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from: クマドンさん
2020/12/22 09:16:09
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孤独を生きるためには
分かっていることは、みんな孤独を生きていること。
独りではない人は、1人もいないということだ。
だから、この人生。どうやったら、独りを幸せに生きられるのか。
そのこを「問い」として、考えて、日々を生活することが大切だと思う。
「独り遊びぞ、吾は楽しむ」と良寛さんは言っている。
しかし、この心の裏には、やはり壮絶な孤独があったと思っている。
あの山中の五合庵での貧しい独居生活だ。
ただの托鉢だけで生きて来た良寛さんが、生涯を全うしているのだから、
私もきっと、どんなに孤独であろうとも、生きられるとは思う。
しかし、生活とは、身体を養い、健康を維持する努力だけでない。
時には、病となり、怪我もする、身体を痛めて不自由になる。
これから先、どんなことがこの身に起きることか、予想はできない。
しかし、それは、身体のことだ。
身体は身体として生命体の私として、摂生しつつ維持をする。
健康第一で、今は生きている。それは、まぁ、いい。
孤独とは、心の問題だ。
身体には栄養と適度な運動・休養・睡眠だ。
それでは、この孤独にはどんなことをすれば癒されるのかの「問い」だな。
これは、人が人となってならずっとずっと問われている「問い」だった。
孤独は、癒されるのか。
孤独は、解消されるのか。
孤独は、無くなるのか。
そんな訳は、ないだろうとは、誰もが思うこと。
確かに、何かに集中し、その刺激に夢中になっている時は、我を忘れる。
そんな孤独であることの、哀しみ、痛み、切なさすら、忘れている。
つまり、自分が孤独であることすら、気付かないまま生活できる。
その時は、孤独であるが、孤独を感じていない状態だ。
しかし、それは、長続きはしない。
そもそも、孤独とは、解消できるものなのだろうか。
いつまでたっても、寝ても覚めても、私は、独りなんだ。
家族がいるではないか。
友がいるではないか。
しかし、それは何人いても、その数だけの孤独があるだけ。
独りでなくなることは、生きている限り絶対にないと思う。
だから、この孤独な心の処方箋と薬なんだな。
というか、どうやったら、この独りを幸せに生きられるか。
つまり、「独り遊びぞ、吾は楽しむ」と言う、良寛さんのようにして、
その哀しみ、痛み、侘しさ、寂しさを忘れられる何かを得たいものだと、
日々の生活の中で感ずることがある。
しかし、よく考えてみたら、孤独を寂しいものと感ずるだけだから、
少しでもこの孤独から逃れようとするのではないだろうか。
良寛さんのように、決して強がりではなく、
「独りが、楽しい」と、思うことができたら、
それはそれで在り難いこととなるような気がする。
今、リタイア何回目かのサイクルに入った。
次の仕事を決めるまで、のほほんと生きていることを許している。
まぁ、いいかと、のんびりと生きている。
これは、これで、もうけものとも感じている。
これって、やっぱり孤独だからできる楽しみ、ではないだろうか。
独りは、いいのだ。本当は、好きなんだ。楽しいんだ。
やりたいことをやりたい時にすぐできる。
人を気にすることも無く、相談して意見を交わすことも無く、
時には、対立して喧嘩をすることもない。
我が道を、我らしくずんずんと行けばいい。
旺盛な好奇心さえもっていれば、
その好奇心を満たすための行動をとることができれば、
欲張らずに、足ることさえ知っていれば、
孤独は、実は、楽しいものなんだな。
いつも誰かのことばかり気にして、周りの評価で生きている人がいる。
その人の口癖は、
「みんな」「当たり前」「普通」「常識」「世の中」だった。
そのことを基準にして生きて来た人は、いつも周りの人の評価で生きて来た。
「あれをするとだめだ」「これをすると褒められる」
つまり、その相手の人の視線をいつも意識して、
その人の価値基準に自分のことを合わせて生きて来た人だ。
その人たちには、はっきり言うと、「自分」が居ない。
その「自分」を創るための努力も、反発も、反抗も、してこなかったからだ。
それは、ある意味では、哀しいことだった。
この人たちは、いつも何かを決める時には、人に答えを求める人だ。
または、何かを期限を限って決めねばならない時には、
その「期限」「期日」を決定しないで、先延ばしにする人だ。
「あなたは、どう考えますか?」と訊かれても、意見を言えない人だ。
そして、困るといつも「どう思いますか?」「あなたなら、どうしますか?」と訊く人だ。
ところが、意見をいろいろと言われたとしても、受け入れない人でもある。
自分にとって都合のよい、利益となることは、取り入れるが、
リスクがあったり、自分を変えねばならないことには、無反応をする。
つまり、自分が空っぽであるために、
変える自分すら存在していないことを、この人は、感じてはいるからだ。
はっきりと、こうだとは、言えない。
しかし、「出来ない理由」は、いつも持っている。
これが不思議なんだが、相手と対立し、攻撃する時、この人たちは、
例の、「みんな」「当たり前」「普通」「常識」「世の中」を持ちだす。
これをバックに、相手の間違いを論破しようとする。
しかし、哀れなんだが、こんなものはどこにも存在しない幻なんだな。
大いなる幻影だ。
そのことを後生大事に信じて生きて来た。
そして、50歳・60歳になっても、まだまだ目が覚めない。
いや、覚めるどころが、歳をとればとるだけ、頑固に固執する。
今更、それを幻だった。それに騙されて生きて来たとは、言えないからだ。
言えるためには、本当の自分と言う基準を持たねばならない。
この人には、自分は、未だに存在していない。
人の目から見られる自分は、居るのだと錯覚はしているが。
さてさて、孤独と自分との関係についてだ。
実は、孤独を深く深く感じ、ひしひしと寂しさと侘しさを募らせるのは、
この「みんな」「当たり前」「普通」「常識」「世の中」の人たちなんだ。
この人たちは、自分が存在していないと言うことは、
孤独な存在でありながら、独りで生きられない弱い人たちとなってしまう。
独りでぽつんと置かれる。
さて、好きなようにして生活できる状況だ。
自分を生き、孤独を生き、好きなことを自己選択と決定で行って来た人は、
そんな状況でも、どう生きたいったら幸せなのかを、訓練の中で身につけている・
孤独でありながらも、笑顔で、すいすい、「楽しいなぁ」と言って歩き回れる。
いや、歩かなくてもいい。ここに居れてもいい。
孤独であることは、当たり前だと、受け入れられる。
だから、どうしよう。何をしようと思案する。
日々の独りの時間を味わいつつも、楽しんで生活できる。
それは、自分が居るからだ。
ところが、自分が居ないと、そわそわと落ち着かない。
とにかく、どこかに出かけないと気が済まない。
だから、もっと孤独に陥る。
だから、もっともっと刺激を求める。走り回る。へとへとになる。
そして、もっともっと孤独を感ずる。
さてさて、どうしたらいいのかなぁと、いつも思う。
私は、「みんな」「当たり前」「普通」「常識」「世の中」と真逆を生きた。
だから、ぼこぼこになり、あっちこっちの壁にぶつかり自爆した。
それでも、また、立ち上がり、生きて来た。
その立ち上がった数だけ、自分を育てた。自分を鍛えた。
今は、はっきりそう言える。
そうなると、独りってとても面白いものなんだ。
時間を自分で自由に使い、好きなことをやりながら、過ぎて行く時間を味わえる。
孤独で居られる力とは、自分であることの度合いにも由るようだ。
孤独を忘れて生きるためには、そうした生き方ができる自分であることだ。
いつまでも、「みんな」「当たり前」「普通」「常識」「世の中」では、
自分なんて自分の中から生まれては来ないことだ。
「自分で、自分を、自分する」だ。-
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