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from: ぐら姐さん
2021年01月31日 17時23分45秒
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ポポロ広場からショッピングストリートのコルソ通りをしばらく歩いて行くとコンドッティ通りと交わり、そしてさらに歩くとヴェネツィア広場まで続いています。
ヴェネツィア広場の向こうには建築物としてはあまり評判のよろしくない、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂があります。
その手前の辺りは結構歩道が狭くて、これ、多分ナターレの直前辺りに撮ったものですが、買い物をする人たちが車窓にはみ出していました。
ナターレの頃の夜に撮った写真。
やはり年によって違います。
こちらの方が色が見えるでしょうか、イタリアンカラーの灯りの帯です。
別な年。
BUON NATALEのトピで載せた、ヴェネツィア広場
別な年にはツリーだけでした。上の写真の方がずっと素敵です。
コルソ通りからコンドッティ通りを撮ったもの。
13年夏にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の横を通った時に、この建物の天辺に上るエレベーターがあることに気づき、上ってみました。
屋上です。
まっすぐに伸びているコルソ通りが見えました。icon
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from: ぐら姐さん
2021年01月31日 09時07分54秒
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from: ぐら姐さん
2021年01月30日 16時01分54秒
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ローマの北の玄関口、ポポロ広場にもよく行きます。
メトロのフラミニア駅を出て地上に出ると目の前にそびえるポポロ門(フラミニア門とも言われますね)
1475年にローマ教皇シクストゥス4世により建てられた門で、上の写真に見えている方がミケランジェロが手がけており、内側(広場側)は、バロック芸術の巨匠ベルニーニが手がけたものだそうです。
すみません。冬に撮った動くライトアップというか、こんなのが映っている写真しかありません。
あとは遠目に見たもの。
広場の中央に立っているオベリスクは、高さが約24m、基盤も含めると約36mの高さで、20万人収容のチルコ・マッシモ(戦車競技場)に初代皇帝アウグストゥスがエジプトから持ち帰って立てていたものをここに移転しています。
広場から南に向かって伸びる3本の道は、向かって右が、けっこうオリジナルで小規模なお店が並ぶリペッタ通り(私の大好きなエノテカ、ブッコーネもここにあります)、ショッピングストリートのコルソ通り、私はほとんど足を踏み入れたことのない、桁が多い値段が表示されているブティックや高級ブランド店が並ぶバブイーノ通りです。
3本の道の起点には双子教会と呼ばれる教会があり、左側がサンタ・マリア・イン・モンテサント教会で右側がサンタ・マリア・ディ・ミラコーリ教会。
この景色が結構好きで、何度も撮っています。
夜もなかなかきれいです。
この広場で何かをするわけではありませんが、メトロでフラミニアまで行き、この広場から歩き始めるのが大好きです。
(たいていは、リペッタ通りに入りますが)icon
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from: ぐら姐さん
2021年01月29日 14時31分19秒
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初ローマの方が必ず訪れるところの1つにトレヴィの泉がありますね。
たった1泊だけの私の初ローマの時も訪れました。
もちろんコインを投げて、また、どころか何度も何度も訪れることになりました。
ローマを訪れたうちの4~5割の確率で訪れているかもしれません。
パンテオン同様、歩いていて行き当たることも何度もありました。
それなのに... 無い!トレビの泉の写真が見つからない!!
訪れた昔の写真をデータ化したものがPCに入っていないこともあるのですが。
それなので、トレヴィの泉は諦めて、スペイン広場のことを載せることにしました。
それこそこの辺りは買い物やら何やらでよく通るので広場にあるバルカッチャの泉、スペイン階段、その上のトリニタ・デイ・モンティ教会などの写真はちょこちょこ撮っています。
バルカッチャの泉
泉の写真よりも階段の写真をたくさん撮っていました。
ナターレのころ。
年によって、ツリーは違います。
初めて行った頃は、階段に腰掛けるのも、ジェラートを食べるのも禁止されていませんでしたが、今はどちらもNOですね。
いつ行っても、観光客でにぎわっていましたが、今は人もまばらなのでしょうか。
次にローマに行ったら、ここは絶対と言っていいほど通るだろうと思います。icon
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from: ぐら姐さん
2021年01月28日 13時41分48秒
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今日はコロッセオのことを書きます。
と言っても中に入ったのは1回だけ、外観もそれほど見てはいないのです。
外観をちゃんと写真に撮ったことは...まあ!ありませんでした。
せいぜいこんなもの。
たった1回だけ、中に入った時の写真はたくさんあります。
この闘技場、その前はネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池だったそうで。
この人工池の建設時に地表は10m近く掘り下げられて一部は岩盤に達していたため、その跡地に建設すると基礎工事をいくらか省略することができたのだそうです。
実際に闘技を行うところの地下が、こんなふうにしきられて、楽屋のようになっているのが面白いと思いました。
こんなふうにして、手動のエレベーターで猛獣が闘技場に運ばれるのですね。
モザイクもありました。
でも、なんだか闘技そのものにあまり惹かれない私は、コロッセオを何度も観に行きたいという気持ちにはなりません。
でも、ローマという都のイメージを表すイラストには必ずと言っていいほど登場しますね。icon
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from: ぐら姐さん
2021年01月28日 08時49分13秒
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IANUAさん、
ありがとうございます!
ウンベルト1世のことは、私が下手に調べるよりIANUAさんがご存じなのではないかと期待していたのです…(すみません)
アナーキストに暗殺されたのですね。
私、アナーキストってよく分からなくて、ちょっと調べたら
「理想的目標を達成するために様々な戦術を用いているが、それらは革命的戦術と進化的戦術に大別される。革命的戦術は、権威と国家を打倒することを目的としており、過去には暴力的方向へ転じた。」
とありました。
この暗殺者はとにかく国家を妥当したくて暗殺したのでしょうね。
アナーキストの理想的目標というのが何なのか私にはさっぱり分かりませんが。
結局この頃にムッソリーニが台頭してきているわけですね。
>この人たちは今もサヴォイア家に仕えている人たちか王党派なんでしょうね。
なるほど。
なんだか襟や胸にかっこいい勲章だかバッジだかをいくつもつけているようでした。
>とりわけ業績があったわけでもない国王なのにパンテオンがお墓なんて贅沢な、
そうですよねー。
あんなに素敵な場所に安置されるなんて。
(死んだらどこだって同じようなものではありますが。)
>王妃が有名なマルゲリータ、つまりあのピッツァの人です。
やっぱり。
マルゲリータというお名前を見て、もしやと思ったのですが。
ピッツァ・マルゲリータの歴史はそんなに長いものではないのですものね。
今や世界的に人気ですけれど。
>(おバカな)「王子」エマヌエーレ・フィリベルト氏
調べたら、もう48歳なのですね。
画像を拝見すると48歳なりのいい人生を重ねた顔ではないですねえ。
私がただ1回、いつもと違う時期、1月下旬から1か月イタリアに行っていた’02年、滞在中に大きなニュースになっていたのが、国外追放され、スイスに住んでいるサヴォイア家の一族が入国を許されるようになりそうだというものでした。
ヴィットーリオ・エマヌエーレとピエモンテ=ヴィネツィア公エマヌエーレ・フィリベルトがイタリア共和国憲法を承認する(=王政復活を求めない)宣言を行ったときだったのですね。
その大きなニュースの大きな部分を占めていたのが、イケメン王子だったように思います。
当時30歳ぐらいだったわけですが、もっと若くかっこよく見えたのですが、本当におばかみたいですね。
いくら彼が檄を飛ばしても、王政に戻ることはないでしょうねえ。icon
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from: IANUAさん
2021年01月28日 00時27分15秒
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ぐら姐さま、みなさま、こんばんは~
ウンベルト1世はアナーキストに暗殺されたのです。もしや・・と思って調べてみると、ピンポーン!で、まさに暗殺日が7月29日です。
この人たちは今もサヴォイア家に仕えている人たちか王党派なんでしょうね。
とりわけ業績があったわけでもない国王なのにパンテオンがお墓なんて贅沢な、トリノのスーペルガ聖堂でいいじゃない・・なんて思ってしまうのでした。
王妃が有名なマルゲリータ、つまりあのピッツァの人です。
リソルジメントの歴史は面白いのですが、その後の二代目になるとワクワク感がなくなって面白くなくなります。
そういえば昨年このおうちの(おバカな)「王子」エマヌエーレ・フィリベルト氏が今こそ王政復活をという意味の檄を飛ばしていましたが・・時代錯誤だって。まあ南にはこれまた時代錯誤なネオブルボンという一派がいるそうですが。icon
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from: ぐら姐さん
2021年01月27日 10時13分57秒
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一昨日のサン・ピエトロ大聖堂と昨日のパンテオンに付け足しです。
大聖堂が両側に腕を伸ばし大きな広場を抱えるようにして立っている柱廊。
二重になっている柱がぴったり重なって見えるポイントが広場にあると聞き、わざわざそこに立って撮ってみた写真があるのです。
これがその目印(南側)。
でもね、せっかく撮った写真がこうなんです。
そう、修復中…
北側のポイント(南側と変わりませんね…)
こちらも修復中。
修復が終わった後にも訪れているのに、柱が重なる写真を撮ろうと思わなかったのでしょう、この時以外の写真は1枚もありません。
今度行ったときに、忘れなかったら撮ってみるつもりです。
パンテオンに’12年7月29日に入った時のウンベルト1世の墓には警備なのか特別に何かを受け付ける人なのか、こんな人たちが立っていました。
↑の壁についている紋章なのか何か。
ウンベルト1世って、56歳で亡くなっているのですね。
この時しかこんなに関係者らしき人がたくさんいるのを見たことがありません。
何かの記念日だったのか、特別なことがあったのか…icon
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from: ぐら姐さん
2021年01月26日 16時51分35秒
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ローマに行くと必ず、と言っていいほどパンテオンに立ち寄ります。
位置的に行きやすい場所にあるのも理由の一つです。
近くに老舗カフェやジェラテリアもあるし。
(パンテオンがあって、観光客がたくさん訪れるので、近くにお店がたくさんできるということなのかもしれませんが)
最初のパンテオンは紀元前25年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造されました。
パンテオンは元々アウグストゥスを奉ることを予定していたのに、市民の反発を避けるため、万神殿に変更されたとの説もあるそうです。
このパンテオンは後に火事で焼失し、2代目のパンテオンは118年から128年に掛けて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって再建されました。
現在、私たちが見ることが出来るのはこの再建された2代目のパンテオンなわけですが、正面にはアグリッパに敬意を表し M. AGRIPPA L. F. COS TERTIUM FECIT(ルキウスの息子マルクス・アグリッパが、3度目のコンスルの際に建造)と記されているのだそうです。
パンテオンに行くつもりでなくても、ぶらぶら歩きの途中で出くわすこともあります。
そして自分がどのあたりをうろついていたかを理解する感じ。
'13年の夏の夕方に訪れた時の写真。
正面上にM. AGRIPPA L. F. COS TERTIUM FECITの文字が見えます。
扉の前で、チェロの演奏をしている人がいました。
お金を入れる箱が出されていないのは、ただここで演奏したいだけ?
パンテオンを眺めながらお酒や食事をいただくのはそれなりに気持ちが良いのだろうと思いつつ、人が多すぎるし、きっと安くはないのだろうし、と思って一度も座ってみたことはありません。
近くに、老舗ジェラテリアのジョリッティと新興ジェラテリアのグロムがあるので、この写真を撮った時に、ジェラテリアのはしごをしたことがあります。
ジョリッティ
グロム
コロナ禍の今も、今後も、こんな風に1つのジェラートを3人でつつくなんてことはできなくなりましたね。
雨の日にパンテオンに行ってみたこともあります。
天井に円形の穴があるので、雨の日はどうなっているかしら、と。
この穴、なんと直径9mもあるのだそうで。
そういうことを聞くと、外側から天辺近くに上ってみたくなります。
雨は、当たり前ですが、中に落ちていました。
床は中央に向かって緩やかに傾斜していて、中に入り込んだ雨水は、中央の小さな穴から排水されます。
これが、真ん中の穴ですが、雨の日に撮ったものではありません。
雨の日は、入場者が滑らないようになのか、周囲を汚さないためなのか、穴の周囲を直径10mぐらいでしょうか、ロープが張られていました。
中の写真をもう少し載せます。
天辺の穴からの円形の日差しが壁に当たっています。
昼は天辺の穴からの日差しで中が見えますが。夜はちゃんと照明が灯ります。
内部にはイタリア王国の初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世と、ルネサンス期の巨匠ラファエロが埋葬されています。
こちらがヴィットリオ・エマヌエーレ2世の墓。
冬、12月25日以降に行くと、キリストが誕生しています。
どうしてパンテオンが好きなのかしら、と改めて考えてみると、1900年も昔の古代ローマで(日本だと魏志倭人伝だのヤマトタケルだのの時代なのに)こんなすごい建築物が造られたことに、ただただ感動を覚えるのかもしれません。
建物は、深さ4.5mのローマン・コンクリート基礎の上部に直径43.2mの円堂と半球形のドームが載った構造。
壁面の厚さは6mもあるそうで、高さによって材質を使い分け、ドーム上部には凝灰岩と軽石を素材として用い、厚さは1.5mになっているのだそうです。
シチリアなどで神殿を見ても思うのですが、古代の人たちの建築技術は本当にすごいなあと思います。icon
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from: ぐら姐さん
2021年01月25日 09時50分10秒
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イタリアでは医療関係者へのワクチンが始まり、次は高齢者に向けて始まるところだそうですが、2度打つワクチンなのに、2回目分が足りない状態だそうです。
そして何ともイタリア的なのですが、優先順位に反して家族や友人に先にワクチンを打つ医者がいるなど、問題も出ているそうで。(イタリアだと、信じられない!と思うよりは、当然あるだろうなあとすんなり納得してしまう私がいます。)
6月の段階で人口20%程度しかワクチン接種できず、このままだとまだまだ長引きそうだとのこと。
さて、どうなりますことやら。
日本もですけれどね。
多少は前進と思うことにしましょう。
さてさて、今日はイタリアを旅行する誰もが訪れるローマでほぼ100%の人が訪れると思われるサン・ピエトロ大聖堂を取り上げます。
コロッセオだとバスの中から外観を見るだけというツアーも多いのでしょうが、サン・ピエトロ大聖堂には必ずと言っていいほど中に入るのではないでしょうか。
上の写真は、’18年夏の早朝散歩の時に撮ったものです。
初めて行ったのは、’89年の初ローマのときで(初イタリアとは言えない、ミュンヘンに行くためのストップオーバーの1泊でした)、早朝にローマに着き翌朝にはミュンヘンに飛ぶ、まさに丸一日だけのローマでしたので、ホテルに荷物を預かってもらうのも早すぎるし、時間のロスも勿体無いということで背中に大きな荷物を背負ったまま(これまたコロコロ転がせるタイプのキャリーバッグやスーツケースは出回っていない時代で、丈夫で大きなバックパックを背負って旅していました)、何時だったか忘れましたが、ここに入れる一番早い時間に訪れたのでした。
今のようにセキュリティも厳しくはなく、大きな荷物は預けなさい、というだけだったので、バック・パックを預けて中に入りました。
観光客もまだいない、ひっそりと静かな大聖堂に足を踏み入れると、東から上った太陽の斜めの光線が、主祭壇方向にまっすぐに入り、横の礼拝堂で始まったミサの讃美歌が聞こえてきて、神聖なというか神々しい雰囲気に溢れ、私はクリスチャンでもないのに心震える思いがしたことを今でも鮮やかに記憶しています。
これはずっと後に知ったことですが、多くの聖堂は西向きに建てられ、朝は後陣から日が差し、夕方にファサードに西日が当たってファサード全体が映える造りになっているのに、サン・ピエトロ大聖堂は逆なのです。
創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものとのこと。
これ以上ぐちゃぐちゃ七面倒なことは書くのは止めておきます。
何度も訪れているのに、中の写真をそれほどたくさんは撮っていませんし(最初の時のフィルム写真はデータ化していません)、クーポラに上ったのは2回だけ。
今日は冬に夏に、早朝や夕方に撮った外観を載せます。
これは’13年8月。すごい人・人・人でした。
このときはクーポラにも上りました。
’17年夏は、水不足で多くの噴水が水を止められていました。
’17年12月。ナターレの飾りは、大きいけれど格別に凝ったものではなく。
最初に載せたのと同じ時’18年夏、日が傾くと大聖堂は太陽を背負い、逆光になるのでした。
この年は水不足ではなく、噴き上げられる水が逆光を透かして涼しげでした。icon