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from: クマドンさん
2020/12/13 07:22:05
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邂逅は、あるな
話が出来る人は、懐かしい人だ。
そんなことを、Sさんの話から、感じた。
本当にそうだ。
この人とは、いつまででも話していたい。
この人の話を聴きたい。
この人に話を聴いてもらいたい。
その人は、自分にとって懐かしい人だ。
例え、たった今、会ったばかりの人であっても、
何だか、とても懐かしく、心を開いて、何でも語られる。
そして、きっと感ずるはずだ。
同じ何だな。
言わなくても、分かり合う得ているんだなぁと。
その人との出会いは、邂逅と言うものではないだろうか。
不思議だなぁを信じている人がいる。
私も、Sさんも、今はその不思議を楽しんでいる。
何がこれから起こるのか、そんなこれからの楽しみもある。
今、ここを、考えるだけでも、
どうしてこうなっているのかと、不思議なことばかりだった。
彼は、昔の自分が書いた原稿や、
当時の師や友の書いた原稿を読み直している。
すると、その時は気付いていなかったことに、
今、やっと気付くことが多いそうだ。
自分で書きながら、その言葉で表しながら、
今、改めて感動をもってその本質を味わっているとのことだった。
それが違っていた。間違っていたという話ではない。
自分が書いた当時の考え。感じ方そのままを吟味すると、
「これでよかった」「そうだったなぁ」と、
再度確認できたということだった。
その当時、彼の内にはそれがあった。
だから、それを、誰かに伝えたくて言葉にして現した。
それは、20年前の彼の心の記録でもあった。
当時、本当に生きに感じて率先して取り組んで来たプロジェクトだ。
その理念については、何のぶれを、今も感じない。
それは、そのこと自体が本質・本物であったからだと思う。
歳をとった、すると、語りたい人、会いたい人が少なくなった。
いや、少なくなったのではない。
そういう人が傍に居てくれたことへの感謝だった。
それは、この人生の大河の流れの中で浄化され、洗練された。
遺されたものは、遺されるだけの意味があるものだ。
彼は、その生き方の「意味」から、
再び来し方の人生や、かかわってきた周りの人たちを見つめなおしている。
その眼差しは、血気盛んな若かりしときより、がっと成熟している。
深く深くから、その来た道と、出会った人たちを思い出す。
すると、そこに何だか全部つながった「意味」を感じた。
「あれは、これがあったから、あれだった」
「あの時、あの場所で、あの人と出会ったことは、必然だったな」
「あの師の言葉は、今も、ここに生きている」
つまり、今の自分は、その出会った数多の「意味」の果実なんだ。
つまり、「人生フルーツ」その実りの歓びなんだと、
その断捨離途中の振り返りの中で、自覚し、発見した。
つまり、「意味」とは、そうした眼差しで見つめない限り、
気付かず、発見できないものだと、私も思っている。
「このことは、私の生き方に、どんな意味があるのか」
「このことから、私が生き方として学んだ意味とは何か」
不思議だなぁを生きる人には、そうした視点があると私は考える。
不思議だなあとは、通り過ぎていくその事象や他者を、
私の生き方との関係・かかわりの中で、吟味する生き方なんだ。
つまり、不思議だなぁが先にあるのではなく、
「そうか、そうだっのか」と、了解する時、
「ああ、あれは、こういう意味だっんだな」と、自覚する時、
やっはり出る言葉は、「不思議だなぁ」となるはずだ。
だから、不思議を信じていない人は、
この束の間の「空」である人生を生きながら、
その束の間の与えられた「命」のことを考えない人のことなんだ。
本当は、全て、あらゆる私が出会ったことは、
全て不思議なことなんだが、
そのことに不思議を感じられない人には、
きっとこの人生を生きて終わる妙味を味わえない人だと思う。
実は、よくよく考えてみるとよく分かる。
どうして、私は、日本の新潟県の新潟市の父と母との子として生まれたのだ。
これを当たり前だと何も感じない人は、
きっと不思議を分からずに死んでいく人だ。
しかし、不思議を感ずることは、
このこと自体が、既に不思議に充ちている。
それは、私が考え、決めたことではない、
大いなる命のはからいがあるから、
きっとそうなったのだ。
そう思ったら、父や母が懐かしく、恋しくならないだろうか。
不+思議なんだな。
あんたが決めたことではないよ。
天が決めたことなんだよ。
つまり、意味を味わう人とは、
この天のはからいを心から信じられる人だ。
つまり、懐かしい人とは、そういう人のことなんだな。
生かされたこの命には、意味がある。
そのために、天は、私を父と母の元で生を与えてくださった。
そう考えたら、父と母には、ただただ感謝しかないはずだ。
そして、それまで居なかった私のことを、
この世に誕生させたのには、きっと何かのはからいがあったはずだ。
そのはからいのことを「意味」という。
生きるとは、きっとその束の間の生涯の中で、
自分が生きている「意味」を悟ることではないかの「問い」だ。
「お前は、何のためにこの世に生まれたのか」だな。
不思議を感ずる人は、その意味を探し求めて生きる人だ。
だから、歳をとればとるだけ、
その人は、人として深くなる。
その「意」を味わえば味わうほど、
その人は、懐かしい人となり、
人生の妙味を知る味わいのある人となる。
彼は、早朝の小千谷の信濃川の川べりで、
三足歩行の80代の女性と出会った。
彼は四足歩行の足を止めて、挨拶を交わし、しばし語り合ったそうだった。
とにかく、「そうですね」「そうなんですよね」と、
初めて出会った二人なのに、ただただ、共感することばかりだった。
「分かり合える」とは、その想いや感情を「分かち合える」ことのようだ。
一つのものを二人は、半分にわけあって、食べている。
一つのものだから、同じ味がするのは、当たり前だ。
そこで、彼は、考えた。
「どうしてこんな懐かしい人と出会えたのか。不思議だなぁ」と。
私は、それは邂逅ではないかと、思った。
人にはきっと邂逅するべき人が居る。
その人と既に出会っているのかも知れないし、
まだどこかに居てくれて、出会うことを待っている人かも知れない。
でもね不思議を信じている人は、その人と必ず会える。
邂逅は、不思議な人には、天はちゃんと約束をしてくれている。
私も、そんな懐かしい人とのいつかの出会いを期待している。-
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