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from: 一久さん
2008年04月30日 21時25分21秒
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教育と入試の根本的問題点
教育問題
日本の教育問題、特に受験に関するものにおける根源的な問題点は、多くの人
が試験によって人の能力を判定できると思い込んでいるという点にある。
これはなにも、ペーパーテスト賛美主義者のことだけを言っているのではない。
小論文や面接を重視せよ、と主張している人々も、これに含まれるのである。
なぜならば、彼らの意見は結局は、ペーパーテストではダメだが、小論文や面接
でなら、より正確な判定ができるというものであるに過ぎないのであるから。
逆にいえば、もしも彼らの主張が私のいうようなものでないのであるならば、
誤字脱字だらけだがキラリと光る私見を持った受験生を採用し、論文として完璧だが
ただそれだけという人間は採用しなくてよいはずである。
面接態度がむちゃくちゃ(ジュラシック・パークのマルコムのように)であっても、
天才的なひらめきを持つものをこそ受け入れねばならないことになる。
そんなことが日本の大学であったであろうか。将来的にも、あり得ることだろうか。
さらにいうと、「キラリと光る」とか「天才的なひらめき」などというものは、見
る側の主観にすぎない。飛びぬけていればいるほど、試験官には受験生の才能が理解
できないという事態が起こる。
極限すれば、凡庸な学者程度に理解できるようでは、天才ではない、と言える。
往時のフランスの学界は、ガロアを理解できなかったではないか。
天才的学者だけが天才的受験生を理解できる。とすればそれは、天才ではない世間
一般の人々からみれば、不公正な採用であるとしか理解のしようがない。
しかしこうでなければ小論文や面接を行う意味がないのだ。早い話が、面接や小論文
による入試は、エコヒイキによる採用を認めないのであれば、やる価値がないのだ。
このような入学試験を、日本の社会が受け入れることができようか?
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もちろん、そんなことはできない。
するとどうなるか。
小論文も面接も、客観的な判断基準による採点によって当落を決めねばならなくなる。
客観的な判断基準があるのであれば、それに答える答弁術が開発されるのは必定であ
る。結果として、入学試験は小論文や面接の重視によって、より技巧的なものになって
いく。
小論文が重視される以前において、予備校では日陰の存在であった国語の教師が、一
躍花形講師にのし上がったことでもそれがわかるだろう。
政府は一貫して技巧的な入学試験を排する、という方針をとってきたが、制度をいじ
ればいじるほど、入試は技巧的なものになっていった。その原因はまさにここにある。
「いかなる試験によっても、人間を客観的に評価することはできない」
この単純な真理を認めないからである。
試験によって人間を客観的に評価できると信じているからである。
問題があるのは、試験の方法が悪いからなのだ、と。
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試験にできることは、その人の知識・技術を客観的に評価することだけなのだ。
「人間を」客観的に評価することは不可能なのだ。
それ以上のことを試験に期待するからおかしくなるのである。
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