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from: アヒル村長さん
2012年10月07日 20時20分24秒
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町民運動会と養護学校
ちょっと前の中日新聞の記事によると。
愛知県内の、どこかの障害児の親の会のような団体が
「障害児も通常学校で学べる環境を」
ということで、あれこれ活動やらなんやらしているらしい。
活動をしているのは、肢体不自由のある子たちの保護者の方々。
痰の吸引をはじめとする看護士さんでないとできない医療的なケアや、ストレッチャーで教室に出入りするためのスロープやエレベーターなどなど。
そういうソフト面・ハード面両方での援助を求める動き。
…もう以前にも書きこんでいる気がするけれど。
気持ちは分かる反面、やっぱり何かがおかしい気がしてならない。
ある一人の要求は裁判沙汰にすればごり押しすることができても、
何百人単位で「新しい学校を作ってくれ」といっても、その要求はずーっと通らない。
要求が通って通常学校で健常児と共に過ごすことはできても、本来本人のために行うべき自立活動とかは一切できない。
でも、今回はそういうことではなくて。
町民運動会。
町民運動会は町内の子ども会対抗で行っているもの。
なので当然、超地域密着。
子どもだけでなく、普段運動不足のお父ちゃんもハッスルハッスル(笑
…それでも、同じ地域にいるのに出られない子もいる。
それが養護学校に通う子。
もうずーっと町民運動会のボランティアに参加しているのに。
小学校の支援級や元のバイト先で見かける子、それに今の勤務校で見かける子。
誰一人町民運動会で出会ったことが無い。
運動会以外にも子ども会対抗の縄跳び大会や球技大会、近所の神社絡みのお祭りなんかもあるものの、それもやっぱり同じこと。
ただ一緒に獅子頭に続いて歩くだけのお祭りですら、出られない。
…おかしくはないか。
「健常児と共に学びたい」
それはつまり、地域の同じ年齢の子どもたちと共に成長したい、すごしていきたいという願いと同じであるはず。
なのに、学校から一歩外に出て「地域」に目を向けると、健常児(者)と障害児(者)のつながりなんてほとんどないに等しい。
人生という長い期間で見れば、義務教育の学校時代なんてほんのわずかなもの。
もし仮に20年とか30年しか生きられないとしても…
家と学校にしか居場所がないとすれば、そんな生活はすごく窮屈でさびしいもの。
(実際に大きな課題となっていることでもあるし、だからこそ移動支援や行動援護というサービスが存在する。
とはいえ、それもサービスであって使える時間が限られている以上、ある意味応急処置的なものと言えるのかもしれない)
たとえ人生に占める割合としてはわずかな時間であっても、学校ですごす時間はとても貴重なものであるはずだし、そうでないといけない。
とはいえ、学校だって家庭だって地域の中にあるもの。
なのに学校だけを重視して、地域には目を向けないのはなぜなのか。
学校は養護へ通い、下校後や休日は地域との交流を。
そういう「地域の子どもたちと共にすごす」方法がなぜ初めから除外されてしまうのか。
義務教育の方が動かしやすくて、地域を動かすのは難しい。
それは百も承知だけど、そのままではいずれ学校を卒業すれば居場所はなくなってしまう。
そんなあれこれを考えると、学校にだけノーマライゼーションを要求するかのようなスタンスはどうしても応援できない。
誰が悪いわけでもないけれど、現状を変えられるのは当事者だけ。
…自分の数十年規模のひそかな野望。
養護という立場と通常学校という立場、その両者を現場で知ったうえで、大学時代のサークルのような場を作ること。
大人も子どもも、障害があろうとなかろうと。
月に1度か2度、一緒にすごす時間を楽しむ場。
近所に限っていえば、最近の子ども会は自前の活動よりも育成会などに相乗りして活動を丸投げすることを好む傾向にあるようだし…
進学時の内申稼ぎにと、不純な動機でボランティアに参加する学生も増えてきている。
(理由はどうあれ、まずはきっかけを逃さず参加することが大切 笑
さらには、育成会自体も「うちの地域は障害者が参加できる行事が無い…」と、何やら少なからず考えている様子。
そういう諸々が、うまーい具合に重なれば…?
今はただ漠然とそう思っているだけだし、これが養護を目指すきっかけとなった一つの要因でもあるのだけど。
合格通知が届いたばかりなので、今の時点で思っていることをメモがてら残してみる。
きっとすぐに「うわぁ〜…」と後悔する(苦笑
でも、残す。
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