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from: クマドンさん
2020/05/25 07:07:39
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S先生
昨日は、S先生の礼拝と聖餐式だった。
礼拝が始まる前から、先生の後ろ姿を見て、涙が止まらなかった。
82歳だろうか。
本当に心から尊敬している先生だ。
「クマさん」と、こんな私のことをいつも気にかけ、可愛がってくれた。
私が人生に悩んでいた頃、
何をやってもうまくいかず、
これからどうしようかと途方に暮れ居ていた頃。
私は、ある日、見上げたら十字架がそこにあった。
「N福音教会」だった。
大学の卒業式で聖書を贈られた。
「メサイア」の合唱団に参加した。
そして、「ジーザーズ・キリスト・スーパースター」のミュージカルを観た。
聖書のことは、何一つ知らなかった。
それなのに、その聖句が心に残った。
訪ねたのは私が26歳位だったろうか。
私が玄関で呼ぶと、出て来てくれたのはS先生だった。
しかし、その飄々として姿に、私は牧師さんとは思わなかった。
「あの・・・、牧師さんは・・」「私ですよ」だった。
あの頃の私は、きっと頭でっかちの理屈やでがちがちだったと思う。
勝手に理屈をこねまわし、読んだ本のことを話し、
何だか独りでぐるぐるまわり続け、
悩むことから逃げたいのか、そこに留まっていたいのか、
本人も分からないどうにもならない男だったと思う。
そんな私の話を、先生は黙ってただ黙って聴いてくれていた。
本当に今にも倒れそうなおんぼろの教会だった。
私は、玄関わきの小部屋で、先生と話をした。
いつも最後は、「祈りましょう」と、先生は祈ってくれた。
私は、何だか心のもやもやをぶつけるためだけに、
S先生の所を訪ねていたような気が、今はする。
そして、礼拝に出るようになった。
今、私が合唱を続けているのは、この時、賛美歌を歌ったからだ。
何も奉仕することのできない私は、
このでかい声で、賛美歌を歌うことを、私の使命とした。
だから、初めて歌う賛美歌ばかりだったが、
私は臆せず、周りの人たちのことを気にしないで、賛美歌を歌った。
今でも、そうだ。
夕拝があった。
私は、そこに行くようになった。
本当に新参者の私のような男に親切にしてくれた教会員の人たちだ。
私は、いつも聖書の話を先生から教えてもらった。
確かに感じたことは、「いかに生きるか」を、
こうして毎週集って学び合っている人たちは、他には居ないということだ。
しかし、私は、「罪」についての気付きが無かった。
だから、「原罪」と言われても、分からなかった。
それでも、冬山から帰って髭面のまま、夕拝に行ったこともあった。
何だか、礼拝に参加しないと、すっきりとしなかったからだ。
28歳のクリスマス。
私は、S先生に勧められ、洗礼を受けた。
サッカーの偉大な指導者であるKさんも一緒だった。
翌年の3月を最後に、先生は東京の神学校の校長として赴任する。
つまり、その時を逃したら、先生から洗礼を受ける機会を失ってしまう。
「ここだ」「ここがロドスだ」「ここで跳べ」だな。
私は、跳び込む決意をした。
決意が大事だった。もし、あの時、まだまだと迷っていたら今の私は存在しない。
あの時、「よし」と跳び込んだから、今の私だ。
洗礼を受ける日の朝、母はとても寂しそうだった。
「同じ墓に入れないんだね・・・」と言われた。
私は、洗礼を受けた。
あの水槽に全身を沈めた。
力強い先生の言葉だった。
では、私は、生まれ変わったのか。
しかし、それからの長い長い旅路の始まりだった。
夕拝の司会を任された。
この私がである。
先生はそうやって役割と責任とを与えながら私を鍛え・育ててくれた。
4月先生は東京に、新たにH先生が牧師として赴任して来た。
私は、32歳で新採用となって、荒川町に赴任した。
そこで結婚した。結婚式は、このN教会で挙げてもらった。
今思えば、何も分からず、自分のことばかりで、
周りの人たちの親切も思いやりも感ぜず、
何と言う馬鹿な男だったかと恥ずかしい。
本当に私は、分からない男であった。
村上で居を構えた。
村上の教会に行った。
しかし、数年後には、私は教会から離れた。
いつしか教会に行かなくなった。
N教会から葉書が誕生日に届いた。
懐かしい人たちからのメッセージだった。
Kさんとは、年賀状のやりとりをした。
そして、40歳で新潟に帰って来た。
実家に戻った。
それからも教会へは行かなかった。
N教会は新たな立派な会堂を鳥屋野潟に建てた。
S先生は、北海道の日高で牧会をしていた。
きっと私は、何事もなかったら、教会には戻らなかったと思う。
しかし、死ぬ生きるを経て、大きな罪を経て、
私は今のY教会に導かれた。
それが、56歳だったろうか。
母が亡くなり、父が施設で孤独に生きていた。
心の寂しさ、虚しさだったか。
いつしか、この教会に毎週日曜日礼拝に来ることが心の唯一の慰めとなった。
そして、「まさか」のことがこの教会で起った。
信じられないようなことが、現実となった。
私は、日高のS先生と連絡を取り合った。
先生から励ましと助言とを受け、私はここで闘った。
不思議なことだ。
教会を30年以上も離れていた放蕩息子が私だった。
しかし、今は、ここで踏ん張り、踏みとどまらねばならなくなった。
そして、昨年の4月、S先生が新潟に帰って来てくれた。
今は、I教会で牧会をしている。
その先生の就任式でも涙が止まらなかった。
次々とこんなにも泣けるのだと自分でも驚きだった。
先生の真後ろに座った。
その背中を見ながら、涙で眼鏡が曇ってしまった。
それは、「愛」であり「尊敬」だった。
その先生が初めてY教会に来てくれた。
それは、この教会が多くの試練にさらされ、苦境に立たされているからだった。
私は、先生の後ろ姿を見た。
それだけで、涙が溢れた。
あの洗礼を受けた日から、34年間も経っていた。
その間、私は先生には恥ずかしい生き方の連続だった。
それなのに、こんな私なのに、ここに居る。
そして、私の「師」であるS先生の説教を聴き、聖餐式に参列している。
パンは肉となり、ブドウは血となる。
それを、私は先生から託された。
不思議だなぁ。
ただ、その不思議の中に居た。
あの洗礼を受けたあの日に、この日のことは予定されていたと感じた。
「神様の思いは必らず実る」
「それは、私たちの考えが絶対に及ばない形で実る」
私は、先生を見上げながら、そのことを実感した。
不思議を信じた。
これが62歳までの私の人生だ。
そして、これからの人生を私がどう生きるか。
それをきっと先生は期待しつつ見つめていてくれているはずだった。
それは、先生からの「愛」であり、私への「敬意」でもあった。
今、ここで、私は、それを感ずる。
今、ここで、その想いに応えて生きられるか。
「より善く生きよ」のその「問い」を、
私は真摯に受け止めている。
先生と出会わなければ、きっと今の私にはなれなかったと思う。
だから、私は、ずっと涙を溢れ続けていた。
涙って、止まらないものなんだなあ。-
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