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from: クマドンさん
2020/08/28 06:58:26
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63歳 雲起きる時
今日から63歳を生きる。
というか、これは通過点の一つにしか過ぎない。
今朝、気付いた。
「生まれる」と「生きる」とは、同じ漢字だ。
だから、日々「新たに生まれ、新たに生きる」それでいいと。
奇跡が起きた。
あの「お前は、生きている意味があるのか」のししとうが、
4㎝くらいの小さな緑色の実をつけていた。
「へぇー」との驚きだった。
「ほら、みたことか」かな。
ちゃんと生きていたし、ちゃんと実をつけていた。
私は、そんなししとうのことを想いながら、朝食を食べていた。
そしたら、何でもそれでいいのではないのかと、ふと気付いた。
つまり、「そのままでええ」と言うこと。
余計な心配も、お世話もいらないと言うこと。
それは、それなりに、生きるということ。
「大丈夫なんだなぁ」を改めて知った。
小千谷のSさんにそのことを話した。
実は、大事なことは、何もこだわらないことですねの話だった。
考えたところで、悩んだところで、
ししとうは、その私の気持ちを察して、実をつけるわけでない。
ししとうは、このまま葉っぱを大きくつけたまま、
枯れて行っても、ししとうには変わりない。
それでも、生きる。ただ生きる。生きていいる。
それでけで、それでいい。
そのうちに、ひょいと気付いたら、小さな花をつけ、実をつけている。
何だか、庭の出来事を見ていると、
何でもそのまま、そのように、そうなったかで、いいのではないのかの気付き。
その内に、私は、ししとうになり、なすになり、トマトになっている。
育てているのではなくて、共に育っている私。
私がししとうで、ししとうが私。
その「同事」で、いい。
だから、何をしてやればよいのだではなく、
共に生きているものとして、感じて、動けばそれでいいのではないのか。
こちらが空っぽだと、そうしたいろいろな気持ちや感情や想いがやって来る。
それは、庭に生きている花や野菜や野草たち。
すずめに、蜘蛛に、蝶や、トカゲたち。
ふと、それを見ると、それになる。
自分を捨てるとか、自分を放下するとか、そんなたいそうなことでなく。
ふと、それになる。
同化するというのか、そのものになっている。
そのことが、心地よく、そのことで、分ち合える。
自分なんて、いらないよなぁ。
自分があるから、ごつごつとぶつかり合う。感情をぶらす。イライラする。
自分なんてどこにもなければ、ぶつかる相手もいなくなる。
例え、そこにごつごつした固い石があっても、
こちらが空っぽなら、それはた固い石がそこにあるだけ。
私は、きっとその石や岩の間を、水のようにすーっと流れる。
ひっかからない、とどまらない、こだわらない。
長い引用になる。唐木順三著「良寛」からの抜粋だ。
「其処、そのところは、名山霊峰も、障壁瓦礫も、ともどに在るところ、のみも
しらみも、うぐいすもつるも、ともどもに在るところである。山川草木、有情
無情がただ其処に確乎として存在する。同じ資格において存在する。善いとか、
美しいとか、或いは悪いとか、醜いとか、そういう形容の以前において存在する。」
「もし平等というなら、これほど平等なところはない。のみ、しらみが、うぐいす、
つると共に、おのれなりに、おのずからに在る。その運命を背負って平然として
在る。さらに言えば、其処に生があり死がある。生は生として在り、死は死として
在る。生の終わりが死なのではない。生は生、死は死、各各独立して在る。」
「存在も、生起も、消滅も、孤独、「独」のままに在る。そしてここで飛躍して
いえば、ここが仏教の「慈悲」の働くところである。取捨選択の道徳とは次元を
異にする慈悲は、こういう存在の平等世界を確認した上のねのである。」
山川草木、生きとし生きるものは、全て「平等」な生きる命だ。
元来ただ、これこれと、良寛は言っている。
本当にそうだと思う。
ただこれこれ、それが在るだけ。
そこに生きたい。
「行到水極処 坐看雲起時」 王維
「行きては到る、水、極まる処。坐しては看る、雲、起きるの時」
今は、水、極まる処だ。
そしたら、坐することだ。きっと、雲がわき起こることを、感ずるはずだ。
ここまでは、来た。
ここから先は・・・。-
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