝手の上に大豆をのせてもらい、それが一日の食糧でした」
何だかその言葉一つ一つが実感として感じられるような気がした。
いつのまにかこの国も、あの太平洋戦争のような戦時下に置かれていたからだ。
何だろうねぇ。
バスに乗って出かけることすら、何だか悪い事をしているような気がした。
バスの中や街を歩くときは、マスクをしていないと、じろりと見られる気がした。
お店に入る時や出る時は、必ずアルコールで手を消毒する。
お店では親しい人でも、椅子を1つ空けて座る。
お店にお客さんの姿がめっきり少なくなった。
いつもなら空いている席が少ないお店も、
今ではどこでも座れるお店になっている。
戒厳令下か、空襲警報発令なのか、人が街に出なくなった。
歩いている人が、確かに減った。
いや、みんなどこかに消えてしまったのだろうか。
誰がこんな世の中が来ようとは予想してただろうか。
きっとあの太平洋戦争の時もそうだったのだろう。
朝鮮・満州。中国と戦線を広げて行った日本軍だ。
それをしっかりと支え、誇りに思った日本国民だ。
「万歳」「万歳」の声が街のあちらこちらで響き渡った。
出征する若者を歓喜と誉で見送った。
それが、全てのことの予兆だったとは気付かずに・・・。
この先は、どんな世の中になって行くのかなぁと、ふと想った。
1年2年のスパンになるのかも知れないと、専門家の中では言う人がいる。
ついこの前、2019年の大みそかに、この日が来ることを誰が予想できただろうか。
その翌日のお正月には、今年も家内安全・商売繁盛・健康第一をお参りした。
「ああ、今年もよい年になってくれよ」と、
「ああ、今年こそよい年になりたいなぁ」と、
その日は、もう夢の日となった。
そんな安全・安心が続くものだと、私も信じた。みんなも信じた。
しかし、中国の武漢で新型ウイルスが発生し、感染者が増えている。
「ああ、武漢がウイルスで大変なようだね」
「それは可哀想ですね。早くそんなウイルスが退治されればいいのにね」
いつも対岸の火事だった。
そのウイルスが世界中に拡散し、感染者が何百万人となり、死者が何万人となる。
そのことには、想い至らない。
専門かであっても、その兆候に・兆しに危機感を持たなかった。
国会は、「サクラを見る会」の出席者のリストを出せと野党は追究し、
そんなものはあっという間にシュレッダーだと与党が応戦する。
嘘と誤魔化しとの化かし合いで、
誰も同時に行なわれているこのウイルスへの危機管理を問題としていなかった。
しかし、台湾は違っていた。
副首相?は、前回のサーズの時の感染予防大臣を勤めた優秀な科学者だった。
最悪の事態を想定して、水際対策を行い、マスクや防護服の増産に勤めた。
予兆は、どんなことにも必ず存在している。
しかし、予兆があったとしても、その予兆を予兆として感じられない感性だったら、
その予兆は、全く予兆としての意味を持たない。
残念ながら、今の人間は、そうした自然が与える予兆に対して、
益々鈍感になったきたようだ。
ここに縄文人からの手紙がある。
長岡の歴史博物館の写真に、火炎式土器を5器写したものがあった。
私は、深夜便のさだまさしさんの話を聴きながら、
何気なく紙にその火炎式土器をスケッチしていた。
下の器の部分と火炎と呼ばれ上部の部分を分けてスケッチした。
すると、ざわざわと何かが感じらた。
渦のように、流星のような、河の流れのような、流線上の文様を描きながら、
「これって、自然そのもののことではないか」の「問い」が生まれた。
「流れる」「動く」「渦巻く」「続く」「生まれては消える」「今、ここ」
こうした言葉の表現が、言えば言うほどそのもののでなくなるような、
やっぱり、この流れる力強い文様でしか顕せないものこそ、「自然」なんだ。
そんな驚きと感動だった。
言葉は、そのものにはなり得ない。
言葉は、単なる説明に過ぎない。
言葉を持たない縄文人の、この文様こそ、そのものの顕れなんだ。
次に、上部の火炎の部分をスケッチした。
そして、またあの「何だこれは・・・」の驚きだった。
それは、ある種の四足の動物だった。
それは、羽を広げた大きな鳥だった。
そして、それは二つ向かい合わせに描かれ、対になっていた。
そして、みんな同じ方向。つまり、右回り・左回りに造られていた。
そして、その足元にはぎざぎざの小さな波が描かれていた。
「これって、この自然を生きる命そのもの・・・」ではないかの「問い」だった。
つまり、文字を持たない縄文人は、神に感謝するために造られたこの土器に、
神への感謝・賛美と共に、神の姿そのものを描いたのではないかの「問い」だった。
命は自然の中だけで生かされるものだ。
命と自然とは一体であり、繋がりであり、連続なんだ。
そのことを縄文人は、神から知らされていた。
だから、あれだけ長い間、平安に平和に暮らせたのだ。
自然と共に生き、自然を畏敬し、自然に感謝する生き方こそ、
自然の中で生かされている人としての本分・生き方そのものなんだ。
この火炎式土器は、後世の子孫たちがそのことを忘れないように、
記録として、戒めとして、教訓として遺してくれたものではないのか。
いつから、人間は、こんなにも傲慢になってしまったのだろう。
この「縄文人からの手紙」を、どう感ずるのだろうか。
しかし、この縄文人からのメッセージを読み取れなくなっただけ、
残念ながら愚かになったのが人間だった。
「やれるけど、やらない」それが知恵なんだな。
戦争は悲惨だ。だから絶対に戦争はしてはいけない。
原爆は悲惨だ。だから絶対に原爆何か創ってはいけない。
原発は悲惨だ。だから絶対に放射能を創ってはいけない。
ウイルスは悲惨だ。だからある種のコウモリを食べてはいけない。
「やれるから、やってしまう」
これが人間が創っては壊し、創っては破壊した文明の正体だ。
自然(神」に対する畏れは無い。
「俺が一番」「俺の言うことをきけ」「俺の正義に従え」だな。
どこに立っているか。
何を基軸・根本・根底とするか。
今は、こうした憐れな人間の運命から少し離脱して、
この「縄文人からの手紙」を真摯に、謙虚に読み解く時ではないのだろうか。
「普通の生活ができなくなった今」
私たちは、何が普通の幸せな生活だったのか、考える時が来たのだと思う。
ここで、間違った道を進んではならない。
この予兆を謙虚に、素直に、受け入れることだ。-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
icon拍手者リスト
-
コメント: 全0件