サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: クマドンさん
2022/07/24 14:15:00
icon
笑顔で輝く人生を
「人間は、面倒だ、面倒だ。」そう思うことが、ここのところ多くなる。それは、私のことを、ああだ、こうだと勝手に決めている人に出会うからだ。まぁ、そんなにかかわる気がなかったら、それはそれで、「まぁ、いいか」と思えるのだが、そうで無い人から、そう言われたり、思われたりすると、変に辛く、傷付くこともある。
私は、人間は、基本的に分かり合えないものだと思っている。何故なら、自分自身のことすら、分かっていないのに、どうして他者のことが分かると言えるのかと、不思議に思うからだ。人間は、しかし、どうしても他者のことが気になるらしく、「あの人は、」と、その人のことを自分勝手に決めつけて、腹を立てる人を見ることがある。
私は、その人は、きっと私と違う人だから、かかわり合いにならなくていいし、離れて生きていたらいいと、諦める。しかし、私がそう思っていることを感ずると、もっと執拗に私のことをとやかくと言って、批判したりする。また、誰かに私のことを、色々と困った人だと話をする。そんな目に、何度か私はあっている。
そんな時に、私は、「面倒だ。面倒だ。」と感じる。人間は、みんな違う。本当にみんな全く違う人を生きている。だから、分かり合えたら、奇跡の人なんだな。だから、その違いをお互いに認めて合えるだけでいいのに、自分の思うように動かない私を、「あいつは、ダメだ」と切り捨てる。だから、人間は、面倒だ。
しかし、私がお付き合いさせてもらっている、大好きな仲間たちは、そんな人では決して無い人たちだ。それは、それぞれの違いを、それぞれの個性や生き方と考え、認めているからだった。人それぞれと言われる。そのそれぞれだから、面白い。そして、私が大好きな人たちは、そのそれぞれに自分なり信念があり、筋があり、独自がある人たちだ。だから、リスペクトする。すごいなぁと感ずる。だから、話をしたくなる。この仲間たちは、愉快な人たちだ。この人たちと呑んで語ると、時間を忘れる。あの心からの楽しさって、いったい何なんだの大らかさだ。
面倒な人たちとは、それが無い。息苦しさすら感じられる。それは、その人が、固い石で、私の話を聴こうとしない人たちだからだ。既に答えがある。言うことは決まっている。だから、私の話は、その人の耳には入るが、心には響かない。直ぐに私の話を遮り、自分が用意して来た話をし出す。そのことを私に分からせるためである。
臨機応変は、私の仲間たちだ。とにかく、人生を長く生きていると、その引き出しが増え、懐が深くなる。すると、相手の話に共感し、共鳴することが多くなる。その時、その語りには調和が生まれる。話が和やかに進む。それは、「それは、間違いだ」「それは、正しくない」が、その話には存在しないからだ。「へぇ、そうなんだ」「それは、面白い」と、批判や裁定、決めつけでなく、それはそれとして、そのまんまを楽しく受け入れられる人たちだからだと、私は思う。臨機応変は、柔らかな心の人たちなんだな。
それから、お互いにお互いの生き方に、興味・関心がある人同士だ。私は、ある日、「ああ、またこの人から説教されるな」と感じる人と向かい会った。「この人に、何を言っても無駄だな」と感じた。それは、彼女はその場で私に自分の非を正して欲しいと思っているからだ。しかし、私からはその逆の気持ちだった。彼女には、心優しい、柔らかな人に変わって欲しいと思っていた。しかし、彼女は絶対に変わる気はない。だから、疲れる。嫌になる。面倒に思う。しかし、私の仲間の人は、その反対を生きている。感じて動く。変わることが、自然に出来る。その会話を、楽しみ、愉快に感ずる。息苦しいどころか、お互いの心と気持ちが解放される。
それから、よく思うことは、優しさだった。それはそれは、人には言えない苦労があった。絶望のどん底を彷徨い歩いた。それでも何とか耐え忍び、凌ぎつつ、今に至っている。やはり、苦労した人は、違う、違う。それは、体験を通して体得した生きた叡智に満ちているからだ。60代、70代まで生きて来た人には、言葉がある。それは、その人の人柄や個性、生き方から滲み出る言葉である。自分の人生を語ることは、自分自身を語ることである。そして、それをある意味で、俯瞰して振り返ることでもある。そんな自分の弱さも、失敗も、愚かさも、みっともなさも曝け出せる。その自由を感ずると、私も同じ自由になって、我を語れる。
語れる人は、信頼出来る人である。私は、語れない人を知っている。その人は、私が何か語ると、理屈で答える。「それは、こうすべきです。」と判定を下す。確かに、自分を正しい人として、相手の人をジャッジする人とは、面倒だから話さない。その人には、当たり障りの無いことだけ話をする。それだけのお付き合いで、いい。
もうすぐ65歳になる。さっきピンクレディーの恵ちゃんの話を聴いていた。私と同じ歳、9月で65歳になると聴いて驚いた。彼女は、「そして、これから‥‥」と言うタイトルのCDを発売する。残りの人生、どう自分なりに仕舞にするか、そんな気持ちをここで歌う歌に託した。そして、「歳を重ねると、確かに体力や気力が衰えて来るけれど、豊かになるような気がしている」と語っていた。いいこともある。そうでないこともある。しかし、それでも、いや、それだから、この今を生きている人生を楽しみたい。これは、64歳にならないと、そして、自分の人生の悲しみ・辛さ・孤独を受け入れていないと、なかなか言えない言葉だと、私は感じた。
だから、私は、面倒な人たちは、もう懲り懲りだった。これまでの人生で、どれだけ面倒で、頭が固く、頑固な石の人に出会ったことか。その人たちからは、私は嫌われる人だった。いじめたくなる人だからだ。この1週間、どれだけ面倒な人たちとかかわらざるを得なかったことか。私は、ずっと辛く、重い気持ちのまんま日々を暮らした。しかし、これでいいはずはない。これでは、何の私の人生か、分からないからだ。
そんな私に、仲間から、励ましのコメントが届いた。励ましと言うか、「私も、そらよ」のご同情のようなものかもしれない。そして、それを笑いにする。面白く語る。すると、私の見える方向が変わった。頑固な人たちに苦しんでいた私は、その人たちの達観して、飄々とした言葉に、何だか救われた気がした。気楽になれた。柔らかい人も、居てくれる。それは、改めての大きな気付きだった。嵐はいつか過ぎるものだ。
昨夜、東京交響楽団の合唱団の練習日だった。私は、気力が余りなかった。りゅうとぴあまで行くのに気が重かった。しかし、会場でTさんに会って慰められ、松ちゃんと話が出来たら、何だか気持ちが、スーッと軽くなった自分を感じた。有り難い人たちだ。大人だから、面倒なことは言わない。察してくれる。共鳴と同感、同情だな。それは、鬱になり、弱っていた私への労りと、心配、優しさ。これは、人間、効くものだ。
恵ちゃんは、ベランダで薔薇を育てている。「生きているものは、息をしているものです。だから、愛情をかけるとその分は必ず応えてくれます。」これは、花や野菜を育てた人ならきっと実感していることだ。「毎日、毎朝、ベランダに出て見ていれば、ほんの少しの変化に気付きます。」「病気もすぐに見つけられます。」「手をかける。愛情を持って育てる。本当に愛は、大事なんだなぁと思います。」
「薔薇の茎は、しなやかでとっても柔らかいから、嵐にも耐え凌いで生きています。」「真っ直ぐに、凛と咲く。抗わないで素直に生きる。」「薔薇から学んだことです。」
「私は、これからも笑顔で輝く人生を送りたい。」これも、薔薇が教えてくれたことだそうだ。
私は、どこかで勘違いに落ち込んだらしい。本当は、この面倒な人たちとの出会いで、私は、学ぶことがたくさんあった。この仲間たちの笑顔と、優しさを改めて、私は感じた。そして、怒る人だけでなく、助けてくれようと、心配してくれる人がいることを少し忘れていたようだ。
それに、この面倒を感謝に置き換えてみる。すると、その一つ一つには、そうなる意味があることも感じられた。その事に感謝出来たら、今の私の置かれている景色は変わる。「そして、これからは‥‥」今、ここに落ち込んで、悩むだけより、この先の予想外の変化を期待して、それを手放すことも大事なことだと思うことにした。
人間、万事塞翁が馬だ。これから、何が起きるか、それを期待して生きたいものだ。松ちゃん、Tさん、また安兵衛で語り合おうよ。😃-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
icon拍手者リスト
-
コメント: 全0件