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from: クマドンさん
2020/10/17 07:29:55
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腹痛の人間ドックだった
昨日は、夜中から鳩尾の辺りに痛みが続いた。
胆石なのかと心配したが、そうではないようだった。
原因不明のこうた腹痛は、何とも不安な気持ちに私をさせる。
「あれがあったから」「これ」なら分かる。
そうではないから、「どうしたんだ、私の身体」だった。
「お願いします。治ってください」だった。
実は、朝7時30分から健康センターで人間ドックの予約だったからだ。
腹痛をかかえたまま、ドックを受ける・・・・。
「そんなこと、ありですか」だった。
前回の予約は、自転車電柱激突事故でキャンセルをした。
今度は、腹痛を理由にキャンセルするわけにはいかない。
「うううん」と唸りながら、とりあえず車を発射させた。
「成るようになるものだ」と、最近は無謀にも勝手にそう思って生きている。
早朝7時30分、何と広い広い400台収容の駐車場が半分車で埋まっていた。
こんな世界もあったのだの驚きだった。
全てベルトコンベアーに乗せられたようなシステムだった。
私は、問診票と検査の終了のハンコを押す用紙を持たされ、
指示される先に、次々と渡り歩くだけの「もの」になった。
私は、いつしか、私を「ひと」としてではなく、「もの」として感じた。
対応する看護師は、マニュアル通りのロボット対応。
一人にかける時間を極力短くし、
こなす人数を多くするために、効率とスピードが優先だった。
私が、採決された後、私は、彼の記憶には遺らないはず。
クマさんと言う私から採決をしたのではなく、
差し出された「もの」としての右手から血を三つのカプセルに採っただけ。
ロボットがやれないから、人がやっている。
まぁ、ここには、「ひと」の温かな温もりは感じられない。
とにかく、私を検査しながら、次の「もの」のことを考えているからだ。
主任のように人が、目を光らせている。
少しでもこの「もの」の流れに遅滞がぁってはならないからだ。
ここでは、「失敗」「やり直し」「遅れ」は許されないことだ。
誰が、一定時間にどれだけ「もの」を処理するか。
そのことがここで働く人たちの「勤務評定」となるのだろう。
一日何百人に対して、同じ口調で語りかけ、「もの」を採取し、
「もの」のX線写真を撮り、「もの」を測定する。
何だか、人間を摸するロボットたちの世界に迷い込んだみたいだった。
検査着を付けて椅子に座る私たちもそうだった。
全て「番号」で呼ばれる。
呼ばれたら立って歩き、指定された番号の椅子に座る。
そして、マニュアル通りに検査の説明を受け、
視力検査の為に番号のマークの空いている箇所を言う。
腹痛はその間も続いた。
その中で、腹部エコーを受け、バリュームを呑んだ。
何よりもあの胃の検査のアクロバットプレーには参った、参った。
「これ、70代、80代のお年寄りもやるのですか・・・」だった。
生きることは、検査することなんだと、よく分かった。
しかし、よくよく考えたら、
この歳になって、病気の1つや2つあるのは当たり前だ。
血圧は160だった。視力は左目が0.9。右耳は難聴で生まれた時から聞こえが悪い。
高脂血症であり、脂肪肝はいつもいつも指摘される。
緑内障が心配だから、眼底写真はオープションで撮影してもらった。
しかし、見え方はそんなに変わったわけはない。
さてさて、簡易人間ドックは、事業者負担なので7500円相当は無料だった。
しかし、腹部エコーと眼底写真で、8500円は自己負担だ。
これを人間ドックにすると、17000円の負担増だ。
でも、本当に、個の検査って必要なのかの「疑問」だった。
これは、治療するためのお金ではない。
どこか身体の不具合があることを、いち早く発見するための検査のお金だった。
そこで、再検査が必要になり、また病院に戻され、
再検査の結果、異状はないが要観察となる。
ここでまた、個別に検査費用が発生する。
さてさて、当たり前のように健康な身体で生きるために、
人間ドックは必要なんだと思い込まされている私。
この私の身体は「もの」として扱われ、
2週間後にその結果が出て来る。
そこで、再検査をと言われたら、本当に不安と心配の種となる。
でも、よくよく考えてみたら、私の身体は自然な生き物だ。
歳をとれば、どこか必ず衰え、弱り、不具合が起きる。
死ぬ2年前まで酒を呑み続けた父は、それでも85歳まで生きた。
私は、何だか健康産業に騙されているのではないのかと、
ふと考えた。
「人間ドックを受けないと、手遅れになりますよ」
現役時代は、家族を守るために、働き続けることが求められた。
それは、この身体の健康を前提としている。
だから、毎年、必ず人間ドックを受診した。
いつもCとDの好成績だった。
それでも、癌にもならず、胆嚢は摘出されたが、こうして病にもならず生きている。
例えば、ドックの費用を保険だと考える。
しかし、その結果、私は高血圧と高脂血尿酸の3種類の薬を飲まされている。
毎月、治療費と薬代とで5000円はかかる。
年間60000円が、いつもいつも医療費で消える。
しかし、本当にこの薬は、必要な薬なのかの「疑問」だな。
ある意味、人生の見直しを今は、しなくてはならない時節になった気がする。
削減できるものは、削減する。
不必要な物は購入しない。
月々定期的に支払わなければならない会費や保険料や利用料を見直す。
とにかくこの歳の身の丈に見合った生活に切り替える。
それが、私の人生における「断捨離」なのではないだろうか。
慎ましく生きる。
贅沢はしない。
あるもので生きる。
無理や背伸びはする必要はない。
社会的なお付き合いを減らす。
不義理もしよう。
そんな生き方、考え方にシフトが替わってきたようだ。
庭に百日紅の葉が、散っていた。
それを箒で集めて、袋に入れた。
あれだけ旺盛に力強い緑の葉も、
今では、端が赤く、縮まり、固くなって地面に散らばる。
季節が移った。
自分の役割は、終わった。
だから、枝から手を離し、自ら散って地面に落ちる。
自然とは、そういうものだ。
私のこの身体は「もの」ではない。
自然のままに生かされている「いのち」そのもの。
どんなに「治ってください」と言っても、腹痛は和が無い。
つまり、私の意識や意志とはかかわりなく、身体は独立自在に生きてくれる。
でも、別々なのではなく、
一体の中の果たすべき役割が別々なだけ。
思い通りに行かないのは、人生だけでない。
この自然体である身体そのものがそうなんだ。
だから、身体の声を聴く。
身体に対してリスペクトする。
そして、身体そのものを信頼して生きる。
つまり、身体の自己治癒力と蘇生力なんだな。
その「生命力」が歳と共に衰え、弱るのは生きているものの性である。
それを「受け入れる」それを「しみじみと味わう」そして、「了解」する。
その生き方と、
何だか検査工場のオートメーション「人間ドック」はそぐわない気がした。
ただねこのことで不安や心配の種をつくるだけ。
医療機関に繋がれて、治療と薬でがんじがらめにされるだけ。
では、ないことはよくよく分かっているが、
知らなかったら、知らないままで、生きてもいられるのではないかと、
満席の広い広い待合室で座りながら、
私は腹痛を堪えつつ、そんなことを考えていた。-
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