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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2020/12/11 07:06:30

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    日々を気持ちよく生活するためには

    まぁ、どうすれば、毎日を気持ちよく生活できるか。
    そのことを最優先にして、生活を工夫する。
    まぁ、やっぱりできなくて、しょんぼりすることも多いが、
    そのトライだけは、忘れないでいようと思う。

    ある時、ふと気付いた。
    「めんどうだ」「やりたくない」「後にしよう」をやめてみたらと。

    つまり、食事を造る時のことだった。
    私は、料理をしながら、後片付けも同時進行で行う。
    野菜を切り終わったら、きれっぱしや皮を捨てる。
    包丁とまな板を洗って、片づける。
    味噌汁をお椀にもったら、直ぐに鍋を洗って、棚に逆さに置いておく。
    フライパンも、料理を皿に盛ったら、直ぐに洗う。
    冷蔵庫から出した食材は、終わったら冷蔵庫に戻す。
    調理台の上をダスターでさっと拭き、流しもピカピカにする。
    それから、食事に取り掛かる。

    食事を終わったら、直ぐに食器を洗う。
    使った調味料は冷蔵庫や所定の位置に戻す。
    コーヒーメーカーに水を入れて、
    ペーパーの上にコーヒーを測って入れる。
    そして、スイッチを押す。
    食事した後のテーブルをきれいに拭く。
    そして、コーヒーが出来るまで、
    二階の自室に行って、歯磨きをして、血圧等の三種類の薬を飲む。

    こうした毎朝のルーテーンを、やる身体とする。
    もし、その行動の途中・隙間に、
    この気持ちが入り込んだ時、その行動の一連の流れは止まる。
    つまり、流れるはずの水が流れなくなり、
    溜まる。留まる。すると、息詰まる。どこかで、気持ちを乱す。
    つまり、この気持ちを入れずに、そのまんま。
    何も考えずに、「面倒だ」とは、全く思わずに。
    しかし、その気持ちがふと現われたら、それに負けずに。
    その先に、身体を動かす。行動する。

    これって、日常生活で行われる大事な身体と心の訓練だった。
    「我」が出る。「怠け」が顔を出す。
    「やりたくない」「後にしよう」がささやいて来る。
    そんな時だ、「えぃ、やっ」と、聴かぬことにする。
    まず、一歩その仕事の方に踏み出して行く。
    そして、流し場の前に立つ。水をはる。洗剤を入れる。
    後、することは決まっている。
    それを、何も考えずに、する。

    この何も考えずに、身体が覚えていることを、
    いつものように、いつものやりかたで、さっさと片づける。
    そんな自由な身体を自分自身に身に着けさせるのは、
    この家事が一番の道場であると、私は、思う。

    「あっ、あれを忘れていた」と気付いたら、
    直ぐに、立つ。歩く。その場所に身体を運ぶ。
    すると、躊躇している間もなく、ぐずぐずも出来ない。
    そんな時間は、勿体ないと、私は感ずる。

    しかし、我が家の妻は、全くその反対だった。
    すると、同じように調理をした後の調理台と流しとは、
    全く戦場のような状況だった。
    これをどうやって片づけるのかと、
    途方に暮れることもある。
    でも、それが、彼女の長年培って来たやり方だった。
    それは、それで、いいのだと、私は思う。

    本当に、日常生活とは、そうしたこまごまとしたことの繰り返し、積み重ねだ。
    食事するテーブルの下に、小さなゴミが落ちていることがある。
    足元のことだから気にならない人には、そのままでもいい。
    しかし、気になったら、面倒がらずに、箒と塵取りを持ってくる。
    さっさと掃けば、ものの数十秒だ。
    それで、何だか爽やかな気持ちになれば、もうけものだ。

    床の上に脱ぎ捨ててある噴くズボン。
    それを手に取って、さっとたたみ、部屋の隅に重ねて置く。
    ただ、それだけ。
    新聞も読んだままではなく、たたんで、古新聞のケースに重ねる。
    それを、気付いたら、さっさとやる。

    この「さっさとやる」の生き方は、
    気持ちよい日々の生活・生き方に繋がる大切な作法だと私は、思う。
    「やれる人が、やればいい」とも私は思っているからだ。

    「これは、私の仕事ではない」
    「どうして、ちゃんとやらないのだ」ではなく、
    気付いた私が「さっさ」とやってしまえば、それでいい。
    妻からは、よくよく後から文句と小言を頂戴するが、
    綺麗に片付いていると、それはそれで気持ちがいいものだった。

    これって、実は、禅道場で修業している坊さんたちの作務なんだ。
    「働かざる者、一日食わず」とある師家の言葉だ。
    何で禅の道場には作務が在るか。
    それは、この気持ちよい生き方を、身体に沁みこませ、
    何も考えず、無心になって、そのことに集中し、
    そのことを自然に、すっすと、流れるようにできる人に、
    その人をするために、この作務は、あるのだと私は考えている。

    頭で考えることを、価値のあること、優れたことと、
    私たちは、きっと間違って教えられた。
    実は、そう考えると、身体で働くことを、低く見るようになるからだ。
    しかし、頭で考え、その欲望のまま想うことを、
    仏教では、「迷い」と言い、「妄想」と言う。
    本当に、頭で考えたことは、碌なことはないのだと、私も思う。
    それは、頭で考えることは、自分が楽する、得する、儲けることだ。
    だから、そこに気持ちよく生きることの妨げ、迷いが生まれる。

    「誰かがやる」「俺の仕事ではない」「面倒だ」「そのままでいい」
    これは、自分のことを最優先にした人の考えだ。
    自分がどうすれば楽ができるか。
    どうすれば何もしないで居られるか。
    そのために、身体を動かさないでもいい算段だけが頭をよぎる。
    だから、身体は動かない。

    そこなんだな。
    その隙間を作ってしまうか、どうかで、その人は決まる。
    そんなことを考える隙も与えず、さっと身体を動かす。仕事する。
    そういう人は、自分も傍の人にも気持ちいい人となる。
    やるべきこと、やったらいいことが、目の前にある。
    食べ終わった食器が、流しに積まれている。
    まぁ、直ぐに、それを洗うことに越したことはない。
    その後は、きっとほっと気持ちよくなるものだ。

    その気持ちには、怠ける自分、楽をしたい自分。
    そのちっぽけな自分に勝ち、
    何も考えずに身体を動かせる自分に、成れた歓びではないのかと、
    私は、今、気付いた。

    つまり、「仕事」とは、目の前のやるべき「事」に「仕える」こと。
    もし、これが「仕人」となってしまったら、
    人の考え、気持ちが優先され、その小さな事は成らないということだ。

    自分を先にすると、これが出来ない。
    出来ないと、気持ちよくは生活できない。
    だから、気持ちよく生活するためには、身体が先に動かせる人となる。
    そのためには、日常生活での日々の訓練・修業が大事だ。
    ちっぽけな自我を超える。
    無心で仕事する。
    その隙間の無い生き方に、気持ちよく生活するための秘訣があるように感じた。

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