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from: クマドンさん
2020/09/12 07:51:46
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ゴリラに学ぶ
今日は、ゴリラの話をする。
元京大の学長で在り、霊長類学者である山際氏の話からだ。
ごりらは胸を叩くドラミングをする。
あれは、拳骨ではではなく、平手で叩くそうだ。
その方がよく響くことをゴリラは知っている。
その意味とは何かと言うと、
実は、人はゴリラとはとても凶暴な動物だと勘違いしているが、
本当は、あの行為とと相手と闘いを回避するための行為なのだそうだ。
つまり、あれは自己主張であり、
お互いに闘わずに引き上げましょうと言う合図だった。
もし、闘いを初めてしまったら、勝ち負けを決するまで闘わざるを得なくなる。
その時、敗者はとても惨めで、その威厳を失うこととなる。
群れの中の父親としての存在である彼は、
群れのみんなが見ている前で、その威厳を失うわけにはいかない。
だから、闘いになりそうになると、
ドラミングで、お互いの気持ちを交流し合う。
その時、その闘いを収める仲介者が現われる。
それは、2人よりも弱いゴリラなのだそうだ。
そのゴリラが二人の中に割って入る。
そして、じっと相手の顔を見る。
すると二人が冷静になり、お互いがお互いの群れに去って行く。
合理的に考えたら、どちらが強くて、どちらに優先権があるかは了解している。
しかし、勝負をしたら、どちらかが傷つき、惨めな立場に立たされる。
そのことを知っているので、お互いの面子保つために、
その無益な勝負・闘いを回避するということだった。
山際氏は「人間よりもずっと上品な社会なんだ」と言っていた。
実は、ゴリラの研究者になったのは、
人間の本質をゴリラを通して知りたいからだとも言っていた。
ゴリラを知ることで、人間が失ってしまった何かを発見できる。
その信念で、アフリカに行き、そのゴリラの群れの仲間として共に暮らした。
ゴリラのコミュニケーションはどうするか。
それは、顔と顔とを合わすことだ。
人間が言葉を創り出したのは、まだ何万年前に過ぎない。
その前の何百万年は、言葉でなく、コミュニケーションをとっていたはすだ。
だから、言葉によるコミュニケーションではなく、
顔と顔とのコミュニケーションが本質的な繋がりであるはずだ。
それが、お母さんと赤ちゃんにも、恋人同士にも顕れているそうだ。
相手との一体感。
それは、「共感」する力だ。
相手と自分の心を合わす力。
仲間の痛みがよく分かる力。
子どもを命懸けで守る力。
罠に挟まれた仲間を救う力。
ゴリラにはあるこの「思いやり」が、人間から失われ始めている。
それは、山際氏がゴリラから学んだことだった。
言葉とは、内面の気持ちを伝えるものではないか。
それは、リーデングの稽古で私が発見したことでもあった。
気持ちが先だ。言葉は、後なんだ。
ゴリラはそうやって言葉を交わしているそうだ。
「オ、オ、オ、」で怒りを、
「ホッ、ホッ、ホッ」でクエスチョンを、「お前は、誰?」を、
「オッ、オッ、オッ」で不安を表情と共に伝える。
山際氏もそのゴリラ語でゴリラたちの仲間と認められた。
ゴリラが家族単位で行動できるのは、父親が存在感をもっているからだそうだ。
父親がいることで、社会的な役割を子どもに伝えられる。
チンパンジーは発情期になると乱婚で複数のオスと交尾する。
つまり、父親がどのチンパンジーかは、分からないそうだ。
だから、父親としての威厳は、その群れの中では見られない。
しかし、ゴリラの父親は違う。
子どもを安心して預けられる存在しとして、群れのみんなから認められている。
父親を中心とした、みんなの合意によって、家族は形成されている。
そして、家族とは、二つの異なる組み合わせて成り立っている。
それは、夫婦と親子とだった。
夫婦とは他者同志の組み合わせで在り、親子は血による繋がりだ。
その異なる組み合わせの中で平和的にお互いが生きるためには、
ゴリラは集団を10名~15名の数でとどめているそうだ。
この人数は、サッカーとラグビーの人数なんだ。
この人数であると、「共鳴集団」として成立することを、
ゴリラは知っているのだそうだ。
つまり、お互いが顔と顔とを合わせて、付き合って行ける関係。
お互いの気持ちや感情を理解して、かかわっていける関係。
つまり、ゴリラは「平和」にお互いが生きて行くための術を知っているとのことだ。
ゴリラには、深く深く「平和」を愛する心がある。
仲間を思いやる「共感」わもっている。
もし、大きな集団に展化してしまうと、相手の顔が見えない集団となる。
すると、この「平和」が保てないことを、ゴリラは理解しているということだった。
では、人間は、どうか。
戦争をして、他国を侵略し、人殺しを行い。時には、皆殺しにする人間。
愚かな者は、ゴリラだろうか、人間だろうかの「問い」だった。
それでは、何故、人間は戦争をしてはまうか。
それは、相手の顔が見えない大きな集団を形成し、
その集団に自分が属していると信ずるようになったからだと山際氏は語った。
つまり、自分が見たことも会ったこともない人たちの集団に属し、
国家が生まれ、その国家の利益を守ると言う正義によって、
命を投げ出し、相手の国の人たちの命を奪う。
架空の巨大な国家と言う集団をが、戦争を創り出している。
次に、食糧生産の問題だった。
移住生活・移動生活では、その属する集団が、自分の集団だった。
ところが、定住するようになり、家を建て、家具を持ち、
その土地で暮らすようになると、
境界が生まれ、他の集団との対立・抗争が生まれる。
そこでは、お互いのアイデンティテー同士が衝突する。
つまり、日本国家に忠誠を誓い、その自己犠牲を称賛し、共感する。
大きな集団のために命を投げ出す。それを国家への愛と考える。
それが、「戦争」なんだと、言うことだった。
ゴリラには、戦争はない。
いや、集団で相手の縄張りに攻め込んで、皆殺しをするのは、
この地球上の生物体では、人間だけではないだろうか。
つまり、「共感」「思いやり」「平和」においては、
最も劣り、愚かな生き物は、人間なんだと言うことだった。
ゴリラには、それがある。
そして、尊厳と威厳とをもって誇り高く生きている。
顔と顔とを合わせて、相手の気持ちや感情を理解する力もある。
抑制力があり、無益な闘いを回避する知恵と勇気とを持っている。
そして、お互いは対等で、平等な存在てして認め合い、
分かり合うための努力を惜しまない。
本質的には、「平和」が生存するための基本原理なんだ。
ゴリラは、その平和に生きるための知恵を、本能として与えられている。
きっと人間も同じ生命体として、
この身体にはその知恵が授けられていると私は、信ずる。
しかし、どうしてこんなに愚かな人間となってしまったのか。
生きるならば、戦争の無い平和な群れの中だなぁ。
そんなことを実感だった。
今こそ人間は、生命体としての原点に立ち、
ゴリラから学ばねばならないのではないだろうか。-
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