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from: クマドンさん
2020/12/10 07:38:19
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まあ、いいっかは、もうけもの
まだ、お日様は昇らない。
それにしても美しい朝焼けの空と雲の色だ。
明けない夜はない。
そんなことを実感している。
昨日、モツレクの2回目の練習だった。
指導者の顔を見ることが、少し気が引けた。
「何でこんなに何もできない私が、ここに居るのか」
そんな自己嫌悪感と、惨めさの中に居た。
こうした何も出来ない。
そうした無力感はや屈辱感は、
こんな私にとっては、とてもとても大事な経験なんだと、
自らを慰めてはいる。
「まさか、合格するとは、思ってもいなかった」
今更ながらに、それが本音だった。
出来ない私。
それは、よくよく冷静に考えたら当たり前のことだ。
他のメンバーは、この歌を2回3回、過去に歌ったことのある経験者だ。
この合唱団では、初めて歌うのは、ほんの数人のこと。
後は、歌えるその歌をどう磨きをかけるかと練習に励む人。
歌えるどころが、楽譜のどこを歌っているのかさえ分からない私。
それは、それは、惨めな気持ちになるのは、当たり前だ。
つまり、よく考えれば、
その経験者たちも、一番初めは、初心者だった。
全く歌えない状態で、あの場所に立ったことがある人たちだ。
「出来ない」人たちは、修練を重ねることで、
「出来る」人たちとなった。
それだけのことだ。
練習もしないで。楽譜を読めない私が、歌えるわけはない。
ラテン語の歌は、初めてのことで、発音どころか、
どこを歌っているのかすら分からなくなってしまう私。
全く、自分と言う存在が、あの場所では無力な存在で、
ただただ、途方に暮れて、必死になって隣の人の歌についていく。
昨日の隣の60代後半の長身の男性は、視覚障がい者の人だった。
ヘルパーの女性が連れていたということは、全盲に近いのだろうか。
その人が、点字の楽譜を指で読み、
朗々と正確に豊かな響きで、歌を歌う。
何も物おじせず、失敗を恐れず、堂々と、バスでは一番大きな声で歌う。
指導者の栓先生から指摘があり、やり直しを言われても、
何も動ぜず、どっしりとした自信のある態度でラテン語の歌を歌う。
私は、その隣で、その声の美しさに聞き惚れていた。
暗譜で歌うなんか、とんでもない話だった。
全15曲?とにかく全て暗譜で歌えることが、目標だった。
それがどれだけ途方もない遙か彼方の目標であるかは、
歌ったことのある人には、きっと分かってもらえるはずだ。
「出来ない私」と、今は、情けなく向きあっている。
しかし、立ち止まっていては、何も進まない。
本当に一小節、一小節、歌える部分をつくらねばならない。
そうしないと、後、たった5回の練習で、
出演オーデションを1月27日に受けねばならない。
これは、至難のオーデションだった。
みんなプロのレベルを求められている。
それに達していない人を、コンサートで歌わすことはできない。
それは、明確なことだった。
しかし、「出来ない」ことの苦しみと孤独を感じている人は、
「出来よう」としている人なんだと、改めて、私は思った。
「自分を超えなさい」と、演出の笹部さんの言葉だった。
きっと、その自分を超える人とは、
この「出来ない」ことの惨めさと無力感、孤独感を感じている人だ。
何故なら、そんなことに挑戦をしようとしない人には、
この「出来ない」気持ちを、味わう必要の無いひとだからだ。
何もしようとしなければ、それでいい。
そうすれば、出来ない惨めさ、無力感、この孤独を、
きっと味わわずに、人生を生きることは、できる。
何も、台詞を覚えず、歌を歌わなくても、
他にやることはいっぱいあるし、楽しみも多いはずだ。
確かに、そうだ。
私も、少なからぬ後悔を感じている。
しかし、63歳は二度と来ない。
この歳に、この二つのビックな機会を与えられた。
それも、偉大な指導者に認められたからの、役であり、合唱団員だった。
ただ、本当の闘いはこれからなんだと言うことだ。
指導者は、私ならきっと出来ると思ったから、
私にその役を与え、私の歌声を合格とした。
しかし、それは、何の始まりでもないのだった。
始まりは、私が、そのことに没頭し、修練する日、その日のことだ。
それからは、全ての努力を私に委ねられた。任せられた。
「さて、どうする」だった。
ここまで追い詰められないと、自分を超えた自分とはなれない。
つまり、今の自分は、挑戦を決意した途端に、出来ない自分になっている。
挑戦なんかもし、想いもよらなかったら、
私は、出来ない私にもなっていない。
挑戦を決意し、その役に選ばれたから、
私は、「出来ない私」と、成らざるを得なくなった。
それは、「出来た」と言うのは、私ではないからだ。
指導者が、「よし」「出来たな」と言わない限り、
私は、いつまでも途上の「出来ない私」で居続けなければならない。
それは、何と惨めで、無力で、孤独なことかと、考える。
それでは、「出て来る」ものは、一体何なんだの「問い」が生まれる。
私は、何を出て来させたくて、こんなに無力感を味わいながら、
練習を独り続けているのだろうか。
そんなことを、考えることもある。
しかし、本当は、簡単なことなんだな。
「褒められたい自分を捨てる」
「よく見られたい自分を捨てる」
「格好つける自分を捨てる」
この「出来ない自分を恥ずかしいと思う自分を捨てる」
出来なくてもいい。
みっともなくてもいい。
何度も何度もやり直させられる自分でもいい。
失敗してもいい。
不合格でもいい。
で、「いい」と言える自分になれるか。
そこを、この挑戦は、私に「問う」ているのだと思っている。
つまり、そういう自分になった時、
やっと「出来る私」になるのだった。
自分を超えるということは、
どれだけ「俺が」「俺が」の自分を殺して、捨てるかと言うことだ。
捨て身にならないと、確かに、自分なんて超えられるものではない。
その「捨て身になれ」と、神は私に命じ、
そのことを、この二つの試練でやりとげろとの、意味なんだな。
「捨てて、こそ」きっと、私は、「出来る人」になる。
つまり、まだ欲目をもって、私を勘違いしたまま、
今の私で生きている間は、その本当の「意味」をしらぬまま、
生きて行かねばならないのだろう。
「捨て身になれ」とは、「人に笑われてもいいと思え」ということだ。
「見栄を張るな」「裸のまま、出来ない自分を曝け出せ」
そういうこだと、今、ここで、悟った。
「出来ない自分でも堂々として居ろ」ということなんだな。
「まぁ、いいっか」「やって、みるか」「駄目で、もともと」
その境地で、練習を楽しめるように成れば、
きっとそれだけでも、儲けものなんだと、今、気付いた。-
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