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from: クマドンさん
2021/01/12 07:27:54
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今日も、気持ちよく生きたい。
どうすれば、日々を気持ちよく生活できるか。
そのことをよく考えながら、自宅で居ることが多い毎日だ。
自分なりのルーティンは守っている。
まず3時40分の目覚ましと同時に起きられる生活だ。
それから、ラジオ深夜便「明日の言葉」を聴く。
ラジオで人の言葉を聴くことは、とても心の落ち着くことだった。
これは、視覚に訴え、強い刺激を続けるテレビとは全く違う。
ラジオだと、考えながら聴くことができる。
だから、そうしたいかに生きるかの言葉は、聴くように努力している。
次に、こうやって言葉を書いている。記録している。発信している。
それは、どこの誰かではなく、ただ、自分自身への確認のためだった。
今、ここで、私は、何を気付き、何を考えているのか。
それは、こうして言葉にして、書くことで明確となるからだ。
独りだから、話し相手は居ない。
妻や長男には、こんなことを話しても聞き流されるだけ。嫌がられるだけ。
だから、私は、書くとは、自分との対話だと思っている。
一日の中には、必ずこの対話する時間を作っている。
それが、FBと「親父たちよ」だ。
次に、家事をする。
妻が休日で家にいると、私のペースでは生活できない。
家事は、妻が率先してやってくれるし、家事の主導権は妻のものだ。
だから、妻が家に居る休日には、休日用のルーティンにする。
その時、お互いに余り干渉し合わないことを、暗黙のルールにしている。
家族であるからと、進んでかかわらなくてもいいと、私は思う。
お互いに大人なんだから、相手からとやかく言われたくないのは、
私も、妻も、長男も同じだ。
お互いに心配りはしながら、配慮はしながら、適当に離れたところで生きている。
それが、いいと、今は思っている。
最近、雪が積もり、世の中が真っ白になると、
我が家の庭が騒がしく、賑やかになる。
それは、妻が、ダイニングからすぐ手の届く位置に、
鳥のための餌場を設置し、そこにせっせと毎朝餌をのせているからだった。
日が出ると、もうヒヨドリが鳴いて飛んで来た。
雀たちは、餌を催促するように鳴く。
昨日は、とうとう二羽の鳩に見つけられた。
ムクドリも来る。メジロも来る。シジュウカラも来る。
みんなお腹を空かせて、餌を求めている鳥たちだった。
雀は、2年位しか生きられないと聞いた。
すると、何だかとても愛おしくなる。
確かに、道路を隔てたご近所には、迷惑な鳴き声かも知れない。
しかし、こりは、妻が幼い頃やりたかったが、できなかったことだと聞いた。
そう想うと、この大雪の冬の間は、続けてあげようと、私も思った。
この配慮ではないだろうか。
いつも見守っている。気にかけている。どうしているかなぁと、心に想う。
人は、人からそうされるだけで、嬉しくもなり、励みにもなる。
だから、スマホに替えてから、私は、よくコメントを送る。
それから、いいねを送る。❤を送る。それだけだが、それは続ける。
それは、人からそうされると嬉しいと感ずるからだ。
独りで一日居ることが多くなったら、FBを見る時間が増えていた。
それは、人が自然に求めるものがここにあるからだと、私は感じた。
優しさなんだな。思いやりなんだな。気にかける。心に想う。
私には、そうした人が何人いるたろうかと、ふと感じた。
そして、その人が居てくれること。
そして、その人が反応し、返信をくれること。
そのことは、私にとっての日々の歓びなんだと、感ずることができた。
これは、FBをしなかったら、感じられなかった想いでもあった。
言葉は、こうして離れて居る友には、メッセージとなる。
自分の相手に対する想いとなり、優しさとなり、相手に伝わる。
それは、気にかけています。繋がっています。想っています。
それだけで、いいくらいのものだった。
しかし、これがあるとないとでは大違いの、それだけなんだな。
人は、独りだから、人との繋がりを心の奥では求めるもの。
しかし、面と向かって、「私の友達になってください」とは、言えないようだ。
それが、もし、相手の迷惑になっていたら、申し訳はないからだ。
でも、本音で何でも語れる友は、在り難い。
だから、言葉を私は、発信する。記録する。ここに書く。
それは、確かに自分のための自己満足だ。
しかし、ここに言葉を書いておく。置いておくと、誰かが拾ってくれるかもだった。
つまり、言葉にすることで、その想いは共通となり、伝達されるものとなる。
そして、生き方に関する言葉は、その言葉を聴くことで、
その言葉の生き方そのものが、自分自身の生き方に吸収され、共有される気がする。
つまり、私が、この身体で考え、気付き、発見した言葉は、
ここの言葉として表すことで、その言葉と出会い、その言葉に共感する、
誰かの言葉となるということだった。
私は、言葉を通して、人としての大事な何かを、受け渡しているのではないか。
だから、身体で分かった言葉だけを、ここに記す。
そして、その身体から生まれた言葉とは、身体である私たちの共通語となる。
それは、身体として生きていることは、生命体として同じだからだ。
身体の言葉は、きっと普遍に違いない。
それを求めているから、私は、これを書き続けているのではないだろうか。
今、仕事に就いていない。
妻と長男は、仕事に出かけた。これから出かける。
私がこれからしなければならないことは、ビニルゴミを捨てに行くことだ。
これには、8時と言うタイムリミットがある。
しかし、その後の時間は、全く自由に与えられている。
だから、私は、自分と対話し、考える時間をその中に意識して設定する。
朝の1時間のFBも、この「親父たちよ」もそうだった。
一日の生活の中に、自分と対話する時間や、考える時間を入れる。
それは、身体を使い、働く時間と同じくらい重要な時間だ。
人は、身体を動かし、考える時、気持ちよく生きられる。
そのことを、これからもどんなに忙しくても、忘れずにいようと思っている。
後は、こうしてラジルラジオ等で、生き方についての言葉を聴く。
そして、生き方について本音での対話を友とする。
このことも、私にとっては意味のある、重要な時間となっている。
そんな一日に、今日もなるように生きるつもりだ。-
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