サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: クマドンさん
2020/07/10 07:01:02
icon
「やわらかい石」として死にたい
こんなことがあった。
ある地域の役目を私は、引退した坊様から仰せつかった。
このことも何度も何度も固辞をした。
「勘弁してください」だった。
以前辞めた役目もそうだった。
「本当に現職では無理です。勘弁してください」
それでも、何度も何度も頼まれた。
「他に成り手がないんだて」だった。
「成り手」が居ないから、「おめさん」やってくんなせや。だな。
しかし、前回の時は午後からの会議には出席できなかった。
研修会も度々不参加となっていた。
それはそうだ。
担任している子どもをほったらかして、会議に出るわけにはいかない。
教委からもしっかりと言われた。
「教育公務員としての責務が優先です」ごもっともだった。
だから、1期で辞めた。
いや、「辞めてください」とその副会長から言われた。
その程度の私だった。
だから、今回もこのことは「固辞」した。
まだまだ現職で働きたいと思っていたからだ。
しかし、坊様は定年だ。後を託する適当な人がいない。
そこで、身近にいた私に白羽の矢がたった。
「勘弁してください」「できません」「無理です」と何度も何度もも断った。
しかし、「願書出しておいたよ」「後は、審査を待つだけら」とのこと。
昨日、配布物を持って各自治会長の家を回った。
初めてお会いする人は、「分かりました」「ありがとうございます」だった。
しかし、前回の事情を知っている会長さんは、
「何でクマさんが・・・」と、怪訝な顔だ。
そりゃ、そうだよなぁ・・・。
地域で一度失った信頼は、なかなか回復が難しいものだ。
どんな事情であろうとも、「あいつは駄目だ」と言われたら、
その「駄目だ」だけが、独り歩きする。
そのことをいつもいつも痛感している。
しかし、そうなんだよなぁと、そのことを気にして、後悔してばかりいては、
自分らしく生きられない。
だから、ある意味で、開き直ることにした。
やってしまったものは、仕方ない。
人は、どんだけ悪く言おうとも、そのことを真摯に受け止めるしか仕方ない。
私は、今回の大失敗で、そんな生き方を学ばせてもらった。
「クマは、駄目だ」と、思っている人たちの心を変えられないのだ。
しかし、そんな「駄目」な私も、日々を生きて行かねばならぬのだ。
ならば、「駄目」は、「駄目」のまま、そのままにしよう。
どうあがいたところで、私への批評は変わらないのだから。
まず、その私は、そのままにして、
今後は、淡々とできることをできるだけやることだと、思い直した。
いつしか、私は、変わらないものを変えようとは、思わなくなった。
しかし、もし、何か改善したいものがあったとしたら、
直接物を申すのではなく、それなりの人に話して、
間接的に改善されるだけでいいと考えるようになった。
以前は、まさに我武者羅に突き進んだ。
そして、壁にぶち当たり、こけたことも度々だ。
その度に、「彼奴は、駄目な奴」だとのレッテルだった。
しかし、今は、とても「柔らかな石」になった気がする。
それだけ、たくさん叩かれたからだろう。
小千谷のSさんの改革の話だった。
彼は、20年間育ったN中の森のこれからのことを考えていた。
いつもいつも83歳の彼の脳裏には、
この森のことが存在していた。
それは、きっと、森が彼に語りかけているからではないかと思った。
後継者と出会えた。
その彼は、本気だった。
とにかくその森が、森として生きている姿に感動できる人だった。
Sさんも、全幅の信頼を寄せ、彼に今後の一切を託するつもりだ。
そんな時、ある組織での改革を思い至った。
組織とは、お偉い組織であればあるだけ、
去年と同じ今年をやるものだ。
誰も改革への声を出さない。
その声を出すことでの周りからの批判と、非協力、陰口があるからだ。
お偉い組織のお偉い人たちは、名誉職になっている。
その人たちは、行政からも組織のメンバーからも重鎮として敬われている。
つまり、どんなに下々から改革への狼煙があげられても、
この人が、「そうせぃ」と許可しなければ、何事も先には進まないのだ。
そのことを、若手のメンバーたちも、長くかかわった中間のメンバたちも知っている。
だから、何も言わない。
「そうですね。そうしますか」「まぁ、それがいいのではないですか」だけ。
そして、長い時間の会議の後、みんな疲れて帰って来る。
そこに、風穴を開ける。
何とも大胆で、真摯で、真っ直ぐな気持ちだと、私は感動だった。
とにかく、N中の森を「結」の森とする。
そこは学校の敷地の中にある森であるが、
学校を超えた、地域の人たちの憩いの森とする。
そのために、森の再生活動・環境保全活動・文化芸術活動等を企画し実施する。
その時、地域の高齢者・自治会・学校の保護者・卒業生・生徒に呼びかける。
そして、お互いに汗を流した作業の後に、茶飲みをする。お菓子を食べる。
そして、みんなで感じたままに、森の話をする。
すると、そこから何が生まれるか。
きっと、この森に集い、汗を流した人たちに「連帯」が生まれるはすだ。
その「連帯」こそ、「共生」の根っことなれる。
その「共生」は、人と人との共生だけではないだろう。
いつしか、森とかかわることで、
自分の周りの自然にも興味・感心を持ち、かかわれる人となるはずだ。
「先人樹を植え、後人涼む」だな。
その森で集った人たちは、きっとその地域にある豊かな自然のいのちに気付くはずだ。
Sさんがそうだった。
夜中の闇の中で、四足歩行を毎日のように続けている。
それは、いつしか身体が、「歩くぞ」「外に行くぞ」と、
呼びかけるからだと言っていた。
数年前は、そういう人ではなかった。
ある日、ある時、歩きだし、信濃川の川べりの散策だった。
すると、いろいろな音が聴こえた。
水はいつでも滔々と流れて行った。
そして、夜明けを迎えると、新鮮な色・色・色に深く深くの感動だった。
立ち止まり、しばしその美しい景色に、うっとりとして、動けなくなる。
そんなSさんが、「よし、最後の仕事だ」と、立ち上がった。
そのお偉い人たちの集まる会議に参加した。
そして、新潟県の森を地域の「結」の森とするために、
新たな提案をもって新潟市にやって来た。
そして、会議の後、協賛してくれそうな同志と話した。
Sさんは、その夢と希望を熱く語った。
しかし、討ち死にだったようだ。
つまり、その信頼できる同志と思っていた人も、
「固い石」の人であったという話だ。
どんなに、疲れたことだろう。
どんなに、辛かったことだろう。
彼の夢は、残念ながら理解されなかった。
その偉い組織の活性化・新潟県の森の再生のためには、
画期的な革命的な提案だったが、時期尚早。
「俺の代ではなく、次の人たちにやってもらってくれ」だな。
実は、私もそうだが、Sさんも、
この「固い石」にこてんぱんにやられた経験をもっている。
私は、この「固い石」に「駄目なやつ」と言われて、今も生きている。
彼は、偉い組織の「固い石」ではなく、その中の同志を選び、
彼こそ「やわらかい石」だと信じて、全てを語った。
さしたら、やっぱり「固い石」だった。
昨日、ここで話したHさんも、「やわらかい石」の人だった。
だから、あっちこっちでぶつかるのは、
周りの人たちが「固い石」の人たちばかりだからだ。
しかし、私が、子どもたちによって救われているように、
Hさんは、一緒に暮ら知的な傷がいを持つ利用者さんたちに救われている。
そして、Sさんは、小千谷の大自然とN中の森に救われているのだった。
確かに、「固い石」ばかりの世の中であるかも知れない。
実は、ずっとずっと昔から、世の中とは「固い石」だったのだろう。
そのことをよく知っている人たちは、
やっぱり自分も「固い石」にならなければ、
生きる位置や立場が危ういことも知っている。
だから、「固い石」に自らなっていく。
その「固い石」は、実に不自由で、頑固で、融通のきかない石だ。
しかし、随分頑固に固く固くならないと、出世はしない、昇進しない。
つまり、固い固い石だけが、この世の中では偉くなれるのだ。
そのことを知っている人たちは、それなりの地位や役職で生きている。
しかし、その反対の「やわらかい石」は、
誤解され、批判され、受け入れられず、拒否をされる。
しかし、そうであっても、そうであるからこそ、
きっと、Sさんも、Hさんも、私も、「やわらかい石」のままで生きると思う。
死ぬその臨終の最期まで「やわらかい石」で生きていたなら、
その時、私は、私のことを褒めたいと思う。
そして、「生きて来てよかった」と、思って死ぬのだと思う。
「固い石」の人たちは、何を想って死んでいくのか。
それは、「やわらかい石」には想像もできないことでもあった。-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
icon拍手者リスト
-
コメント: 全0件