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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2020/10/19 07:01:12

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    不思議だなぁを味わおう

    心の時代「禅に聴く」
    山川宗玄さんのお話。

    彼が大学生のころ、いかに生きるかの問いで悩んでいた頃の話。
    北海道の牧場にアルバイトに行き、働きながらも問い続けていた。
    そんな時、実家に帰って、何気なく観たテレビで、映画をやっていた。
    観るともなしに、観ていたら、
    雲が映り、その雲の隙間から、一筋の光が地上に届いていた。
    その光の中に居て、その光を仰ぎ見ている若者がいた。
    彼は、歓喜の表情で、その光を仰ぎ見ていた。

    その瞬間だった。「出家」しようと、決心した。
    そして、すぐにこの禅道場に飛び込んで、修行僧となった。
    それから30年以上たったある年。
    ブタペストからの視察団がやって来た。
    彼は、その視察団を案内し、道場について説明した。
    すると、その団長が、「来年もここに来たい」と言ったそうだ。

    そして、その約束通りに、翌年もこの「正眼寺」に視察団はやって来た。
    そして、お茶を飲みながら団長と彼が話していた時のことだ、
    彼が一本の映画を観たことで、出家をしたと話したら、
    その団長が、とても驚いたそうだった。
    「その映画の監督は、私です」

    「人生には、こんな不思議なことも、あるんですね」と静かに語った。

    不思議だなぁと、Sさんとよくよく話す。
    それは、何か自分の生き方や、過去を振り返った時に、よく感ずることだった。
    まず、よくここまで生き延びられたなぁということだ。
    私も彼も、今、この歳になっていることを、それだけで感謝している。
    Sさんは、83歳。私は、63歳。ちょうど20年間の歳の差だ。
    この歳の差は、いつまでもいつまでも生きている間は変わらない。
    その二人が、いつも「問い」をもって語り合っている。

    それから、いつも想うことは、「あれがあったから、これがあった」ということ。
    そうやって考えたら、全部私に起こった全てのことは、
    今、ここ、自分に繋がっているということだ。
    何だか、1つの物語を生きているようだった。
    あの苦しみ、あの悲しみ、あのどん底、あの絶望。
    みんなみんな、今、ここで、生きて行くための試練だったということ。
    それは、振り返ってみたら、なくてはならなかったことだった。
    あれがあるから、今がある。
    その気付きは、とてもとても尊いものだった。
    私たちは、今、ここで、自分の人生を受け入れられている。

    自分の生きて来たその人生を受け入れられる。
    そのことこそ、生きることの喜びであり、感謝ではないだろうか。
    「ああ、生きて来られてよかった。よかった」
    Sさんは、時々、嬉しさが込み上げて来て、笑顔になると言っていた。
    この朝も、夜中からの行脚をしているはず。
    まさに、修行僧そのものだ。
    歩きながら、彼は、闇から微かに聴こえる音に耳を澄ます。
    彼の感覚が、開かれ、敏感に輝いて行く。
    すると、感じられるし、分かるのだ。
    それは、確かに説明はできないし、説明をしたくもないことだ。
    でも、そのことを「了解」する。

    二人でよく話すことは、「その了解が大事なんだ」だった。
    それは、身体が分かるということだ。
    実は、身体そのものは、生まれる時から分かっていることなんだな。
    分かっていながら、Sさんも、私もこの世に生を受けて来た。
    ところが、だんだん大人になるにつれて、「我欲」「我執」が頭をもたげる。
    「俺かやらねば、誰がやる」そんな自負と矜持だな。
    30代・40代ととにかく突っ走って生きて来た。
    どれだけ討ち死にをして、起死回生とばかりに、立ち上がり、また突撃だ。
    確かに、二人はその時代を生きていた。
    その実感を十分に味わってもいる。
    だから、「馬鹿でよかった」とも思っている。

    ふりかえれば、師に出会う。
    Sさんには、大学のk先生だった。
    私には、書家のK先生。山小屋のMさん。そして、牧師のS先生だな。
    私が、人生の岐路に立ち、立ち往生している時、
    いつも先生たちは、私を励まし、私を立たせ、あっちだと行く手を指し示し、
    こんな愚かな私を歩き出させた。
    だから、よくよくその道を、とぼとぼと、おろおろと、時には溜息をつきながらも、
    ここまで歩き通せたと言う感慨なんだな。
    この師たちとの出会いも、神様の用意してくださった備えだった。
    Sさんの生き方の芯には、K先生の教えがしっかりと根付いていた。
    私の私としての在り方もそうだった。
    この師たちに出会わなかったら、今の私は、きっと居なかったと、そう思う。

    それから、よく二人で話す、苦い後悔だった。
    それは、ソーシャルに夢中になって追い求めるうちに、
    家庭のことを顧みなくなっていたことだった。
    特に、妻とのかかわりについては、今、改めて、再構築をしている。
    再構築と言うが、本当は、新たにたてまいを行い、新築をしようと言うのだ。
    妻との関係を、改めて、築く。
    築き直すなんて生易しいものではなく、
    ここから、「理解」と「了解」が始まるということだ。
    Sさんは、結婚50年。私は30年だ。
    お互いに妻に対しては、罪深い二人だった。
    だから、自分を今こそ小さくして、理解する努力を自らに嫁せた。
    それは、十字架のようなものでもあった。

    「ああ、これからがおもっしぇね」
    「毎日、毎日、嬉しいばかりだて」
    「身体に気持ちいいことだけをするさ」
    「これから何が起るか、期待しているて」
    これが、83歳の日々を生きる喜びだった。
    「日々是好日」をまさに、彼は今日も生きている。

    お互いに、この歳になって、こんな自分を生きられるとは、想像もしていなかった。
    でも、今は、このことに気付いて、日々を、感謝しながら生きている。
    よく思う。「不思議だなぁ」と。
    私は、二日間腹痛だった。おかしい。どこか病んでいるな。
    しかし、この身体の自然に与えられた治癒力を信じている。
    不思議なことは、いつもいつもこの身体には起こることだ。
    だから、いつか治ると思っている。
    余計な心配はしない。きっと、なるようになるからだ。

    今日だってそうだ。
    昨日、あれだけ教会の庭の荒れ果てた樹木の剪定だった。
    くたくたに、ぼろぼろに、疲れ果てた。
    それなのに、今朝は、起きて、これを書いている。
    この身体の驚異的な回復、思う。

    山川宗玄さんが教えてくれた。

    「現成受用」ですと。
    「神や仏の自然界・宇宙界は、あるべきようにあるものです」・・・「現成」
    「だから、人はただそれを素直に受け入れればそれでいいのです」
    「そして、それを受け入れられるように知恵を使うことです」・・・「受用」

    「ただ見て、聴き、それを受け入れて行く」

    「置かれた状況で、最善を尽くすことですね」

    「そうすることで、本来の能力を引き出すことができます」
    「人には、苦しくなっても、そういう力があるものです」
    「その力は、法の上での平等。全ての人に平等に備わっています」

    「天地同根 万物一体」

    その大いなるいのちに任せて生きる時、
    きっと私は「小我」が爆発して、「大我」となれるのではないだろうか。
    その「小我」を少しずつ捨て去ることが、私の人生の苦難であった。
    「活き活きとした肉体に戻ることです」と、師は教える。

    その覚悟のある人だけが、この生きることの不思議を味わえる人のようだ。

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