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from: クマドンさん
2020/10/18 06:53:23
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試練があるから、回心がある
どうも体調が、いまいちだ。
そんな時もあるさと、自然のなりゆきにまかせている。
やっぱりまず身体なんだ。
身体が不調だと、何をやっても気分は優れないものだ。
よくよくその原因を考えてみたら、
いくつかのことがヒットした。
まず、先週は毎日6キロを4日間歩いたことだった。
「山に戻ろう。登山を復活しよう」と、ふつふつとまた山への憧れだった。
きっちょむさんの300名山や、百名山のテレビ番組を観て、
私の心と身体がうずうずと始動を始めた。
「ならば、ます、歩くことだ」
そこで、思い立ったことは、仕事とウォーキングとの両立だった。
そして、4日間で24キロ踏破した。
疲れるのは当たり前だな。
本当に「加減」というものを知らない男だ。
次に、酒だ。
不調でも酒は飲む。
風邪をひいても酒は飲む。
朝、吐いても、夜、酒は飲む。
まぁ、本来身体にとってはよいことなのに、
それを不調・不具合の時も、飲み続けている。
これが何よりもの災いの元だな。
身体の事情によっては、禁酒もいたしかたない話だ。
しかし、酒が習慣となっているこの生活を、やはり何とかせねばと思う。
それから、慢性的な睡眠不足だな。
早くて10時。遅くて11時前には就寝することにしている。
しかし、起きるのが3時40分だ。
毎日の睡眠時間は、5~6時間だな。
それに、途中で起きてトイレに行くこともある。
つまり、実質の睡眠時間は、どれだけのことか予想はつくはず。
昼、仕事をしながら、眠くなることも多くある。
立ったまま眠りそうになり、はっとして目を覚ます。
この睡眠不足も、身体を弱らせる原因の1つだ。
つまり、運動はほどよいくらいが丁度よい。
お酒も、禁酒は無体なことだから、これも程よくたしなむ程度に。
睡眠は、日頃不足するなら、休日に余分にとるなど工夫する。
身体の疲れを感じたら、予定を入れず、布団に入る。
身体をいつも動かしていないと気が済まない性分なのだが、
その日は、怠惰であることを自分に許す。
これだなぁと、この腹痛の日々の中から、私は、学んだ。
試験とは、このように私が、私にリセットさせる機会となるものだ。
私は、腹痛に唸りながら、そんなことを考えていた。
もし、この痛みが無かったとしたら、
私がこの無理な生活に寄って身体の変化を感じられなかったとしたら、
身体はもっともっと弱り、衰え、取り返しのつかない状況に陥ったと思う。
痛みは、それ以上、身体が悪くならぬように警告を発してくれた。
試練とは、そうした「警告」なのではなかったかの気付きだった。
「よく、ここまで、生き延びたなぁ」と、思うことが多い。
本当に「死ぬ、生きる」は、何度も私には与えられた。
その度に、どん底の暗闇を味わった。
しかし、そこで気付いたことは、今の自分では駄目だと言うことだった。
いつもその試練の中で、「生きるとは、何か」の「問い」が生まれた。
「これで、いいのか」「これで、幸せなのか」という、切実な「問い」だ。
その答えは、いくに頭で考えても、分からないことだった。
確かに、その試練を乗り越えて来た人たちの言葉は、力となった。
しかし、自分は、その言葉を記憶したからと言って、
その言葉を生きる人となったわけでもない。
つくり、言葉が、その言葉そのものが腑に落ちなくては、
その言葉は、言葉としての「意味」をもたない。
この身体で気付く。身体で分かる。
そのことを私がやるために、そうしなければ生き延びられないたら、
その試練は私に与えられているのだと、
私は、信じられるようになった。
つまり、試練とは、新たな人生に一歩踏み出すためにあるのである。
そして、人は、その試練を与えられない限り、
自分自身が可愛いから、この自分を捨てられないのだと、私は考えた。
「捨ててこそ」なんだ。
しかし、平穏無事のその人生の最中に、突然「捨ててこそ」とは思わぬものだ。
大きな壁とぶつかり、絶望のどん底に落とされ、苦難の道を歩かせられるとき、
初めて、人は、自分と向き合う。
そして、自分と語り始める。
その時、生きるための本当の「問い」が自分から生まれる。
つまり、この「問い」は、自分から与えられる問いなんだ。
「やっと気付いたね」「待っていたよ」「さて、これからどう生きるか」
この問いは、自分が築いていなかったその深く深くで存在していた自分。
その自分からの深い深い「問い」なのだ。
しかし、それまでの人生においては、自分勝手に、「俺が」で生きられた。
その「俺が」が全く無力で、どうにもならず、愚かで、罪深い俺だと気づいたら、
さてさて、今日から、私は、どう生きればよいのかと、途方に暮れる。
試練とは、そのために与えられているのだった。
この「問い」は、身体からの問いである。
この「問い」は、いのちからの問いである。
「お前は、どうこのいのちとこの身体とを使う気なのだ」
「自分だけのためか。それとも、誰かのためか」
「お前は、お前のことを頼りになるのか」
「腹痛すらどうにもならない、お前なんだ」
「これからも、お前は、お前の思い通りを生きるつもりか」
確かに、このどん底で出会う問いは、根源からの問いであった。
「どう、生きるか」
試練は、人にその自分自身の生き方を問い直し、見つめ直す力を持っている。
大事なことは、ここで「待つ」ことを忘れないことだ。
根源からの問いには、根源のみが知る答えが必ず存在しているからだ。
その答えに気付かず、その答えに行きつかないで、死んではならない。
そこから先は、その答えを探し求める探究の旅なんだ。
「問い」を持ち続ける。
そして、あらゆることに「意味」を感ずる。
出会ったこと全ては、この答えに通ずる道である。
それを信じられるか。
頭でなんかものを考えては、駄目だ。
頭で考えれば考えるほど、闇は深くなり、迷いの道に深く入り込む。
どうにもならなくなるから、やめろ。
とにかく、身体の声なのだから、身体にその答えを求めることだ。
身体との折り合いをつけて生きる。
身体を大事にして生きる。
それは、「いのち」としての自分を生きることとなる。
フランクルが言っていることは、これではないだろうか。
「あなたはどう生きるのか。いのちは、あなたにそう問うている」と。
「私が、どう生きたいのか」ではない。
もうそろそろそこから、視点を変えることを勧める。
とにかく、いのちに対して真摯に応えて生きることだ。
いのちであるこの身体を大事に生きることだ。
そして、どこかで自分を捨てて、他者のために生きることだ。
それを、回心と言う。転衣と言う。転回とも言う。
これは、試練を経た者にしか与えられない、天の恵みだった。
私の金曜日からの腹痛は、そんな大事を私に考えさせてくれた。-
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