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from: クマドンさん
2020/10/22 07:26:29
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「受容」であり、「受用」なんだ。
「病院に行って、証明をもらって」
まぁ、いいか。
身体は80%の回復だった。
歳をとってよく分かったことは、
無理をすると、とたんに身体に響いて来るということだった。
一日6キロを毎日歩いた。24キロの時点で、腹痛がやって来た。
その時、体力がよほど消耗していたのだろう。
それなのに、仲間たちと酒を呑んだ。
翌日、ダウンだった。それも、人間ドックの最中のことだ。
そんな中での教会の樹木の剪定だった。
「やるときは、やる」が私のモットーだった。
とにかく2~30年間何も手が付けられていない樹木たちだ。
「よしゃ、やってやろう」と、本気になった。
あの絵本の「洗たく母さん」だな。
やり出したら止まらなくなる。
あれも、これも、とにかく次々と伐採した、剪定した。
最後にはくたくたで立っていられなくなり、
後始末は、みんなに任せて、早目に帰った。
それからが、悲惨だった。
身体を使い切る。
その加減が未だに理解できないようだ。
こうなれば、こうなるはすだ。
それなのに、そうした予想がついていても、それをする。
そして、挙句の果てにダウンする。
これかせ私の人生だったな。
しかし、その身体の回復が遅い、遅い。
どうなってしまったのだと、心配になるくらいだった。
昨日まで、みぞおち辺りがまだしくしくということもあり、
「ああ、胃癌かな。スキルス性ってやつかなぁ」と、
ぼーっと天井を見ながらため息をついていた。
胃腸は、それなりに丈夫にできていると自負はあった。
二日酔いで吐くことはあっても、胃腸薬のお世話にはならないからだ。
こうして考えると、
私は、身体との折り合いの付け方が、
まだまだなのだと、改めて悟った。
「やりたいから、やる」
「今日は、無理だからやめた方がいい」
「それは、分かっていても、やりたいから、やってしまう」
10年前なら、あんまりダメージを受けなかったことでも、
今の私の身体は、それなりに正直にダメージを受けてくれる。
そして、回復に時間がかかる。
それから、気付いたことがある。
「元とは、どんな状態であったか、分からなくなる」ということだ。
元気になると言うが、その痛める前の元の身体とは、
いったいどんな身体であったのかの「問い」だった。
今、ここ、一昨日より随分楽になった。
居の辺りの不具合や、もやもや感がすっかりと消えている。
しかし、このどんよりと疲れが遺るこの身体は、
本当に「元」の身体になっているのだろうか。
その「元」の記憶は私にはない。
というか、この身体自体も「元」の記憶は失われているのではないだろうか。
「今、ここ」これが、この身体のベターなんだ。
そう思わなくては、何とも寂しい身体となったような気がする。
「今、ここ、これ」を受け入れる。
それしか、ここを気持ちよくやりきれる道はないなぁと、考える。
「受容」なんだ。
とにかく、「受け入れる」ことなんだ。
この歳になると、そう言い聞かせて生きることが多くなった気がする。
これは、諦めなのだろうか。
私は、そうではないなぁと、思えるようになった。
「元気な身体」とは、既に、私にとっては妄想だけの世界のことだ。
想像をすれば、その架空の元気な身体を重い描くことができる。
「ああ、丈夫になりたいなぁ」
「健康な身体に戻りたいなぁ」と。
しかし、現実は、こうして1週間たっても、7~80%のリカバリーだ。
では、まだまだなのかと言えば、
確かにそうではあるが、
「まずまずなんではないのか」と、思えば、そうでもあるのだ。
「身の丈」「歩留まり」
そんな見切り、了解が、今の私には大事なものの見方考え方である気がする。
ちょいベターなら、満足しよう。
自転車事故の後、仰向けで寝たきりで、少しも身体を動かせなかった。
あの激痛、あの切なさ、それを考えたら、今の私は、回復した私だ。
腹痛がずっと続いた。歩くことも辛く、身体をかがめて、腹を押さえて痛みに耐えた。
そのことを考えたら、こうして胃のことを忘れられる今は、回復と考えるべきだな。
その怪我とその痛みとが無い前は、
私は、何気なく、当たり前に、気持ちよく日々を暮らした。
しかし、その試練と苦難によって、
私は、生きるための身体の自由を奪われ、痛みに耐える時間の連続だった。
「治ってくれ」「回復してくれ」と、私は祈った。
身体のことをとことん考え、向き合った。
「こうなってしまったのは、なぜなのか」と、その原因を追究した。
そして、身体のこまごまとした変化に敏感に対応した。
普段、何気なく生活していた時、私は、きっと身体のことを忘れていた。
そして、当たり前に何不自由なく生活できるこの身体と健康に、
感謝することを忘れていたと思う。
「当たり前」にしてしまうと、「ありがとう」が消えてしまう。
本当は、日々ありがとうであったのに、
その気持ちを失う。忘れる。
そんな時だな、試練と苦難がやって来るのは。
私にとっての10月は、そんな気付きの時であったようだ。
元の身体に戻りたい。
ということは、元の身体がありがたいということだった。
当たり前の日々の生活。
しかし、それができるのは、こうした突然の試練と苦難が無いからだ。
肋骨の痛みは薄らいだ。しかし、腹這いになると痛みが走る。
右膝は、まだつけない。つくと、びりっと痛みが走る。
胃腸はどうかと言うと、いつも気になっていたみぞおちあたりが、
こうしていると気にならなくなっている。
痛みは無くなったが、微かな違和感が残っている。
疲れは、まだまだ、身体からは抜けない。
だから、庭に出て仕事をしようとも何も思わない。
私は、10月22日㈭の朝、この身体の全てを受け入れることにした。
焦っても仕方ない。後悔しても仕方ない。元の身体と比べても仕方ない。
とにかく、そうやって考えたり、悩んだり、後悔することは、
すべて「無意味」なことで、仕方ないことなんだ。
そう思って、この朝日を浴びている。
歳をとるということは、この「受け入れる」「受容する」を学ぶことだ。
じたばたしない。仕方ない、仕方ない。少しは善くなったではないか。だな。
「受容」と言う。
しかし、「受用」も必要なんだ。
そのことを受け入れたら、その受け入れたままに、用いることだ。
そこに、「活用」という生活が入ってくるはずだ。
例え、どんな身体の状態であろうとも、
そのことを「受け入れる」ことだ。
そして、その身体でもできることのために身体を「活用」することだ。
くずぐず不平不満を言っている無駄な時間は、この「いのち」にはないからだ。
この身体を活用できない場所ならば、
こっちから辞めてしまおうかと思っている。
「受容」であり、「受用」なんだ。-
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