サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: クマドンさん
2021/02/06 07:13:19
icon
リタイアにはまだまだ早い
何だかFBに書き込むことになったので、
なかなかここには書き込みができなくなっている。
本来は、これが私の子どもたちへの遺言であり、
私はこう生きていると言う、証でもあったが、
どうも最近は、落ち込みを感じている。
それは、それで仕方ないとは、思ってはいる。
感じたままを書く。
今は、それだけだ。
考えながら、書くでもある。
だから、こうして何を書こうかと考えては書いてはいない。
しかし、毎日の平凡で平静な生活の中で感じたことは、
ここにこうして書くことで、意味が現われる。
書くことは、言葉にすることで、共通理解となることだ。
そのことで、分かるのは、他ならない私だった。
私は、私が気付くために、ここに書く。それだけのことだ。
何も無い平凡な生活を、焦ってはいけない。
今は、就活をしているが、昨日もまた1つお断りのメールだった。
仕事に行かなくていい。つまり、仕事が今の私には無い。
そのことを、そろそろ考えねばとも思い始めている。
お金のためだけではない。
仕事をすることと、人生を生きることは、深く深くかかわっていることの気付きだ。
行く場所があり、やる仕事があり、共に働く同僚がいる。
そして、その仕事が人とかかわる仕事ならば、相手の笑顔や喜びがあり、
それを感じることで、私は、遣り甲斐をも感じられた。
仕事とは、そういうもので、
人は、生活することと仕事をすることとは、両輪で考えることなんだと、
こうして無職になってから、改めて考えるようになった。
しかし、事は、この家にも沢山ある事だった。
今も、寒太郎が遠くで鳴いている。
朝が来たら、私には幾つかの家事がある。
ゴミ捨てに行く。新聞をとる。鳥たちに餌をやる。
それから、朝風呂に入り、朝食を自ら造る。
そして、食べる。味わう。これは健康のための大事な仕事だ。
そうして、コーヒーを淹れて、縁側でゆっくり新聞を読む。
これは、精神と心との栄養を蓄える仕事でもある。
つまり、平凡な日常生活においても、私はも「事」を意識し、
その事を大事にするために、身体を使って動いてはいる。
そうした、自分にとっての仕事は、この生活にはいろいろとある。
ただし、その仕事とは、社会や他者とかかわるものではないということだ。
私が、今、探している仕事は、介護としての仕事だった。
しかし、その仕事が、なかなか向こうからやっては来ない。
求めているが、断られる。それが、現実だ。
しかし、そう考えてみたら、もう少し仕事に対する意識を変える必要がある。
そんなことにも気付くことができた。
人は、仕事を続けてもいいということだ。
つまり、60歳で定年退職をしたら、そこを区切りとするのではなく、
その後も、何らかの仕事に接続する努力が求められているという話だ。
みんな退職したら悠々自適とは考えてはいないと思う。
それは、20年前の60歳とは、60歳の身体と心とが全く違っているからだった。
私は、きっとどこかで、現役に疲れ、衰え、弱った自分自身を想像していたのかもだ。
もう精一杯仕事をしたから、もう休んでもいいだろう。
これからは、余生として、遺された時間を自分の楽しみのために使いたい。
好きなことをやって、のんびりと暮らしたらいい。
そう思って、定年退職の日を迎えた。
しかし、そんなに衰え、弱っていない自分を感ずる。
気付きや発見は、若い頃より深まり、熟して来たことも感ずる。
何だか、物事がよく観え、しっかりと日々の時間を味わって生きられる。
考えが深まることで、社会や世の中の見方も変わった。
そして、まだまだこんな自分でもお役に立てる場所があるのではないのか。
そんなことも思えるようになった。
これは、社会への「恩返し」なんだな。
そう考えたら、何かのお手伝いでもできたら、いいと、思えるようになった。
どうせ、いつか働けなくなる身体となってしまうはず。
働こうにも働けない日が来るのなら、働ける内は働いて生きよう。
自分の楽しみにだけ、この時間を使うのは勿体ないし、何かはばかるものを感ずる。
まだまだやれるのなら、まだ出会っていないその人の為に、
私にも出来ることはあるのではないのか。
そう想うと、ボランティアをするような気持ちで、介護をしたらよいのではないのか。
確かに、現実はそんなに甘くはないだろうが、
話し相手。話の聴き手。お地蔵様のような存在には、私はなれる気がしてる。
生活全般の支援が、介護の仕事だと分かっている。
食事・入浴・着替え・排泄・移動等、そのお手伝いをする仕事だ。
しかし、本当に大事なことは、そうした身体的な介護だけではなく、
もっともっと老いの孤独や死への恐れと不安等、
精神的なケアこそ、介護の仕事には求められているのだと感じている。
しかし、これが出来るのは、ある程度の人生経験を経た人たちだけなのだ。
人生の波乱万丈を生き抜いた人たちは、その経験と知恵とを持つものだ。
そうした70年・80年を生き抜いた人たちの話を聴ける人は、
ある意味、それと同じような事を体験した人なのだと、私は思う。
それはには、ある程度の年齢と人生経験が必要だった。
分かるとは、分ち合えると言うことだからだ。
解るではない。分かることが出来るかどうかなんだな。
そのことについては、私には自信がある。
お年寄りの話を、親身になって、共感して聴くことは出来る。
どんな話でも興味と関心を持ち、受容して最後まで聴くことが出来る。
そうやって、私は子どもたちと生きて来たからだ。
そのことの価値に、雇用する人には、気付いてもらいたい。
この63歳の人生経験と知恵に、雇用する価値はあると、私は思っている。
つまり、そんな私が、まだまだ他者のために役に立つのなら、
無理のない範囲で仕事をしてもいいと思い。今の求職活動をしている。
しかし、社会は、63歳・男性・未経験。そのレッテルだけで、私を見ている。
そして、仕事には使えない人。面倒な人と見ているのかも知れない。
実は、こうして諦めずに求職を続けているのは、
そうした固定概念を打つ破りたいと言う気持ちもあるからだ。
60歳代、まだまだ現役だ。役に立つ人たちだ。
まだまだ社会や世の中からリタイアするのは、早すぎる人たちだ。
この人たちの持っているものを再び活かし、輝かせる社会こそ、
持続可能な社会ではないのか。
そんな「問い」から、こうして日々求職を諦めずに、続けている。
そんな発想の事業者が居てくれることを願っている。-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
icon拍手者リスト
-
コメント: 全0件