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from: shantiさん
2010年09月16日 20時00分41秒
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生まれること・死ぬこと;カルマの法則
皆さん、こんにちは。
ある日、私たちの乗ったタクシーが子猿をはねてしまいました。
猿の家族が車の前を横切って、ドライバーが急ブレーキを踏んだのはわかったのですが、はねたことには私は全然気づきませんでした。
すこ〜し進んでから、主人が「Uターンして」とドライバーに言って。
戻ると車が次々に通る車道の上で子猿が血を流して息絶えていました。
主人は子猿を抱えて道路わきの土の上においてやりました。
猿の一群はみなその様子を見ていました。
主人もドライバーさんも沈痛な面持ちでした。
子猿はこうやって死ぬために生まれてきたのでしょうか?
インドでは、“Yes”と考えます。
猿に生まれてくることも、人間に生まれてくることも、
恵まれた環境に生まれてくることも、荒れた環境に生まれてくることも、
自分を大切にしてくれる人に出会うことも、自分を苦しめる人に出会うことも、
そして、どう死ぬかも
全て理由があると言うのです。
一番わかりやすいのは、間違った食生活や生活習慣で身体を壊すこと。
これは原因と結果の繋がりが良くわかります。
子供の世界でよくあることに、
小さいときに自分がこっぴどくいじめていたものに、数年後にいじめ返されること。
これも因果が良くわかります。
わからないのが、前世で自分がやったことが今の自分に影響してくる事。
前世の記憶はほとんどないですから^_^;
インドでは“生まれ変わり”というものを信じています。
じゃあ、何で、生まれ変わるのか?
それは、原因を作ったらその結果を受けないといけないから、と言います。
「まいた種は刈り取れ」と言うわけです。
他人が代わりに刈り取ってはくれないのです。
あまり良くない例ですが、
前世で何かよくないことをして、その結果現世で人生に問題が起きたとします。 そしてその問題と向き合えなくなり、それから逃れようと自殺をしたとします。
けれど、その人は自分でまいた種を刈り取っていないので、又来世それを刈り取るまで生まれ変わってこなければならない、と言うのです。
逃げる限り、この輪から抜けられないのです。
ちょっと、怖いですが^_^;
子猿の話に戻ります。
彼はまず、猿に生まれました。
生まれて日の経たないうちに、道路に飛び出し、車にひかれました。
何故、道路に飛び出したのか。
何故、その時に飛び出したのか。
何故、他の猿でなくその猿だったのか。
何故、多くの車の中で私たちの乗ったタクシーだったのか。
子猿は生きるのが嫌になって自分から死のうと思って飛び出したのでありません。
期せずしてそうなってしまったのです。
私達の車であったのも、たまたまでなく、誰かと何かの縁が前世であったのかもしれません。
一般に生き物が死ぬと、私たちは悲しみます。
相手が子供であったり、知り合い・肉親であったりするとなおさらです。
インドでは“魂は永遠”と言う考え方もあります。
前世で何か他のものとして生きていたものが現世で“猿”という器を選んで入ってきた。
事故にあって死ななきゃならないほどの種をまいたその子は、その実を刈り取ったと言う考え方をするのです。
そして、魂はそれでカルマを清算したらもうこの世に生まれ変わらなくてすみます。
まだ刈り取らないといけないものをしょっていたらまた生まれ変わってくるのです。
“ヨギは死んだら犬に生まれ変わる”と言う話があるそうです。
ペットではなく、野良犬です。
ヨギとは、ヨガを修練し、世の中のもの(家族や地位、財産など)に対する執着を捨て、
何事が起きてもそれを平常心で受け入れられる人のことです。
嫌な事でもすべて逃げたいと思わず、受け入れ、新しいカルマを作らないよう精進して生活をする。
それで、死んだ後、
次に野良犬に生まれ変わって、飢えに苦しみ、怪我や病気に苦しみ、清算されていない残ったカルマを全部きれいに刈り取り、
生まれ変わってくなくてもいいようにするのだそうです。
90歳になった義母が言っていました。
「家族やペットが亡くなったからと言って悲しみを引きずってはいけない。
魂は一つカルマを清算して身軽になって喜んでいるのに、私たちが悲しむと、魂も困惑してしまうから」と。
勿論、上の考え方はインドの昔からの考え方であり、受け入れられない方があって当然と思っています。
読み流して下さいませ。
shantiでした。 -
from: shantiさん
2010年09月01日 01時51分18秒
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「知っている」と言うことと「理解している」と言うことは違う
こんにちは、皆さん。
言葉の表現の違い、とも取られかねませんが、如何せん日本語の表現が上手くないもので....^_^;
今や色々な知識は本やネットからいくらでも仕入れることが出来ます。
ヨガですら。
でも、知識があると言うことと、身をもって理解できていると言うことは違うと思っています。
例えば、子供たちに「人を傷つけることはしてはいけません」と言うと「そんなことわかってる」と答えます。
でも、平気で人の悪口を言ったり、ごまかそうとしてしまいます。
知識と行動が結びついていないのです。 或いはそれは、傷つけていると理解できていないのかもしれません。
ヨガにも生き方に関するいろんな言葉が出てきます。
ネットでも本でも調べられます。 ヨガのお勉強を学校でされている方なら、ヨガの講義などにも出てくるでしょう。
が、それでヨガを知ったことにはなりません。
ヨガは実践を大事にします。
知ったらそれを実行に移す努力をしないといけません。
それは結構難しいです。
例えば、冒頭に出した「人を傷つけてはいけません」。
この厳しい競争世界で、他よりも抜きん出る事はとても重要視されています。
表面だけのつながりの薄い世界で、嫌われない様に話を合わす必要もあります。
あまりにも社会が激しく傷つきやすいので、傷を舐めあうお友達も必要です。
ヨガの入り口は何でも構わないです。
身体から入ろうが、心から入ろうが。
でも、入り口から少しずつ奥に入っていったとき、
果たしてそれでいいのか? と気づき、“おかしいよ”と言う声が聞こえてきたらそれに答える努力はすべきじゃないかな、と思っています。
最近、ヨガの心の面も強調されだしたようです。
「ここではヤマやニヤマも教えています」というヨガの宣伝を見ました。
ヤマ、ニヤマというのはポーズ以前のヨガの土台となる感情や感覚のコントロール事項です。
教わったらそれを日ごろの生活の中でどう生かそうとするか、それが本当に「わかった」と言うことになると私は思っています。
言葉だけなら幼児でも覚えます。
それで終わらず、常に意識して生かそうとすることが、成長に繋がるんではないかな、と。
言うは易し、行うは難しですが^_^;
shantiでした。
猫の「さくら」。
彼はいつもそのまんま。
裏表がありません。
だから、人には構えるけれど、
動物には心を許せる人が多いのかもしれません。