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from: 一久さん
2007年12月28日 07時03分26秒
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大学の数について
大学の数
旧制の学制を懐かしむ人々の中には、「大学の数をへらすべきだ」とかいう
人が少なからずいる。
しかし、私には、大学の数を減らすことは、かえって旧制の有り様から遠ざ
かることになるであろうと思われる。
というのは、戦前は確かに大学が少なかったが、それ以上に大学に入りたが
る人間の数が少なかったのである。
激烈な競争がある学部もあるにはあったが、それはごく一部のことで、東大
でさえも、学部を問わなければ誰でも入れた。
文学部のある教授は、「戦前の東大文学部なんて寝てても入れた」との意見
にたいして、「私なんかそのクチですよ」と即座に肯定したという。
(小室直樹 「偏差値が日本を滅ぼす」より)
ということになると、旧制の社会に近づけようとすれば、大学の数を減らす
ことは、間違いであるということになる。
駅弁大学のほうが、むしろ旧制の実体に近いのである。
違っているのは、旧制においては一応学問の中身や学歴の価値が等しかった
が、新制においては、大学間にカースト的な差別主義が登場したことである。
それならば、成すべきことは明らかであろう。
つまり、各大学間の学問レベルを共通の試験によって計ればいいのである。
さらには、大学の枠から飛び出して、一般にその試験を公開すればよい。
これほどAV技術が進歩した現代である。大学院レベルの講義を、DVD
で作ることはさほど難しいことではない。
これによって、誰でもが高度な学問にいつでも触れることができるように
なる。そして、勉学の成果を試験によって世間に認めさせることもできる。
「学問は自由に、学位は厳格に」 だ。
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私見: 東大文学部の死
前述のように、戦前の東大文学部には誰でも入れた。
一高出の秀才でなくても入れたのである。ゆえに、戦前の作家や
歌人には、東大出が多い。
しかし、新制大学になって、そうではなくなってしまった。
昔の一高に相当する「東大教養学部」に合格する秀才だけが、東
大に入れることになった。
となれば、秀才以外の文学的天才は、東大には入れない。
戦前の多くの文学者は、現代に生まれたら、決して東大文学部に
進学することはできないであろう。
かくして、東大文学部は死んだ。
旧制から新制に移行することで、いちばん損をしたのは東大文学
部であろう。
もはや、創造者の家ではなくなり、評論家の学校になったのだ。-
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