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from: クマドンさん
2020/12/14 11:08:04
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イアソンが現われるためには
風が強く吹いている。
ああ、そうなんだ、冬が来たんだ。
また、あのどんよりとした曇り空の日々が続く。
ひと冬には何度も大雪の日もある。
まだ書庫前の除雪に30分間だった。
新潟に住む人たちは、その冬の意味を知っている。
ここから三カ月くらいだろうか。
私は、冬の中で、雪の中で、風の中で暮らすことになる。
しかし、コロナ禍での巣ごもりがそんなに苦ではなかったのは、
新潟の人たちは、毎年、そんな生活を続けているせいなのかもだ。
あっ、突然、荒れて来た。
細い雪が雨のように降りだした。
強い風に吹き付けれて、みぞれのシャワーのようになっている。
みんなこの雪を見て、覚悟を決めているのだろうなぁ。
この音楽は、誰の音楽なんだの気付きだった。
昨夜、ベートーベンのコンサートだった。
それも名演奏家たちだけの、スペシャルなコンサートだ。
最初は、ベートーベン25歳の作品「ピアノ協奏曲第一番」だ。
指揮者は、91歳のプロムシュテット。
ピアノは、あの妖艶な美しさのアルゲリッチ。彼女は80歳くらいかな。
つまり、このご高齢なお二人の演奏会だった。
一音で泣かす。まさに、そんな至極の演奏だった。
そして、分かった。
「何と力が抜けていることか・・・・」だ。
つまり、指揮をしながら、彼は、音楽を紡ぎ出す。ここに現す。
彼女は、本当に軟らかな繊細なタッチで、音を奏でる。創り出す。
その二人には、今、ここに、その音楽しか存在していない。
つまり、その存在する音楽に、成り果てている。
いや、一体となり、何だか恍惚な表情で、その音を味わっている。
そこには、プムシュテットがいるのではない。
そこには、アルゲリッチがいるのではない。
ただ、ベートーベンのピアノ協奏曲がある。
それを、二人は紡ぎ出す。描き出す。造り出す。
その時、暗譜だった。
あれだけの曲の全てが、身体にある。
次の音は、その次の音も、ここにある。
それが、自然に現われる。まるで、その音に身を委ねているように。
この音は、誰の音なんだ。
ベートーベンは、その音を、楽譜に書き記した。
ベートーベンは、その音だと想い。おの音楽に仕上げた。
創作者は、確かにベートーベンだ。
しかし、そま楽譜に成る前は、
その音はどこにいたのかの「問い」だった。
確かに、作曲者は彼である。
だから、彼がこの音楽を全て創ったのかと言うと、
そうだとは、なんだか言えない気持ちになった。
本当の作曲者とは、音楽そのものではないのだろうか。
上手くは言えない。
でも、演劇の台詞もそうなんだが、
その言葉を創ったのは作家であり、脚本家である。
しかし、その言葉・台詞・物語は、
あるべきにして、ここにあるのではないのかと、ふっと感じた。
ベートーベンも直感とでも言うのか、啓示とでも言うのか、
そのものに撃たれ、そのものに捕まえられ、そのものに魅せられる。
だから、どうしてもやむにやまれず。
何とか音楽にしないと、気持ちが収まらず、何かに憑りつかれたようにして、
その音を譜面で表し、何度も何十回も書いては消し、書いては消しと、
そのものに成りきるまで、闘っていたのではないのかの問いだ。
私が、脚本を書く時も、そうだった。
まず、「この人のことを書きたい」と思わない限り、
何も物語は、始まらないということだ。
つまり、あるものと出会う。あるものに感動する。あるものが呼びかける。
すると、そのことに憑りつかれたように、そのことばかり考えるようになる。
しかし、全くこの世に存在していなかった物語を、
言葉に表し、台詞にして、人として息を吹き込む。
この世に生まれる。誕生させる。
そのための、私だった。
つまり、私が表してきたものは、私のことではなく、
私が憑りつかれた、やむにやまない気持ちにならした、そのあるものなんだな。
つまり、「あるもの」が在る。
ベートーベンは、それに憑りつかれ、それを表さねばと譜面に書いた。
次に、プロムシュテットとアルゲリッチは、
その「あるもの」を見事に表現するために研鑚を積み、
天才的な力量と技能とでその音を表現することに全知全霊を傾ける。
その極限の集中から、身体に沁みこんだ音を滲みださせる。
だから、「あるもの」が先なんだ。
そして、「あるもの」とは、「私」ではないことは明白だ。
それを、私で演奏したら、私で強引にやりきってしまったら、
あるものは、死んでしまうことだろう。
そんな力任せの演奏は、聴衆に感動を与えない。
その演奏する人が消えた瞬間、確かにあるものが姿を表す。
次のムターとバレンボイム、ヨーヨーマもそうだった。
力強くあるが、力が抜けた演奏だった。
私は、そのあるものに全てを委ね、
心地好く、私を軽くして演奏する姿に、
何だか今回のイアソンの演技を学んだ気がした。
イアソンが「あるもの」なんだ。
その作者は、アルゴ船の船長イアソンを書きたくて、書きくてだった。
そして、イアソンは、誕生した。
「メディア」の登場人物としてだ。
私は、そこにはいらない私だ。
私は、本当に脱力すればいい。
心身脱落のまま、その舞台に立てばいい。
台詞は、全て身体に入れて、脚本は見ない。
すると、空っぽになった私に、イアソンが現われる。
それを信じられる者は、本物の役者になれる。
現われて来るものが、「あるもの」なのだ。
そのあるものをこの世に束の間現すことが、
演奏者と役者の使命なんだと、今は、思う。
力を抜き切る。
空っぽになる。
私は、居ない。どこにも居ない。
そん状態にならない限り、イアソンは決して現われない。-
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