サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: クマドンさん
2021/02/03 06:59:54
icon
孤独感と共に生かされる
老いの孤独感をどう癒せるのか。
老いとは、孤独に生きることでもある。
確かに、連れ合いや、家族がいることもある。
しかし、そんな中で、老いて弱り、衰えるのは自分だった。
つまり、家族が何十人その家に居ようとも、
確かにわいわいと賑やかであるが、その老いは粛々と進行しているということだ。
仕事もなく、独り、この家に居ることだけでも、
私は、時々、その孤独感に落ち込むこともある。
昨日は、雨だった。
そのために、庭に出ることも、歩くことも出来なかった。
家に、留まる。スティホーム。話し相手はヒヨドリの寒太郎。
さてさて、こうした時間をどのように過ごしたものか、
それが、一日の私自身の問いになっている。
そういう意味では、まだまだやれる身体に体力な私。
介護の仕事にはやる気満々なのに、不採用の連続、連続。
それでもめげずに求人を探しているのは、
介護の仕事を通して、そうしたお年寄りに出会いたいからでもあった。
してもらうことよりも、与えることの幸せである。
実は、与えれば与えるほど豊かになって尽きないものだ。
そこに、本来の人としての歓び、生き甲斐があると私は思っている。
与えたら無くならないのだ。
与えたら、次々と与えられるものが湧いて出て来る。
そして、それを受け取った人にとっては、嬉しいことであり、幸せなこととなる。
こうして、目には見えないが、大事なものを、
もし、与えられる人がいたなら、それはどんどん与え続けるべきなのだと私は思う。
ドラマ「ドクター倫太郎」を録画して観ている。
彼の生き方そのものが、この与えて生きる生き方だった。
与えることは、全てをみと認めて、受け入れることである。
そして、自分の時間を使い、その人に本気で寄り添い、話を聴くことでもある。
そんな精神科の医師としての彼の姿から、学ぶことは多くあった。
人は、その人自身も知らない無意識な意識から、悩むことが多くある。
その原因には気付かず、何も自覚はないのだが、
心が病み。どうにもならない感情に襲われ、蹲ることもある。
怒る。泣き叫ぶ。憂鬱になる。死にたくなる。孤独感を感ずる。絶望する。
それは、現象・現われに過ぎず、
それを起こした根本的な原因は、無意識の領域に眠らされている。
だから、自分がどうしてこうなっているのかを、理解できない。
理解できないまま、そうした異常な行動をせざるを得ない自分に翻弄されている。
それが、心の病やパーソナル障害の人たちの現状だ。
だから、その奥に隠されている物語・トラウマに気付かせる必要があった。
そこが病因なのであれば、まず、それが何かを明確にすることだからだ。
そこに、クライアントの行動があり、言葉があり、昔の物語が存在していた。
そして、どういうわけか、幼かった頃の親子関係に、
その病因が関係していることが、多いような気がする。
芸者の雪乃と明良の存在もそうだった。
幼い頃芸者をしている母親の虐待とネグレクト。
そのためにどれだけ飢えて、孤独を味わされたことか。
そんな中で母親に捨てられた彼女は、芸者の置屋の女将に救われた。
そして、雪乃という名前で芸者をやっている。
しかし、この毒母は、ギャンブルの借金の返済のために、一千万円をねだって来ている。
母に対する憎しみと怒りとはありながらも、その欲求に答えてしまう自分。
それは、可愛そうな明良を守るためでもあった。
乖離性パーソナル障害?
彼女の中に二つの人格が同居して、スイッチで替わる。
ところが、全くの別人格となるために、前の人格との関連は全く断たれている。
辛い、生き方を、彼女は強いられて来た。
さてさて、この彼女の治療は、どうやって行われるのか。
それは、医師である倫太郎が、しっかりと寄り添って、いつも心配し、
何かあったらすぐに駆けつけ、ぎゅっと抱きしめることでもあった。
人は、そんな時には、やっぱり深く深く愛されたいものだった。
しかし、そのことを彼が出来るのは、
彼の大好きだった美しい母親が、浮気して、その果てに自殺したという事実があるからだ。
彼もまた、傷つき痛み苦しんだ一人だった。
だから、彼女の心の闇と孤独感とを、彼は感ずることができるのだ。
それでは、この二人には、その無意識の傷や痛みを癒すことはできるのだろうか。
それは、私のこの孤独感を癒すことが出来るのだろうかと同じ問いのような気がする。
仏教では、人は阿頼耶識の中に、自分の経験や体験したことが積み重ねられている。
しかし、そのことに対しては人は無意識だ。だから、在ることすら忘れて生きている。
しかし、そのことが無くなったわけではない。そこに存在し続けている。
すると、その無意識な領域が動き出すことがある。
それが、心の痛み、または、欲望や妄想となり、その人を惑わして行く。
その人に現われたものは、その隠されたものが時を得て、現われたものだ。
そのことを、本人は全く自覚していない。
しかし、それは、本来の人としてのその人の姿や生き方ではない。
本当の自分とは、その阿頼耶識のもっと奥に、ちゃんと存在している。
それを、仏教では、仏性と言う。
この仏性を持たない者は1人も居ない。
しかし、ここも、意識される自分の奥の奥。
つまり、ここで迷い、欲望に支配され、混沌の中に彷徨うている人には、
そのことが、全くの幻で、幻影で、実態のないものであると、
悟らせることが大事なのだと言われている。
つまり、目に見えるもの、人が勝手に妄想で造り出したものは、
全て、変化するものであり、プロセスであるから、「空」なのだ。
これが「色即是空」の境地なんだと、あるお坊さんの話だった。
その「仏性」に気付く。そのことを自覚する。了解する。
すると、全てのものと同じ空となり、空の私と了解できる。
如は、如何だ。
しかし、「はなてば手に充てり」と道元禅師の言葉が在る。
その妄想・欲望をふっと消し去る時、初めて人は、本来の自分になれる。
つまり、「空即是色」は、これだった。
しかし、ここに至らない限り、その病からは解放されない。
実は、心の問題とは、そこに気付くかどうかの問題なんだ。
まだまだ私には難しい問題である。
だから、孤独感を味わいつつ、日々を生きている。
本来の自分で生きられるならば、それに徹するならば、
きっとこの中途半端な孤独感を感じないで生かされるのだと思っている。
生かされて生きる。その修業が日々の私の精進でもある。-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
icon拍手者リスト
-
コメント: 全0件