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from: shantiさん
2006年09月08日 02時11分05秒
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インドの哲学(の一部)
こんにちは、皆さん。
shantiです。
日本も朝夕涼しくなってきたとか。 そうそう、大事な男の子が生まれたと、こちらの新聞にも結構大きく載っていました。
こちらでは、3名のヨガ教師養成講座も無事終了し、元医者の義母のインド哲学の特別講義の後、3人とも修了書兼認定書を手渡してもらい、喜んでいました。
8日の朝、ここを発たれます。
最近はインドの古典ダンスや近くの学校の運動会、紅茶の工場まで見学し、最後まで充実した日々を送られていました。 毎日色々なことがあって、充実しすぎていて日記にまとめきれない、と悲鳴を上げておられます。
あっこさん、メッセージありがとうございます。 あっこさんの悩みはたくさんの方が持っていらっしゃると思います。
ヨガと関係ないどころか、実はとても関係のあることなんですよ。
> 職場でどうしても合わない人がいます。意地悪をされるとかではないのですが その日とが近くにいてしゃべるだけでイライラしてしまうのです。人のコトをこんなふうに感じたコトは今までなく あまりのイライラに自分でも驚きで…こんな自分がイヤになってしまいます。そんな時でも呼吸を意識したりしながら自分を落ち着かせられるようになりたいと感じました。
私達の所には、例えば長年連れ添った夫のことがどうも我慢できなくて、離婚したい。 でも、そう思っている自分が勝手なのか...など、悩みを抱えてこられる方もいらっしゃいます。
私達はヨガや霊気で他人との人間関係をいい方向に築いていく方法も教えています。
自分が接する多くの人の中には確かに合わない人もいると思います。 性格、というよりは波長が合わないという場合もあると思います。 無理に自分をつくろって仲良くしようとする必要もないと思うのですが、イライラしてストレスが溜まるのでは考えものですよね。
インドの昔の考え方に、どの人の中にも、他の生き物の中にも同じエネルギーが流れていると言う考え方があるそうです。
それぞれの外見や考えは違うのですが、それらを皮を剥くように剥ぎ取っていくとその内にあるものはみんな同じだと言うのです。
それは多少の違いはあれ、凄く純粋で輝きのあるものだそうです。 それがあるから、例えば、他の人や生き物にもいたわりの気持ちを持てたり、綺麗な景色を見て我を忘れて感動したりできるのだそうです。
嫌な相手の中にも自分が持っているのと同じような輝きを持ったエネルギーが流れていると思って見ていくと、その人のことが許せるようになってきます。 その人がやるちょっとした動作に自分との共通点を見たりすると、何かその人のことを理解できるような気がしたりします。
さっき書いたように、無理に仲良くなる必要はないと思いますが、その人のことを少し好きになるよう心がけてみて下さい。 その人のことを好きと思って挨拶をしてみたりしてみて下さい。
自分のその人に対する見方だけでなく、その人の自分に対する態度まで不思議と変わってきます。
ヨガはそういう心の持ち方を教えてくれます。 アーサナーだけではない、ヨガの深さがここにもあります。
パタンジャリヨガ(アシュタンガヨガ)の所で書いた「ヤマ」「ニヤマ」の心のコントロールです。
これらが出来るようになると本当に周りのことが輝いて見えてきます。
何か、参考になればいいのですが(何の参考にもならなかったらごめんなさいね)。
コメント: 全3件
from: shantiさん
2006年09月15日 12時44分44秒
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「インドの哲学(の一部)3」
こんにちは、皆さん。
インドの昔の教えはたくさんの“偉い方々”が今でも講和などで伝えていらっしゃいます。 その中には現代人の私達が聞いても“なるほど”と思うものがたくさんあります。
私の好みで恐縮なのですが、機会があれば幾つか紹介していきたいと思っています。
すでに紹介した、「思い」と「言葉」と「行動」を調和させなさいと言うのもその一つです。
また、別の私の好きな言葉は、“私達の人生は1対の羽を持った鳥のようなものだ”というものです。
私達は「すべてのものに対するいたわりの気持ち、愛」と「すべてのものに対する奉仕の精神(見返りを期待しないものです)」をそれぞれの羽として持つべきだというのです。
鳥が1対の羽で羽ばたいて空を飛ぶように、私達は「愛」と「奉仕」という1対の羽で気高く羽ばたいていくべきだと。
「愛」とか「奉仕」とか言う言葉を聞くと、なんか宗教臭くて、かえってダサイと感じる方もいらっしゃると思いますが、昔の日本でもお互い助け合う気持ちは今までの何倍も多かったと思います。
ちょっと精神が荒れた今の社会ですがそれでも、運賃表の前で迷っている人や突然駅のホームに落っこちたり、通りで倒れたりした人に対して、思わず何とかしてあげたいと言う気持ちが湧くのは、私達が本質的にそういうものを持っているからだと思うのですが。
説教臭くなってしまったでしょうか? もしもそうお感じになられたら、すみません。
shantiでした。
from: shantiさん
2006年09月13日 14時04分59秒
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「インドの哲学(の一部) 2」
こんにちは、皆さん。
shantiです。
インド哲学の根底に流れている考え方には、“本当はみんな同じなんだよ。 自然のエネルギーの一部なんだよ”と言うのがあるというのは前のスレッドで書きました。
また、それぞれの人にはそれぞれの道があって、自分を高めるためにどの道を選んでも構わないと言うのも以前書いたと思います。
そういう考えの下、あらゆる宗教の神様、キリストもアラーも仏陀も...すべての神様を認めます(仏陀は神様ではないですが)。
その考え方の中では、神様はそれぞれ名前と姿が違うだけで、みんな同じものに実は思いを寄せているんだよ、ということになります。
だから、その考え方の中では、キリスト教を信じている人はいいキリスト教徒になりなさい、イスラム教を信じている人はいいイスラム教徒になりなさい、仏教を信じている人にはいい仏教徒になりなさい...と言っています。
これも以前書きましたが、僧侶とか、一部の人たちに利用されることなく、本当のいたわりとか愛情に満ちることが、何か大きなものに対する畏敬の念とともに大事なんだと私は思うのですが。
そういう考え方で、インド哲学とかヨガには、「神」という言葉は出てきますが、“宗教”とは別のもので、人間として生きる根本に戻ることを教えてくれていると、私は思っています。
いつものように、“それは違う!” と言う方がいらっしゃっても一向に構いませんので。
from: shantiさん
2006年09月29日 01時32分06秒
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「インドの哲学(の一部)4」
皆さん、こんにちは。
この前、「奉仕」という言葉を書きました。
日本でもボランティアと言う言葉が完全に定着していますよね。
見返りを求めず、困っている人(もの)を助けたいという純粋な気持ちから出てくるものです。
で、インドにこういう言葉があります。
最初の奉仕は家族の中で。 その中で損得勘定なく、心からの奉仕が出来る人が初めて家の外に対しても奉仕ができると言うものです。
最終的にはインドの考え方では、家族も家族外も区別がないし、家族に対するものとそうでないものに対する気持ちなどは違うと言われればそれまでなのですが、私達にはわかりやすい例えかなと思います。
自分も家族も社会も地域も国も世界も宇宙も全部繋がっています。 大きなものに奉仕をするのも勿論素晴らしいことなのですが、足場がちゃんとしていないと、いくらいいことをしているつもりでも、それはタダの自己満足に過ぎないという事なのかもしれません。
“あの人たちが可愛そうだ”と言って現場に飛んで行く一方で、自分の親をないがしろにしていたらダメだよ、ということなんだと思います。
ただし、ボランティアで働いている人たちをどうこうと言う気持ちは一切ありませんので。
インドでは家族(特に親)というものをとても大切に考えます。 社会の核だからです。
昔のインドにはそういう考え方があったんだな、と言う程度に取って下さいね。
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