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from: 一久さん
2006年02月14日 22時01分20秒
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mixi とイジメの構図
「MIXI」と「イジメの構図」
【「MIXI」というものがあるらしい】
すでにMIXIを使っている人からの招待を受けた者だけが会員になれる、閉鎖的(?)なネットサービスであるらしい。内容は大雑把にいって、mixi以外と変わりないようだが。
「招待されないと参加できない」という制約を付けることで、「2ちゃんねる」的な騒動を回避できるとかで、今日(2/14)の産経新聞大阪版夕刊などにも紹介記事がでていた。すでに会員が300万人を突破したとか。
【心の違和感を感じる】
「招待が必要」という制約を目の前にして、ふたつの感情が沸いて来る。ひとつは、「お高くとまりやがって」、という反発であり、もうひとつは、「参加者になってみたい」という願望である。しかし、それらと同時に、なぜか奇妙な違和感、いや、既視感を感じる。なにかイヤな臭いを感じてしまう。なんだろうか、これは。
制約を設けることによって、参加者やその言動の「質」を保とうとする姿勢は、それなりに評価できる。それは解らないことはないのだが、なにかがおかしい。
おかしな感じのひとつは、「300万人」という数字に対する「恐怖」感であろう。これが、数千人規模であれば、こんな感じは受けない。三百万人にも達するのに自分は、という疎外感である。
もうひとつは、「招待」という形式に対する疑問である。「参加申し込み形式」と違って、他人による評価(しかもそれはまったくの主観による評価である)、他人の勝手な解釈によって自分が参加できるかどうか決まってしまうという非主体性の問題である。
しかし、主観であるが故にその「評価」は全人格的なものとなり、「三百万人も招待されているのに」招待されないでいる自分は、その全人格を誰にも認められていないのではないかという焦燥感を生む。
「他人の主観による評価」「主観で自分の人格が決められる」「300万人の側ではない自分」この三つがないまぜになって、この奇妙な違和感を創り出している。
【脱線】
例えば、昔のパソコン通信と比較すれば、よく分かる。パソコン通信もまた、閉鎖的なサービスではあったが、会員になるには、自分で申し込みをするだけでよかった、その入会審査は社会的な基礎事項を満たしているかどうかという客観的なものであったし、それゆえに人格的な評価とは無縁のものであった。当然、なんの恐怖も焦燥感もありはしない。
:閑話休題、 脱線前にもどろう:
【どこかでみたような】
この構図、しかしどこかで見たような気がする。
集団の一部もしくは全部が、他人をその主観で評価し、否定的評価をうけた人間は全人格的に阻害される。しかし、その評価は主観にたよっているので、いつ誰が「被害者」の側にまわるか分からない。ゆえにそうならないように、「評価される側」ではなく「評価する側」へ入り込みたい、否、入り込まなければいつ阻害されるか分からないという恐怖を皆が持っている社会。
これは、まさに「イジメの構図」ではないか。「なんということだ、これは!」
「mixi」と「イジメ」とは、同じ社会的モデルを持っているのである。奇妙な違和感の正体は、イジメの構図に対する拒絶反応だったのだ。
ここで一句、「招待の/正体みたり/イジメかな」 一久-
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