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神話読書会〜女神さまがみてる〜

神話読書会〜女神さまがみてる〜>掲示板

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  • from: エリスさん

    2010年09月10日 14時55分29秒

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    未来は視たくない・1


     オリュンポスの男神の中でもNo.1の美貌の持ち主と称えられる太陽神アポローンは、それでいて恋には恵まれていなかった。
     心から愛した女性は、自分とは双子の姉にあたり、そのため相手からは「弟」としてしか愛してもらえなかった。
     その寂しさを埋めるかのように、いろんな女性に恋を仕掛けるのだが、どういうわけか振られてしまったり、両想いになっても浮気をされたり……と、踏んだり蹴ったりな結果ばかり。
     それでも、今度こそと思う相手が見つかり、アポローンは慎重に事を進めることにした。
     先ず、運のいいことにその娘の弟が、自分の側近の一人だった。
     アポローンはその弟――ケレーンを呼び寄せると、一通の手紙を差し出した。
     「これを、そなたの姉の――あの、トロイアのアテーナーを祀る神殿に仕えている巫女殿に、渡してくれぬか?」
     「これは……」
     後にアポローンの娘婿となるケレーンは、この時十六歳だった。
     「ラブレター……ですか?」
     「まあ、そういうことだ」
     それを聞いて、ケレーンは嬉しそうな笑顔を見せた。
     「ありがとうございます! 君様が我が姉をお見染めくださるなんて、なんて光栄でしょう! 姉はとても素敵な女性なんです。母親の違う弟であるわたしにも、とても親切にしてくれるんです」
     「そう、他の兄弟たちは、そなたの母親の身分が低いのを馬鹿にして、そなたにいじわるする者も多いのに、巫女殿と、そして長兄のヘクトールだけはそんなことをしなかった。だから目に留まったのだ。……さあ、行ってきてくれ、ケレーン」
     アポローンに促されたケレーンは、手紙をしっかりと掴むと、アポローンから下賜された空飛ぶ馬でトロイアまで向かうのだった。
     そのトロイアの王宮から少し離れたところに、アテーナーを祀る神殿があった。ケレーンは迷いもせずにその中央にある「祈りの間」へ足を踏み入れた。
     そこで、黒髪の少女が女神像にひざまずいて祈りをささげていた。
     「姉上! カッサンドラー姉上!」
     ケレーンの声で、少女は立ち上がり振り返った。
     トロイアの第二王女カッサンドラー――この時はまだ十八歳だった。

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コメント: 全16件

from: エリスさん

2011年01月28日 12時39分34秒

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「未来は視たくない その後」

 太陽神アポローンは、水鏡を使って斎王神アテーナーと話をしていた。
 「それじゃアイアースはもう、海の藻屑に消えたのですね。……いえ、姉上が罰を与えたのなら、わたしから更に与えなくてもいいでしょう。……はい、ネオプトレモスに罰を与えたのはわたしです。ご存知ですか? あの小童は、自分の父親のアキレウスが死んだのは、わたしがトロイアに肩入れしていたからだと言い、わたしに復讐するとわめいていたのですよ。神に復讐するなど、とんでもない不遜です。罰を与えて当然です……はい、ではまた」
 アポローンが水鏡の術を解くと、背後から声をかけられた。
 「アポローン様」
 声をかけたのはカッサンドラーだが、ケレーンとシニアポネーも一緒にいた。
 「どうした? 三人そろって」
 とアポローンが言うと、カッサンドラーとケレーンはその場に跪(ひざまず)き、アポローンの娘であるシニアポネーは父親のそばまで歩み寄ってきた。
 「お父様にお願いがあって参りました」
 「願いとは?」
 「お願いとは」とカッサンドラーが口を開いた。「私の母のことです」
 「ヘカベーのことか……そう言えば、今日だったな」
 トロイア戦争が終結した後、トロイア王家の人間はギリシア軍の武将がそれぞれ捕虜として連れて帰ることになった。そのうち、ヘクトールの妻・アンドロマケーは、アキレウスの遺児であるネオプトレモスの捕虜となり、ネオプトレモスが十二歳になった時に妻になるように命令されていたのだが(この時ネオプトレモスはまだ十一歳)、そのネオプトレモスが先日、アポローンへの暴言により天罰がくだって死亡したので、晴れて自由の身になっていた。
 そしてヘカベーはオデュッセウスの捕虜とされていたのだが、彼はヘカベーを自国へ連れて行く気は毛頭なく、ヘカベーの望む所へ送り届ける約束をしてくれていた。そこで、ヘカベーは長女のイーリオネーが嫁いだトラーキア国に連れて行ってほしいと頼んだ。そこにはトロイア陥落の直前に亡命させた末子のポリュドロスもいるはずである。
 「ところが……カッサンドラーの未来予知によると、トロイアが陥落したことを知ったトラーキアの王ポリュメーストールが、このままポリュドロスを匿っていると己に害が及ぶのではないかと思い、ポリュドロスを騙して港に連れて行き、殺してしまう……」
 アポローンが言うと、カッサンドラーは、
 「はい、トロイアに援軍を送るからと、嘘をついて連れ出すのです。姉のイーリオネーにも同じ嘘をついています」
 「そしてヘカベーは、ちょうど息子が殺されたのを目撃してしまい、相討ち覚悟でポリュメーストールに斬りかかって、殺されてしまうのだったな」
 「そうです。それが、今日なのです」
 「お願いです! 君様!」と、ケレーンは頭を下げた。「ヘカベー様をお救いください!」
 「……そうだな」
 と、アポローンは微笑んだ。「死んだことにしておけば、そのまま姿を消すのも同じこと。ただ、必然的にポリュドロスも救わないとならなくなりそうだが、それはいいのか? ケレーン」
 アポローンの言葉に、カッサンドラーとケレーンは頭をあげた。
 「ポリュドロスもお救い下されるのですか? アポローン様」
 とカッサンドラーが聞くと、
 「それも可能だ。だが、ケレーンはそれでもいいか? ポリュドロスも後宮の生まれ。そなたを苛め抜いた兄弟たちの一人ではないのか?」
 「いいえ、ポリュドロスはわたしが後宮にいたころは、まだ生まれていませんでした。それに、実母が早くに亡くなったので、ヘカベー様が養母として引き取った子供だと聞いていますから、境遇はわたしと似ています。同情こそすれ、恨む心はありません」
 それを聞き、アポローンはうなずいた。
 「よし、分かった。ならば救いに行け! シニアポネー、わたしの弓矢を持って行け。そなたのより性能がいいからな、射ち間違うこともなかろう」
 「ありがとうございます、お父様」


 こうして、カッサンカドラー達はシニアポネーの空飛ぶ鹿車でトラーキアに向かった。すでにヘカベーは上陸し、王城に向かおうとしていたところだった。そこで、兵士を引き連れたポリュメーストールにポリュドロスが殺されそうになる、まさにその場面に出くわして悲鳴をあげたとき、ポリュメーストールの左目に黄金の矢が刺さった。
 王がいきなり死んだのを見て、兵士たちが慌てふためいている隙にケレーンがポリュドロスを連れ去り、ヘカベーはカッサンドラーが鹿車まで連れて行った。そしてようやく兵士たちが我に返ってポリュドロスを追いかけようとするのを、シニアポネーは再び何本もの矢を放って彼らを脅した。
 そして鹿車が空へ飛び立つと、もう兵士たちは追っては来なかった――神に準ずる者の仕業と分かれば、手向かうことなどできるはずもない。
 無事に二人を救出したカッサンドラー達は、二人を天上のアポローンの神殿まで案内した。
 ヘカベーもポリュドロスも突然のことで驚いていたが、それでもすぐに状況を飲み込めた。
 「アポローン様でございますね。こうして拝顔いたしますのは初めてのことでございますが、この度の戦ではトロイアにご助力いただき、また、ケレーンがお世話になっていること、重ね重ねお礼の言葉もございません」
 ヘカベーが平伏してしまうので、アポローンは自ら彼女の手を取って顔を上げさせた。
 「命を助けることはできたが、本来死ぬべき運命にあった者を、もう人間界に帰すわけにはいかぬ。このまま天上で暮らしてもらうことになるが、異存はあるまいな」
 「異存など! 滅相もございません」
 「では、そなたにはわたしの孫の養育係を頼みたい」
 「アポローン様のお孫様……と、言うと……」
 当然、シニアポネーとケレーンの間に生まれた孫たちのことである。育ち盛りな上に、双子や三つ子もいるので、シニアポネーとカッサンドラーだけでは確かに子育ては大変なものである。
 そしてアポローンはヘカベーに耳打ちした。
 「カッサンドラーが忙しすぎて、わたしの相手をしてくれないのだ。だから、なるべく彼女の時間が空くように、協力してもらいたい」
 その言葉にヘカベーは笑顔で答えた。
 「わかりました。子育てならばお任せくださいませ」
 ――さて、問題はポリュドロスの身の振り方だが、その日のうちに片がついた。
 軍神アレースが一人の少年を連れて訪ねてきたのだった。
 「人間の少年を引き取ったと聞いたけど、俺に譲ってもらえないかなァ。この子の世話役を探していたんだ」
 その少年の顔を見て、アポローンとシニアポネー、ケレーンは驚いた。
 「エリスの子か!? あいつにそっくりじゃないか」
 とアポローンが言うと、アルゴス社殿(ヘーラーの私邸)に仕えるシニアポネーは否定した。
 「いいえ、エリス様の御子に、このような方はいらっしゃいません。姫御子(ひめみこ)さま達は皆様エリス様にそっくりですが、男御子(おのみこ)さま達はどなたもエリス様とは違う御顔立ちで……アルゴスにエリス様に似た男の子はいらっしゃらないのです」
 「じゃあ、この子は誰なんだ? アレース!!」
 するとアレースは意外なことを言った。
 「この子はディスコルディアだよ」
 ディスコルディア――とは、エリスの剣の名前である。
 「俺が預かったエリスの剣が、意志を持って、人の形に変化したんだよ。ありえる話だろ? あいつのなら」
 「確かに、あの非常識な奴の持ちモノなら……イテッ」
 アポローンが痛がったのは、エリス似の少年・ディスコルディアが彼の手に噛み付いたからだった。
 「僕のご主人様の悪口を言うな!」
 「なんだと! 非常識を非常識と言って、どこが悪い!」
 とアポローンが怒り出したので、シニアポネーとケレーンがなだめた。
 「まあ、見ての通りなんだ」とアレースは苦笑いで言った。「人間になったばかりなんで、あまり行儀が良くない。なので、この子の傍にいて、人間らしさを教えてくれる、年の近い子供を探していたんだ。ケレーンの弟なんだろ? だったら身分的にも申し分ないし」
 するとポリュドロスは笑顔で答えた。
 「僕のような若輩者でよろしければ、御子様のお世話役、務めさせていただきます」
 そうしてポリュドロスはディスコルディアの世話役になった。二人は主従というよりは友達の関係に近い仲になり、後にディスコルディアがエリスの後を追って人間界に転生する時は、ポリュドロスも近い場所に転生したほどである。そして二人は前世の記憶がないまま巡り合って、男性デュオとして芸能界デビューするのだが……それはまた別の物語で。


                            終。

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from: エリスさん

2011年01月21日 13時16分58秒

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「未来は視たくない  終了です」
 賛否両論あることでしょう。



 「伝説どおりにカッサンドラーが死んでない!」


 当然出る意見だと思います。

 そうです、マルガスさんのご指摘通り、私はカッサンドラーを殺したくなかったのです。
 道化に映ろうがなんだろうが、カッサンドラーには純潔を守って生きてほしかった。どうしてそこまで私が彼女に思いいれてしまったか。
 ここから先は言い訳です。


 今から20年ほど前――私がまだ文化学院の学生だったころ、初めて私の小説の中にケレーンが登場しました、シニアポネーと一緒に。
 その時のケレーンの設定は、ユーリィ王家の庶子でした。でもその後、皆さんもご存じの「罪ゆえに天駆け地に帰す」の執筆を始め、その主人公の女神エリスがシリーズを重ねるごとにヘーラーや、ヘーラーの神殿に仕える侍女たちと絡んでいき、当然のことながらシニアポネーとのつながりも濃くなっていきました。
 そして、私が学院を卒業し、就職しながらも出版社に投稿を続ける年月が過ぎ、その間に、エリスの設定が少し変わりました。
 「エリスが人間界へ転生する決意を固めたのは、トロイア戦争が始まる前にしよう」
 読者の皆さんはすでに読んでくださっているでしょうが、念のために説明しますと、私の描くオリュンポス神話では、エリスは黄金の林檎を酒宴の席に投げ込んだ、その数日後に人間になるために冥界へ下っています。
 その設定で行くと、ケレーンの出自がユーリィ王家ではおかしい。ユーリィ王家はトロイア王家滅亡後、その生き残りのアイネイアースがローマに渡って興す血筋だからです。なので、同時にケレーンの設定を変える必要がありました。
 それでケレーンの設定が「トロイア王家の庶子」に代わりました。幸いなことに、プリアモス王には史実に残っていない子供が何十人もいると言われています。そして、ケレーンの兄弟としてヘクトールとカッサンドラーの存在が、私の中で急浮上してきました。
 庶子であるケレーンを、慈しんでくれた優しい姉――という存在にカッサンドラーを置いたことで、運命どおり死なせてしまうのはどうだろうか……と、悩みました。実際そんなことになったら、ケレーンとアポローンの友情に亀裂が入りはしないかと……。
 そうこう考えているうちに、

 「フィクションなんだから、殺さない方向で書いてしまえ!」

 という考えにいたって、こういう作品になりました。
 完全に理解してくれ、とは言いません。伝説は伝説どおり描くべきだ、という意見は当然あるだろうと分かった上での、創作です。



 来週は、この話のその後のこぼれ話です。

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from: エリスさん

2011年01月21日 12時49分02秒

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「未来は視たくない・14」

 それから二日が過ぎていた。
 カッサンドラーは自身と親類たちに起こる未来のすべてを、予知夢として見て、目が覚めた。
 そして窓の外を見た彼女は、それがもう抗いようもないことだと思い知らされた――浜辺に、巨大な木馬が立っていたのである。
 王宮でもこのことで大騒ぎになっていた。
 トロイアの兵士がその木馬を調べてみると、腹の部分には「故郷へ帰るために、女神アテーナーに捧げる」と書いてあった。そして、木馬の足下に誰かが倒れているのを見つけた――シノンと名乗るギリシア軍の男だった。
 シノンが語るところはこうだった――アテーナー女神に捧げる木馬を作れば、ギリシア軍に勝利がもたらされるという神託があった。それにより木馬を作ったところ、腹部に「故郷に帰るため」と書いてしまったがために、兵士たちは誰もが「今すぐ故郷に帰りたい」と言い出し、船に乗って帰ろうとし始めた。なのでシノンは「それは女神に対する不信心だ」と皆を諭したのだが、皆はそれを聞かず、「木馬を持っていれば勝利というなら、この木馬は大きすぎてトロイアの城門をくぐることができないから、永遠にトロイア王城の外にある。つまりそれはギリシア軍の勝利も同じことだ」と屁理屈をこねて、シノンを殴り飛ばして気絶している間に帰ってしまった。
 それを聞いたプリアモス王は、ギリシア軍の不信心を軽蔑した。そして、この木馬を持っている者にアテーナー女神の加護があるというのならと、さっそくこの木馬を王宮に運び込むことにした。
 シノンはこのプリアモスの信心深さに感じ入って、王に仕えることを願い出る。それをプリアモスも許してやるのだが……。
 『そもそもがこのシノンの芝居。ギリシア軍は国に帰ってなどいない。あの木馬の中に潜んでいるのに……』
 カッサンドラーはそう思ったが、何も言わなかった。どうせ誰も信じてくれないのだから、言う必要もない。
 木馬は、城門の上につかえるほど大きかったので、城門を壊して中に入れられた。それを見届けたカッサンドラーは、そのまま神殿へと帰ってきた。
 今晩にも片が付く……この国は滅亡し、自分も……。
 どうしようもないことだと分かっている。分かっていても、怖い。
 『会ったこともない男に汚される……アテーナー様の巫女として守ってきた純潔を。あの方にさえ差し上げなかったものを!?』
 考えれば考えるほど、恐怖と悲しみで心の中がかき乱されていく。
 『どうすればいい? どうすることもできない!』
 カッサンドラーが一人苦しんでいる中、王宮では勝利の酒宴が始まった……それこそがギリシア軍のシナリオだとも気付かずに。
 そして、深夜。
 木馬の中から出てきたギリシア軍は王宮内に攻め入り、さらに狼煙(のろし)を上げて、岬に隠れていたギリシア船団を呼び戻した。
 王宮はあっという間に陥落し、兵士は神殿にまで入り込んできた。
 神殿に仕える女性たちが、次々に兵士たちに略奪されていく悲鳴が聞こえる――それを聞いた途端、カッサンドラーは衝動的に逃げ出していた。
 『いや! いや!』
 みっともなくてもいい。王女としての誇りも威厳も、そんなものはどうでもいいから、ただ逃げ出したかった。汚されたくない、というその思いだけがカッサンドラーを動かしていた。
 なぜなら。
 「いたぞ! 巫女のカッサンドラーだ!」
 そう叫んだ男がいた――ギリシア軍のアイアースだった。
 『あの男!? 間違いない』
 自分を辱める運命を持つ男が、すぐそばに迫っていた。
 カッサンドラーはアテーナーの神像の足下にすがりついた。
 「アテーナー様!! お慈悲を!! 私は……」
 アイアースの手がカッサンドラーの肩にかかった。
 「私はアポローン様以外の男になど!」
 その時だった――一筋の閃光がアイアースの頭部を貫いた。彼は仰向けに倒れ、失神していた。
 そして、カッサンドラーを抱き上げる大きな腕があった……カツサンドラーが恐る恐る見上げると、間違いなく、太陽神アポローンだった。
 隣には女神アテーナーもいた。
 「そこな者! アイアースと言ったか」と、アテーナーは倒れているアイアースを呼びさしながら言った。「この純潔神の神殿での不埒な振る舞い、万死に値する!」
 アテーナーの声で気がついたアイアースは、ことの状況を把握してその場にひれ伏した。
 「後ほどおまえの率いる兵士ともども罰を与えてやる。今は即刻消えるがよい!」
 アイアースはそれを聞くと、まだ痛む頭を抱えながら、兵士たちと逃げて行った。
 そしてアテーナーはアポローンに言った。
 「先に行っていて。私は、この神殿の中で辱めを受けた娘たちを集めてくるから」
 「はい、そうします、姉上」
 アポローンはカッサンドラーをギュッと抱きしめると、そのまま天上へと昇って行った。
 雲の上に連れてこられたカッサンドラーは、アポローンの腕から下ろされても、まだアポローンのことを見つめていた。
 「どうして、お助けくだされたのです?」
 カッサンドラーが言うと、アポローンは微笑んだ。
 「そなたがわたしを呼んでくれたからだ」
 「でも!……私は、あなた様を……」
 「振られたな、確かに。だが、嫌いになったわけではなかった。そうであろう? だから、わたし以外の男のものになりたくなかった。だから、助けを呼んでくれたのだろう? ……まあ、結果的に姉上に助けを求めたわけだが」
 「すみません……」
 「いや、無理もないから謝るな」
 アテーナーが昇ってきたのは、ちょうどそんな時だった。
 「姉上、どうでしたか?」
 「大丈夫よ」とアテーナーは言った。「ヘーラー様のお慈悲で、みんな処女に戻していただけることになったわ。その上で、天上での私の侍女にしても良いとお許しが出たから」
 アテーナーが話している間、カッサンドラーはキョトンッとしてしまった……話し方が、いつもとぜんぜん違う。
 カッサンドラーの疑問に気づいたアテーナーは、微笑んで言った。
 「人間に対しては威厳のあるところを見せなければいけないから、それなりのしゃべり方になるの。でも普段の姉弟同士の会話は、人間たちの兄弟の会話と大して変わらないのよ」
 「ああ、そうなのですね。失礼いたしました」
 「いいのよ。だからこれからは、あなたとも普通に会話がしたいわ」
 アテーナーはそう言うと、カッサンドラーの手を握った。
 「アポローンの妃になってあげて。この子ったら、いつまでもあなたのことを未練がましく想っていたのよ」
 「でも、それは……」
 「大丈夫。すでにあなたの未来は変わっている。そうじゃない?」
 そう言われて、改めて未来予知をしてみる。それまでの運命は、アイアースに凌辱された後、ギリシア軍の総指揮であるアガメムノーンの捕虜・妾にされて、アガメムノーンの正妃にアガメムノーンもろとも殺されるはずだった。だが今はアポローンとアテーナーに救い出されたことで、アポローンとよりを戻すことが出来た。
 その先の未来は……。
 まだ予知をしている最中に、アポローンの右手がカッサンドラーの額に触れた――途端、今まで見えていた風景が消えた。
 「もう未来を見なくてもいい。そんな力を与えてしまったことが、そもそもの間違いだったのだ」
 アポローンの言葉に、カッサンドラーは素直にうなずいた。
 「アポローン様、もし、お許しいただけるなら……」


 カッサンドラーはアポローンの「恋人」になった……正式な妃になることは拒んだものの、アポローンの傍にいることを選んだのである。そして、ケレーンとシニアポネーの間に生まれた多くの子供たちの養育係に収まったのである。
 「本当にこれでよろしかったのですか?」
 シニアポネーに聞かれて、一緒に赤ん坊の産着を縫っていたカッサンドラーは笑顔で答えた。
 「良かったのよ。実はね、かなり核心に近いところまで未来は見えたの。今後、誰がアポローン様の正妃になるか。だから私は、その女性を憎むことのないように――その女性を大好きになれるように、あなた達の子供の養育係になることにしたの」
 「……つまり、それって……」
 シニアポネーの戸惑いに、カッサンドラーは意地悪っぽい笑顔を見せた。
 「どの子か、知りたい?」
 「いえ! 遠慮しておきます」
 カッサンドラーの予言どおり、シニアポネーが産んだ2番目の娘が、後にアポローンの正妃となる。それでもアポローンはカッサンドラーのことを粗略に扱うこともなく、正妃もまた伯母であり養育係でもあるカッサンドラーが夫の愛人であることを快く許したので、その後もカッサンドラーは平穏無事に暮らすことができたのだった。



                         終


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from: エリスさん

2011年01月14日 11時52分39秒

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「未来は視たくない・13」
 もうそろそろなのだろう……と、カッサンドラーは思いながら、アテーナー神殿の拝殿にいた。天井に届きそうなほど大きなアテーナー像を見上げながら跪(ひざまず)き、カッサンドラーは祈りをささげた。
 すると、天から当の本人であるアテーナー女神が降りてきて、彼女に声をかけた。
 「何を考えておる」
 カッサンドラーは驚いて、よろけそうになった。
 「アテーナー様!? まあ、もう何年振りでございますか?」
 「十年ぶりか?……この戦(いくさ)が始まってから、私はここに来なくなったからな」
 「……やはり、トロイアをお憎みなのですね」
 「無礼だとは思う、パリスを……だが、それだけではないのだ。あまり神がこの戦に参加してはならぬと、我が父からお達しがあったのだ。だが、その戦ももうじき終わる……だから、気がかりであるそなたに会いにきた」
 「私が、気がかり?」
 「そうだ。何を考えていた? 心が乱れていたぞ」
 カッサンドラーは、どうせ心を隠しても、この御方には見破られてしまうと思い、隠さず話すことにした。
 「ヘレネーのことを考えていました」
 「ヘレネーのことを? なぜ」
 「今日、弟のパリスが戦死しました。そうしたら、彼女にかかっていた呪いが解けたのです――本当に愛しているのは夫のメネラーオスであって、パリスではないと」
 「そう……アプロディーテーめ、そのような呪いを掛けていたのか」
 「はい。正気に戻った彼女は、途端に夫の元へ帰ろうとしました。王宮を出れば、向こうにはギリシア軍がおり、その中に自分の夫がいることも分かったのでしょう。でも、私の父がそれを引きとめました。今さら彼女を返すのは、トロイアの名誉に関わると」
 「そんなことを言っているから、戦が終わらぬのにな」
 「はい、そしてパリスの代わりに新しい後継者を選ぶことになりました。歳の順からもデーイポボスが相応しいということになったのですが、彼は欲深にもこう言い出したのです。“ならばパリスの妃であるヘレネーも譲り受けることにしましょう”と――その言葉にヘレネーは狂ったように拒絶しました。当然でしょう。それまでだって本当に愛していたわけではない男と、心を操られていた妻にさせられていたというのに、正気に戻った今、まるで物のように引き渡されてしまうだなんて……あんまりひどいと思ったものですから、私は弟の頬を叩き、罵りました。“女性の人格を無視した鬼畜の所業は、この私が許さない”と」
 「それで、ヘレネーはデーイボポスの妻にならずに済んだのか?」
 「はい。私の母も助言してくれたので、なんとかその場は納まりました。でも、夜になったら弟が寝室に忍び込んでくるかもしれないから、気をつけるようにと諭しておきました」
 「ありえるな。しかしそなたも、ヘレネーのことを嫌っていてもよさそうなのに……ヘレネーの異母姉として、礼を言います」
 「いえ、そのような!? あの……嫌っていた時期もありますので……」
 カッサンドラーが気まずそうに俯いてしまうので、アテーナー女神は微笑んで見せた。
 「無理もない。私もパリスのことでトロイアを嫌っていた時期がある。でもこれだけ月日がたってしまうと……やはり、慈しんできた者たちが気がかりになって、恨みも薄れてしもうた」
 「アテーナー様……」
 「カッサンドラー、そなたはこの戦のそもそもの発端は知っておろうな?」
 「はい。女神の中の美女を選ぶ選者にパリスが指名されて、それでパリスがアプロディーテー様をお選びになったと」
 「そう……あの時、パリスは選ぶべき女神を間違えたのだ。ヘーラー様か私を選んでいれば、こんな戦にはならなかった。普段からヘーラー様を敬わないアプロディーテーを選んでしまったから
ヘーラー様も私もお怒りになった。しかも選んだ理由が“美女をあてがってくれるから”などと、愚か者としか言いようがない理由だったのだ」
 「はい、まったくでございます」
 「あの時、パリスがヘーラー様を選んでいたら、パリスは世界の王になれた……世界の王ならば、いずれ美しい美女を手に入れることも可能だったはず。そして、神界の方でも王后陛下のヘーラー様が一番の美女と選ばれたのなら、あのアプロディーテーであっても文句は言えなかったのだ。すべて丸く納まっていた。
 そしてもし、パリスが私を選んでいたなら、パリスは常に勝利する強い男になれた……女は、強い男に惹かれるものでしょう?」
 「はい、アテーナー様。ですから、パリスはアテーナー様を選んでいたら、ヘーラー様を選んだ場合と同様、幸運が二つも舞い込んできたはずです」
 「そう。そして、ヘーラー様なら私が一番に選ばれれば、誰よりも喜んでくれたであろう。誰かが異議を唱えても、すべてねじ伏せてくれたはず……あの方はそういう御方。だから、パリスはヘーラー様か私を選んでくれれば、トロイアのこの悲劇は避けられたのに、こともあろうにアプロディーテーを選んでしまった。それがあやつの不幸です」
 「はい、まことに……」
 カッサンドラーは、聞けば聞くほどパリスの存在が恥ずかしく思えた。そして、そんな愚かな弟を持ってしまった自分も、また不運なのだということを自覚する。
 「しかし、起こってしまったものは、もうやり直しができぬ。ならばせめて、未来を変えるしかない」
 アテーナーから思ってもみないことを言われて、カッサンドラーは戸惑った。
 「そなただけは救いたいのです、カッサンドラー。だから……いざとなったら、願っておくれ」
 「アテーナー様……」
 「そなたが助けを請うてくれれば、私は全力でそなたを助ける。だから、恥も外聞も捨てて、その時は助けを呼んでおくれ」
 「ですが……」
 戸惑っているカッサンドラーの手を、アテーナーはしっかりと握った。
 「これは、私だけの願いではないのだ。だから、聞き入れておくれ」
 「…………他に、どなたが? あっ、ケレーンですか?」
 するとアテーナーは首を振った。
 「思い出してくれ。彼は……彼だけは、トロイアに味方していたであろう」
 ヘクトールとパリスを庇護し、また、ギリシア軍の横暴に激怒して彼らに病原菌を撒いた神がいた――アポローンである。
 それを思い出したとき、カッサンドラーの胸が高鳴ったのをアテーナーは見落とさなかった。



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from: エリスさん

2010年12月24日 11時35分56秒

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「未来は視たくない・12」


 ギリシア軍がトロイアに到着するまで、二年を要した――と、詩人たちは歌っているが、そんなはずはない。パリスがヘレネーを略奪してトロイアへ戻るまでに三日と要さなかったことを考えれば、ギリシア軍もそれと大して変わらない日数でトロイアに到着したはずである。
 とはいえ、トロイアに上陸してからの戦乱は伝承どおり十年続いたようだった。
 カッサンドラーは二十八歳になっていた。――王宮に帰っても自分の言葉は誰も信じてくれないので、もう何年も神殿に閉じこもっていた。だが、今日はどうしても王宮へ行かなければならない。それは、兄・ヘクトールが戦死したからである。
 ギリシア軍の英雄アキレウスと一騎打ちの戦いを挑(いど)み、死闘の末アキレウスの槍に突かれて命を落とした彼を、初めギリシア軍はその亡骸を自分たちで始末してしまおうと、持ち去ってしまった――それまで何人もの仲間をヘクトールによって殺された怒りからである。だが、トロイアの王プリアモスが武装もせずに一人でギリシア軍の陣屋に訪れ、息子の亡骸を返してくれるようにと懇願したところ、子を思う老父の姿に胸打たれたオデュッセウスがアキレウス達を説得し、返してくれたのだった。
 ヘクトールの葬儀の間は休戦することを誓い合い、しばし兵士たちも休むことができた。
 カッサンドラーは久しぶりに兄と再会した……変わり果てた姿に涙するも、言葉は一言も発しなかった――自分の言葉が争いの種になることを、もう嫌というほど見てきてしまっているカッサンドラーは、このところ口をきくのをやめてしまっていたのだ。
 それでも、ただ泣き続けるだけのカッサンドラーを見て、それほど悲しいのであろうと察した母ヘカベーは、娘の体をギュッと抱きしめた。
 「悲しいのは分かるわ。でもあまり泣きすぎても、あなたが病気になってしまうわよ。だから、気をしっかり持って、涙を止めて頂戴、カッサンドラー」
 「……お母様……」
 「あなたは巫女なのだから、死の穢れに長く触れていてはいけないわ。誰かに送らせるから、もう帰りなさい」
 ヘカベーがそう言うと、誰かが歩み寄ってきた。
 「王妃様、わたしがお送りします」
 ケレーンだった。彼もしばらくぶりに天上から帰ってきていたのである。
 「まあ、ケレーン。あなたはもう、そんな身分ではないのよ」
 とヘカベーが言うと、
 「弟が姉を家まで送るのに、何の不都合があります。それに、わたしもあまり死の穢れに触れてはならぬと君様(アポローンのこと)から申し渡されているので、そろそろ帰らねばならぬのです」
 「そう……ではお願いね、ケレーン」
 「はい……」
 ケレーンは、カッサンドラーの手を取る前に、ヘカベーの手を握って、こう言った。
 「あなたに神のご加護を……」
 「ありがとう、ケレーン」
 カッサンドラーと二人で王宮を出ると、ケレーンは自分が乗ってきた天馬にカッサンドラーを乗せて、自分は手綱を引いて歩きだした。
 「姉上、もう話しても大丈夫ですよ。わたししかいませんから」
 ケレーンが言うと、カッサンドラーは大きくため息をついた。
 「もう、この国に先はないのね……お兄様が死に、次は……お兄様の後を継いで総大将となったパリスが死ぬ……」
 「でもその前に、パリスがアキレウスを射ち殺すのでしたね」
 「ええ。母神の儀式によって不死身になったはずのアキレウスが、なぜかパリスに足首を矢で射られて、死んでしまうの……足首を射られたぐらいで、どうして即死するのか、まったく理解できないけど」
 「そうゆう不可解な死も、英雄だからこそなのですよ」
 「ますます分らないわよ」
 「分からなくてもいいんですよ、神事にまつわることですから。それよりも……姉上、この先のことを考えてくれませんか?」
 「この先?」
 「もうすぐ戦争は決着します。姉上が予知したとおりに事は進み……トロイアが滅ぶ。でも、未来を変える手段もないわけではない。実際、姉上はそれをやってのけたことがあるでしょう?」
 「私がアポローン様の求婚を断ったときのことを言っているのね。でも、この先どうすれば未来を変えられるのか……見当もつかないわ」
 「とりあえず、小さなことだけでも変えてみませんか? トロイアの滅亡は諦めるとして、自分の命が助かるためには、どうしたらいいか、ということを」
 「私だけ助かれって言うの!?」
 しばらく二人の間に沈黙が流れた……。
 やがて、ケレーンが口を開いた。
 「ヘカベー様は、なんとか助かる道があります。父上は……残念ですが、国王ですからどうあがいても殺されます。後、わたしが救いたいのは姉上だけなんです」
 「ケレーン……あなたが後宮でさんざんいじめられてきたのは知ってるけど、そんなこと狭量なことを言わないで。悲しくなるじゃない……」
 「すみません……でも!」
 「分ってるわ! 私はこのままでは、戦乱の中で兵士の一人に操を奪われ、ギリシア軍の奴隷として連れて行かれ……そして、死ぬ」
 「そうなってほしくないんです!」
 ケレーンは馬を止め、姉を見上げた。
 「だから、未来を変えてください。決断してください、お願いです!」
 するとカッサンドラーは悲しげに微笑んだ。
 「考えておきましょう」
 未来を変えるためには、どうすればいいか分かっている。分かってはいるが、それはあまりにも身勝手ではないか……そう思えて、カッサンドラーは一歩踏み出せないでいた。


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from: エリスさん

2010年12月17日 12時00分07秒

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「未来は視たくない・11」
 このところプリアモス王は他国への使者としてアレキサンドロスを行かせることが多くなった。新しく見つかった王子を公に知らせるためである。アレキサンドロスも父の役に立てるのが嬉しくて、自分から喜んで出かけているが、一つだけ不平ももらしていた。
 「物心ついたころから“パリス”と呼ばれていたので、アレキサンドロスなどと、堅苦しい名で呼ばれるのは好きになれません」
 なので、アレキサンドロスのことは以後“パリス”という愛称で呼ぶことにする――と、プリアモスはわざわざ御触れまで出したのだった。
 一方カッサンドラーは、パリスの様子をヘカベーやヘクトールなどから聞いて、今のところ変わった様子がないことに安心していた。
 『私たちの作戦がうまくいったのかしら?』
 このところケレーンが訪ねてきてくれないのが不安ではあったが、そのあいだ新しい予知も視ていないのだから、もう心配はないのかもしれない……と、カッサンドラーは無理にでも思おうとしていた。
 そんなある日のこと。
 パリスが使者として出向いていたスパルタから帰国した――その国の王妃を伴って。
 「夫と子供を捨てて、わたしのところへ来てくれたのです。お願いです、わたしの妃として受け入れてください」
 パリスの言葉にプリアモスとヘカベーは驚いたが……しかし、スパルタ王妃の美貌を見ては、こんな大それたことを息子がしでかしても無理はないと納得してしまう。それほど美しい麗人だったのである。
 この知らせを聞いてカッサンドラーも王宮へ駆けつけた。
 「駄目よ! この人をこの国に受け入れては駄目! 今すぐスパルタへ帰すのよ!」
 カッサンドラーが叫ぶと、パリスは言った。
 「姉上、これは運命なのです。美の女神アプロディーテー様が約束された世界一の美女とは、この人だったのです。だからこそ、彼女はわたしに付いてきてくれた。そうだよね? ヘレネー」
 するとヘレネーと呼ばれたスパルタ王妃は答えた。
 「はい、パリス様。私はあなた様と巡り合うために生まれてきたのです」
 「なんてことを言うの、あなた!」
 と、カッサンドラーはヘレネーに駆け寄って、その手を取った。
 「人間として恥ずかしくないの? 夫と子を捨てて、若い男に走るなんて、倫理に反する行いよ!」
 するとヘレネーは静かに首を横に振った。「いいえ、パリス様こそが運命の人。この方こそ、私の魂の半身……」
 この時カッサンドラーは気づいた――ヘレネーの目の焦点が合っていない。この人は誰かに心を操られているのだ、と。その操っている人物は、間違いなく美の女神アプロディーテーだった。
 『なんてこと! 女神はご自分の欲望のために、この女性の自我を奪ったの!? この女性の貞操も……』
 カッサンドラーは悔しくてならなかった――たった一個の林檎と、つまらないプライドのために、この国が滅ぼされようとしている。
 「姉上、お願いです」と、パリスはヘレネーからカッサンドラーの手を離させた。「彼女を認めてください。わたしたちは心底愛し合っているのです!」
 「……そうね、迎え入れてあげなさい」
 と、カッサンドラーは言った。
 『彼女も被害者なのだから……』
 スパルタ王妃ヘレネー――彼女はそもそも、ゼウス王神が、スパルタの前王テュンダレオースの妃レーダーと通じて産ませた子供の一人である。かなり神に近く、後年では樹木の女神として祀られている。それほどの人物なのだから人間界では突出して美しいのも無理はない。
 そのため、ヘレネーが年頃になったころはギリシア全土から求婚者が殺到した。父親のテュンダレオースは、その求婚者の誰を選んでも後々に恨みを残し、スパルタ国に不幸が訪れるのではないかと恐れた。すると、求婚者の一人であったイタカ王のオデュッセウスがこう助言してくれた。
 「ヘレネーが誰と結婚しようと、彼女は皆のものである――そういう誓いを立てさせるのです。そうすれば結婚を断られた者も傷つきはしない。そしてその証として約束するのです。“もしヘレネーに危険が及んだら、皆で救いに行く”と」
 この助言のおかげでテュンダレオースは心おきなく婿選びをすることができ、最終的にヘレネー自身がメネラーオスを選んだ。これによりメネラーオスは入り婿としてスパルタの王となった。
 そして月日が過ぎ、本当にヘレネーに危険が及んでしまったのである。
 「ヘレネーがトロイアの王子にさらわれた! 今こそ、あの時の誓いを守ってもらうぞ!」
 メネラーオスはかつての求婚者たちに使者を送った。それに真っ先に答えたのはメネラーオスの兄であり、ヘレネーの妹・クリュタイメーストラーの夫であるアガメムノーン(ミュケーナイ王)だった。彼はギリシア内でも相当な戦力を誇る軍隊の持ち主である。
 「力を貸しに来たぞ、メネラーオス。我らでヘレネーを取り戻すのだ!」
 アガメムノーンの力でギリシア全土から召集がかけられ、大軍隊が結成された。
 トロイア戦争の幕開けだった――。

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from: エリスさん

2010年12月03日 11時16分00秒

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「未来は視たくない・10」
 〈先ず、姉上は本来の予言を、神経を高ぶらせながら、オーバーに話してください〉
 カッサンドラーはケレーンの言葉を思い出していた。
 『私にできるかしら? 失敗したら、この国は滅びの道を歩むのよ……』
 そうこうしているうちに、両親と兄が帰ってきた――予知能力で見た青年を連れて。
 「あなたも喜んで、カッサンドラー! アレクサンドロスが帰ってきたのよ!」
 ヘカベーが幸せいっぱいの笑顔でそう話しかけてくる……無理もない。生まれてすぐ「この子は国を破滅に導く」と予言され、泣く泣く捨て子にした子供が帰ってきたのだから。
 「わたしも驚いたよ」とヘクトールも言う。「剣の試合の相手が、まさか生き別れになった弟だったとはね。母上が客席から“そなたの弟だ”と叫んでくれなければ、あやうく大怪我をさせるところだったよ」
 「そうなのよ、最初は私も気付かなかったの。でも、この子が頭に巻いている鉢巻を見て、この布が私が自ら織り、アレクサンドロスを手放した時に巻いてやったものだと気付いて、それで分かったのですよ」
 ヘカベーのそんな嬉しそうな顔を見ていると、カッサンドラーはますます辛くなってきた。今から自分は、この笑顔を消すようなことを言わなければならない。しかし言わなければ、この国が滅んでしまう!
 カッサンドラーは意を決して口を開いた。
 「いけません……この子を王宮に迎えては」
 「何を言い出すのだ? カッサンドラー」
 父王のプリアモスが不審がって聞くと、カッサンドラーは堰を切ったように話しだした。
 「その子はこの国を破滅に導く運命を負っています! だからこの国の王子として迎え入れてはならないのです! この子はこれからも、羊飼いのパリスとして平凡な人生を歩まなければ、この国が――ひいてはギリシア全土が火の海と化すでしょう!」
 〈もちろん、誰も姉上の言うことを信じてはくれません。そういう呪いがかかっているのですから〉
 ケレーンの言うとおり、誰も信じるどころ一笑に付した。
 「まあこの子ったら、何を言っているの?」とヘカベーは言った。「その運命ならば、アレクサンドロスは一度捨てられて、もう運命が変わったのですよ」
 「そうだぞ、カッサンドラー」とプリアモスも言った。「何も心配することはないのだ。快く弟のことを受け入れてあげなさい」
 「違うのよ、お父様!! 過去の神託ではなく、これから起こる未来の予言なのです! アレクサンドロスはこの国を破滅に向かわせるために送り込まれたのよ!」
 〈姉上が激しく声を荒げて言えば言うほど、誰も姉上の言葉を信じなくなる。そこで……一つだけ嘘をついてください〉
 「そしてアレクサンドロス自身も、河神ケブレーンの娘である精霊(ニンフ)を妻として、非業の最期を遂げるのよ!」
 「いい加減にしないか!」と怒ったのはヘクトールだった。「我が家のことだけならまだしも、他家の――それも神の娘を娶って不幸になるなど、口が裂けても言うものではない! どんな罰が当たるか知れないぞ!」
 「でも本当のことなのよ! 本当にこの子は、大して美人でもないオイノーネーという精霊を娶って……」
 すると、ヘクトールはカッサンドラーの頬を叩いた。
 「人の容姿をとやかく言うなど、最低の女がすることだ! おまえのような不遜な女の顔など、それこそ見たくはない! 下がれ! とっとと神殿へ帰れ!」
 カッサンドラーはそれを聞くと、その場を後にした。
 『これでいいの? ケレーン。オイノーネーに関することだけ嘘をつけば、アレクサンドロスはオイノーネーに執心して、美の女神が導く美女には目を向けなくなるの?』
 〈100%の方法ではありません。誰もが姉上の言葉を信じず、逆らったことをする――その呪いを逆手に取るのです。そうすれば、彼はオイノーネーを愛するようになる……その思いが深ければ、他の美女が現れようと心奪われることはないのではないかと〉
 カッサンドラーが視た未来だと、アレクサンドロスはオイノーネーと結婚しても、
 「あまり美人ではない。運命の美女は他にいる」
 と思って、すぐにオイノーネーを捨ててしまう。しかしカッサンドラーが「オイノーネーは大して美人ではない。結婚すれば不幸になる」と予言したことで、アレクサンドロスはまったく逆のことを思い、行動するはずだった。
 上手くいけばいいのだが……。


 数日後、プリアモスが河神ケブレーンに話をつけて、オイノーネーをアレクサンドロスの妻として迎え入れた。実際オイノーネーは美人ではあるのだが、カッサンドラーの予言により、皆は「かなりの美女である」と認識した。それはアレクサンドロスも例外ではなく、
 「この人がアプロディーテー様が導いてくれた世界一の美女なのだ」
 と思って、オイノーネーを大層慈しんだのだった。
 幸せな夫婦生活を送っているのを見て、ヘカベーはカッサンドラーのもとを訪れた時、こう言った。
 「あなたは私たちを驚かそうとして、あんなことを言ったの? まったく反対のことが起きて、おかげで私たちは幸せだわ」
 なのでカッサンドラーはこう答えた。
 「きっと私のとり越し苦労だったのです」


 だが、不幸が訪れるのはこれからだった。

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from: エリスさん

2010年11月19日 12時11分44秒

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「未来は視たくない・9」
 ヘクトールを送り出した後、カッサンドラーが自室で物思いにふけっていると、窓から自分を呼ぶ声が聞こえた。
 「姉上、わたしです!」
 天馬に乗ってやってきたのは、弟のケレーンだった。(カッサンドラーの部屋は二階にある)
 「皆さんお出かけになったのでしょう? それを見計らって来たのです」
 ケレーンはそう言いながら窓から入ってたきた。
 「まあ、またどうして? 王子なのだから、堂々と皆がいる時に帰ってくればいいのに」
 カッサンドラーが言うと、
 「姉上とだけお話ししたかったからです……未来予知をなさいましたよね?」
 と、ケレーンは答えた――それでカッサンドラーはすべて合点がいった。
 「あなたは私にかかった呪いの影響を受けないのだったわね。もう、神族になったのだから」
 「はい……わたし自身はまったく変わった気がしないのですが」
 「そうね、見た目は全然変わらない……でもそのうち、年老いなくなったあなたと私たちは、まったく違うものだと思い知らされる時が来るわ……そんなことより、あなたがここへ来たということは、なにか災厄から逃れる手だてがあるの?」
 するとケレーンは苦笑いをしながら、姉が座っているベッドの前に椅子を運んで、ため息をつきながら座った。
 「正直、難しいです。なにしろ、今度のことは奥にゼウス神王の計画が潜んでいるらしいのです」
 「神王さまの?」
 「今度のことの、事の発端は分かりますか?」
 「ええ、予知で見たわ――パーティーに呼ばれなかった不和の女神さまが、その悔しさから不和の種を――黄金の林檎をパーティー会場に投げ込んだのよね? “一番美しい女神へ”と書いて。それで、王后神さまと、知恵の女神さまと、美の女神さまが争われて……どの女神が一番美しいか、判者として人間の青年が選ばれた。その青年が、どうやら私たちの兄弟らしい……」
 「そうです……客観的に説明するとそうなるのですが、でも神界の皆様を知っているわたしとしては、先ず不和の女神・エリス様はそんな短慮を起こされる方ではないのです。そこから違和感を覚えたわたしの妻が調べてみたところ、どうもエリス様はその時、誰かに心をコントロールされていたようなのです。エリス様自身、わたしの妻に〈あの時は自制心が利かなくなって、自分が自分じゃなくなったようだった〉とおっしゃっています」
 「つまり、女神さまの心をコントロールした誰かが、この争いを引き起こしたと? それが神王陛下だと言うの?」
 「他にそんなことができる方を、わたしは知りません」
 「いったい何のために?」
 「それは分りませんが……でも、このことでトロイアを滅ぼそうとしていることは確かです」
 「そんな……どうして……」
 「でも、まだ望みはあります。そもそも、どうしてわたしがここへ来たと思います? 姉上はまだ誰にも予言をしていないのに」
 「あっ!?」
 カッサンドラーが予言する前から、その内容を知ることができる人物が一人だけいる――カッサンドラーにその力を授けた、予言をつかさどる神・アポローンだった。
 「そう、わたしはアポローン様に知恵を授けられてここへ来たのです。ただ、その作戦も100パーセントではないと、君様はおっしゃっていました」
 「教えて! どうすればいいの?」


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from: エリスさん

2010年11月12日 14時32分38秒

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「未来は視たくない・8」

 カッサンドラーは、急に雷に打たれたかのように全身が痺れた。
 その瞬間、これから起こることが目の前に現れ、駆け巡ったのである。
 始めて見る青年――その青年が競技場で、兄・ヘクトールと剣術の試合をしている。その青年が負けそうになり、ヘクトールが留めの一撃を与えようとすると、客席から母・ヘカベーが叫ぶ。
 「その者はおまえの弟です!」
 両親とヘクトールはその青年を連れ帰り、トロイアの王子として迎える。そして、その王子は使節として他国へ行き、その時、その国の王妃を略奪してきて、それがもとで大戦争が起きる。それはトロイアを破滅に導いていく……。
 しばらくぶりに見た未来予知で、カッサンドラーはめまいを覚えて倒れそうになった。それを危うく抱きとめてくれた人がいた。
 兄のヘクトールだった。
 「大丈夫か? 具合が悪いのなら寝ていたらどうだ」
 「ううん、もう大丈夫よ。昨夜は遅くまで神殿の仕事をしていたから、疲れが残っていたみたい」
 「そうか。久しぶりに帰ってきたんだ、ゆっくり休息するといい」
 ヘクトールは出かける支度をしていた。どこへ行くのかと聞くと、
 「オリンピックだよ、もちろん。知らなかったのか? 今、この国で開催されているんだ」
 「ああ、そうなの? 巫女ってそういう俗世の話には疎くて……」
 そう答えながらも、カッサンドラーは気が気じゃなかった。
 『だめよ、お兄様! お兄様がオリンピックに出たら、不幸の種が舞い込んでくる!』
 そう言いたいのだが、言えば信じてもらえないのは分かっている。
 『どうしたらいい? どうすれば危機を避けられる?』
 どうすることもできず、カッサンドラーはヘクトールを見送ることしかできなかった。

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from: エリスさん

2010年11月05日 13時45分17秒

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「未来は視たくない・7」


 ゼウスが雲に乗って人間界へ降りてきた時、パリスはちょうど羊を牧場に放して、一休みしていた時だった。軽い眠りに誘われていたときに現れたものだから、パリスは初め夢を見ているのかと思った。
 夢ではないと気づかされたのは、ゼウスから黄金の林檎を手渡された時――その重みではっきりと目が覚めたのである。
 「その林檎を、三人の女神のうち誰かに渡してほしい。そなたなら誰にする?」
 ゼウスが言い終わらぬうちに、三人の女神――ヘーラー、アテーナー、アプロディーテーが現れた。
 「この林檎を……一番美しい女神へと書かれているこの林檎を、僕が渡す……つまり、選べと言うのですか?」
 「そうだ。そなたの正直な心で選んでほしい」
 すると女神たちはこぞって前に出てきた。
 先ずヘーラーが言った。「私を選んでくれたら、この世の王にしてあげましょう」
 そしてアテーナーも言った。「私を選んでくれたなら、どんな戦いにも勝利を約束してあげるわ」
 そして最後にアプロディーテーが言った。「私を選びなさい。そうすれば、人間界で一番美しい女をあなたに与えましょう」
 権力と、勝利と、美女……パリスは悩んだ末に、アプロディーテーに林檎を渡した。
 「本当に、世界一の美女を僕にくださるのですか?」
 「ええ、あげますとも。あなたにはその資格があるのですもの」
 この判定に、ヘーラーもアテーナーも不満を抱いたのは言うまでもない。
 「なんと愚かな……ゼウスが白羽の矢を立てた人物だからと、少しは期待していたものを」
 とヘーラーが言うと、アテーナーも言った。
 「美女など、権力を手にした者や、常に勝利する英雄であるならば、自然と女の方から寄ってくるものを。それも分からずに目先の欲に溺れるとは、なんて幼稚な男でしょう」
 「あんな小者が私たちに恥を掻かせたのです。ただでは済ませませんよ」
 そうしてヘーラーとアテーナーが姿を消してしまうと、アプロディーテーはパリスに言った。
 「それでは先ず、トロイアのオリンピックに出なさい」
 「え? オリンピックに?」
 「その際、あなたが拾われたときに身に着けていた産着の一部を、身に着けていくのです。――あなたは、自分が捨て子だったことは知っていますね?」
 「はい、アプロディーテー様」
 「そのオリンピックに出れば、あなたの出自が明らかになります。そうして、世界一の美女との出会いが待っているのです」

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from: エリスさん

2010年10月29日 13時55分28秒

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「未来は視たくない・6」


 この頃、神界ではちょっとした事件が起きていた。
 まだ赤ん坊だったヘーパイストスを養育し、ゼウスの魔の手から守ったことで知られる海の女神テティスは、何人もの男神が求婚する美しい女神だった。その求婚者の中にはゼウスとポセイドーンもいたのだが……テティスが答えを渋っている間に、その求婚もさっぱり途絶えてしまった。それと言うのも、テティスが産んだ子供は必ず父親を超える、という予言が下ったからである。そうなれば、かつてゼウスが父クロノスを倒して王位を奪ったように、テティスが産んだ子が父親である自分を殺すかもしれない――という懸念が出てきたため、男神たちはテティスを諦めるしかなかったのである。
 そこでゼウスを初めとする男神たちは、テティスが子供を産んでも大して神々に影響を及ぼさないようにするために、策を練った。その結果、人間界の王子ペーレウスに神託を下すことにした。
 「そなたの不運を払拭したければ、海の女神テティスを妻に娶れ」と。
 ペーレウスはそれまでかなりの不運に苛まれていたので、この神託を信じてテティスに求婚した。テティスはもちろん抵抗したが、その求婚があまりにも必死だったので、とうとうペーレウスにほだされて結婚を承諾したのである。
 テティスとペーレウスの結婚式には、ゼウスの肝入りということもあって、さまざまな神々が招待された……ただ一人を除いては。
 「そなた、なぜパーティーの支度をしていないのです」
 女神ヘーラーは、いつまでも黒いキトンのまま窓辺に座っている娘・エリスにそう声をかけた。
 「私に招待状が届いていないからです、母君」
 「なんですって? このヘーラーの娘であるそなたのもとに? そんな馬鹿な」
 「それが本当のことなのです」
 エリスは窓辺から立ち上がると、それでも笑顔でヘーラーに言った。
 「きっと、不和の女神である私を招くのは、めでたい席である結婚式には不吉と、どなたかが考えられたのでしょう。そのことは私も分かっておりますから、どうぞお気になさらず、母君はお出かけください」
 「しかし……」
 「いいのです。私はあまり人込みは好きではありませんし。さあ、今日はアポローンがシニアポネーのことを実子として発表すると意気込んでおりましたから、シニアポネーの主人である母君がいらっしゃらなくては、あの子が寂しがります。ですから母君はお出ましにならないと」
 エリスはそう言って、母と姉妹たちを送り出したのだった。
 そして、一人になるとこう呟いた。
 「理屈では分かっているけれど……それでも、養女とはいえ王后女神ヘーラーの娘である私を招かない無礼は、許すわけにはゆかぬ」
 こうして、エリスはいたずらを仕掛けるのである――かの有名な「黄金の林檎事件」である。
 「一番美しい女神へ」と書かれた黄金の林檎を、披露宴会場に投げ込んだエリスは、姿を消したまま高みの見物を決め込んだ。
 「一番美しい女神は私よ!」
 と、先ず権利を主張したのは美の女神アプロディーテーだった。
 「何を言うか! このオリュンポスで一番美しいと言えば、この王后である私です!」
 と、ヘーラーも主張する。アテーナーもヘーラーを支持しようとしたところ、横からアルテミスが割って入った。
 「なにを仰いますの、皆様! このオリュンポスで一番美しいのは、容姿も知性も併せ持った、こちらのアテーナーお姉様しかいらっしゃいませんわ!」
 「アルテミス!?」とアテーナーは慌てた。「なにを言っているの! もっとも美しいのはヘーラー様よ」
 「いや、確かに」と言ったのは当のヘーラーだった。「好みによっては、私よりアテーナーの方が美しいと言う者が出てきてもおかしくはない。アルテミスの言うとおり、美しさとは見かけだけではなく、内面も評価されるべきもの」
 「そんなヘーラー様!? ヘーラー様まで話をややこしくなさらないで」
 アテーナーがそうやってヘーラーにすがると、ヘーラーはアテーナーを抱き寄せてこう言った。
 「よいのです。私はそなたに負けるのなら、何も悔しくはない。そなたは私の子も同然。けれど、こんな貞操観念のない女には絶対に負けたくはない!」
 「貞操観念がないとはどういう意味です!」とアプロディーテーは反論した。「私に恋人が多いのは、私が愛の女神たればこそです!」
 話がどうしようもない方向へ行きそうだったので、ゼウスが一時その林檎を預かった。
 「この林檎の所有者は、審判者を立てて、誰がふさわしいか決めることにする」
 それからゼウスは審判者を決めるために、数日悩みに悩んだという。
 そうして選ばれた審判者は――トロイアの羊飼い・パリスだった。

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from: エリスさん

2010年10月15日 14時42分08秒

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「未来は視たくない・5」
 ケレーンがヘカベーに捕まってしまったので、カッサンドラーはシニアポネーだけを神殿の中に案内した。
 「あの二人なら大丈夫よ。母は、ケレーンの母親が大好きだったの。主人と奴隷という身分だったけど、母はケフィアーナという人をまるで妹のように可愛がっていたと、私の乳母が言っていたわ」
 カッサンドラーの言葉にシニアポネーもうなずいた。
 「はい。王妃様が本当にケレーンのことを好いてくださっていることは、王妃様から醸し出される空気で感じました。でも、ちょっと意外でした」
 「意外?」
 「こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、ケレーンの母君もそれなりに身分の高い人だと思っていたのです。彼の立ち居振る舞いは高貴に満ちていますから。とても奴隷の母親から生まれたようには……すみません。きっと、王妃様が大切に育ててくださったからですね」
 「いいえ。お母様はケレーンを育てたと言っても、ほんの一時だったそうよ。ケフィアーナはね、ケレーンを身籠ったことを知ると、王宮を抜け出して、行方をくらましていたの」
 「まあ、なぜ!?」
 「ケフィアーナは後宮の女たちに嫉妬されていたのよ。もともとは他国の王女だった人が、戦争に負けて、この国に奴隷として連れてこられたの。だからケフィアーナ自身は生まれも育ちも良かったの。それもあって、お母様に気に入られて、お母様がお兄様を懐妊している間、お母様の代わりにお父様のご寝所に侍るお役目もいただいた。ケフィアーナはそうしてお父様の愛人の一人になったのね。それが他の後宮の女たちには面白くなかったらしいわ。だからケフィアーナは裏でひどいいじめを受けていたらしいの。
 そして十八年前、お母様が四番目の子供をお産みになったんだけど、その子は神の予言で、国を滅ぼす子供だから捨てるように言われて、お父様とお母様は泣く泣くその言葉に従ったのね。ケフィアーナがケレーンを妊娠していること知って、行方をくらましたのはその直後だったそうよ。きっと、自分に対する風当たりが強くなるのを感じて恐れたのか、もしくは、自分を大事にしてくれているお母様が子供を失ったのに、自分が目の前で産むわけにはいかないと思ったのかもしれないわ」
 「おそらく、後者だと思います」
 「そうね。きっとそうだわ……お母様もそう思ったそうよ。だから、必死にケフィアーナの行方を捜して……見つかった時には、もうケフィアーナは四歳のケレーンを置いて亡くなっていたの」
 「そうだったのですか……」
 「それでケレーンは先ず後宮に引き取られて……でも、他の脇腹の子供たちからいじめにあって、それでお母様がお手元に引き取ったのだけど、やっぱり幼少期に不遇な体験をすると引け目を感じるのかしらね。なにをしても遠慮がちにしていて、見ていて可哀相だったわ。それで、アポローン様がお小姓として引き取ってくださったの」
 「そうでしたか……ケレーンは、あまり子供のころの話をしてくれないものですから、知りませんでした」
 「言いたくもないでしょうね。だから、今は明るくて物怖じしない性格に育ってくれて、本当に安心しているのよ。アポローン様には感謝してもし足りないわ」
 「……今でも、感謝を?」
 「ええ」
 「あなたに、呪いをかけた張本人でも?」
 そう言われて、カッサンドラーは口にあてようとしていたティーカップを落としそうになってしまった。
 「すみません。実は、ここに来る前に父から――アポローンからあなたのことを聞いているのです」
 「父?」
 「はい。アポローンは私の実の父です」
 「え!? ちょっと待って、だって、昨日、結婚させられそうになったって……」
 「カッサンドラー様は一度、未来予知能力で私のことをご覧になっていますよね? その時に、私のことはお分かりになりませんでしたか?」
 「あの時は、アポローン様があなたに夢中になっている姿を見て、私が自殺すると知って……だからその先は何も」
 「そうですか。実は私は、父がこの世で一番愛している女神との間に生まれた娘なのです。私もそのことは知らずに、違う母親に育てられました。というのも、私の本当の母は、どうしても父のことが愛せず、私のことを宿した時も父に無理矢理組み敷かれたらしくて……」
 シニアポネーが言葉を濁すのも無理はない。自分の生れた経緯が暴力によるものなど、平気で言えるはずがないのだ。
 それでもしばらく間を置いて、彼女は言葉を続けた。
 「だから母は私を知り合いの家に預けて、私の存在を隠してきたのです。それなのに、私の存在が父に知られて、それで父は、母とそっくりな私と結婚しようとしたのです」
 「自分の娘なのに!?」
 「神々の間ではなにも問題はありません……でも私は、神として育ったわけではありませんから、真実を知った時には気が狂いそうになりました。そうならずにすんだのは、ケレーンがいてくれたからです」
 「そう……」
 「今は父も私を娘として認めてくれて、ケレーンとの結婚を祝福してくれています。いずれ私のことは母親の名を出すことなく、実の娘だと公表してくれるそうです。そうなったら、その夫であるケレーンも神族に属するものとして生きることになります。そうすれば、ケレーンにもあなたの呪いの効果は効かなくなります」
 カッサンドラーは思ってもいないことを言われて、驚いた。
 「先ほどから、予言めいたことを言うと悪いことが起こると考えて、言葉を選んでいらしたでしょう。でも、私は初めから大丈夫ですし、ケレーンもいずれそうなります。だから私たちには何を話しても、信じてもらえないということはありません」
 「そう、そうなの!」
 ようやく心のよりどころを見つけられて、カッサンドラーは嬉しくなった。
 「それに、どんなに予言しても、未来は変わることがあります。現に、私とケレーンの運命が変わりました――カッサンドラー様が父と結婚していれば、私とケレーンは出会わなかったかもしれないのです。カッサンドラー様が父との結婚を断ってくれたから、父はますますケレーンを大事にするようになりました。そのことで、それまでは片時も傍を離さなかった父が、ケレーンに休息を与えることを覚えたのです。その休息の日に、私と出会ったのですから」
 「そうなの?……でもそれは、私が変えたのではないかもしれないわ」
 「そうですね。でも、きっかけを作ったのはカッサンドラー様ですよ。そうして、未来はどんどん変わっていくのです」

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from: エリスさん

2010年10月08日 13時49分30秒

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「未来は視たくない・4」


 それから二年間は、なんの問題もなく過ぎた。予言をしなくてはならないような大事件も起こらないため、カッサンドラーは平和な毎日を過ごしていたのである。もっとも、なにか未来の場面が視えても、彼女自身が口に出さないようにしていたのだが。
 そんなある日のことだった。普段は巫女として神殿で過ごしているカッサンドラーだったが、その日は「たまには帰ってきなさい」という母親の言葉で、王宮に帰ってきていた。久しぶりに家族水入らずで夕食を取ることになったのだが……当の誘い主である母親――王妃は、少々機嫌を損ねていた。
 「ケレーンが今日の集まりを断ってきたわ」
 今にも泣きそうな表情をしているので、カッサンドラーは背中をなでながら慰めるのだった。
 「あの子は天上界に仕えているのですもの、きっと忙しいのよ」
 「いいえ! 違うわ!」と王妃・ヘカベーは両の手を強く握り合わせながら言った。「あの子はまだ、私を信用してくれていないのよ!」
 カッサンドラーはハッとした――自分の意見を否定されるのは、呪いの効果かもしれない――そう思い、彼女は口をつぐんだ。
 すると、それを察してのことではないだろうが、長男のヘクトールが言った。
 「母上を信用していないわけではないですよ。ただ、ケレーンにはこの王宮が針のむしろなだけです。だってそうでしょう? 父上には子供が多いけど、王妃である母上が生んだ男子はわたしだけ。あとの王子はすべて脇腹(正妻以外の女性が生んだ子供のこと)で、その中で一番の年上がケレーン。でも、ケレーンは父上の愛妾の中で一番身分が低いから、後宮(王宮の中でも王の愛人たちとその子供が住むところ)でひどいいじめを受けていたんですよ。わたしに何かあったら、父上の後継者はケレーンになりますからね、それが後宮の皆さんには我慢ならないんでしょう」
 「だから! だから私が養子として引き取ったのよ。あの子がそんな扱いを受けていると聞いて、放っておけなかったのですもの。あの子は何も悪くないのに! なのに……私が可愛がれば可愛がるほど、あの子は遠慮して……」
 ヘカベーがとうとう泣き出してしまったので、カッサンドラーは無言のまま母親を抱きしめた。
 するとプリアモス王が口を開いた。
 「なんでも、ヘカベーが引き取ってくれてからも、ひそかにケレーンいじめは続いていたそうなのだ。それを憐れんで、アポローン様が面倒を見てくださると仰せられたのだ。だから、まだ五歳だったケレーンを小姓としてアポローン様に差し上げた――今では有能な側近だとアポローン様もおっしゃってくださっている。ヘカベー、先ほどカッサンドラーも言ったとおり、きっとケレーンは忙しいのだ。アポローン様に頼りにされて。家族としてそれを喜んでやろうじゃないか」
 プリアモスの言葉に、ヘカベーもようやく泣きやんだ。
 「そうですわね……きっと、ケレーンにも事情があるのでしょうね」
 ヘカベーが落ち着いてくれたことで、カッサンドラーは安堵した。自分の発言で事態が悪くなる一端をとうとう見てしまったのだ。今後どうなっていくのか、恐ろしく思えてならない。


 ケレーンがカッソンドラーのもとを訪れたのは、その次の日だった。――しかも女連れで。
 「紹介するよ、姉上。婚約者のシニアポネーだ」
 カッサンドラーは驚きで目を見開いたまま動けなくなっていた――その銀髪の女性は、初めて予言の力をもらった時に視た、アポローンの恋人になるはずの女性だったのだ。
 『未来が変わってる?』
 そう思った途端、目の前に新しい映像が浮かんだ――ケレーンと、このシニアポネーがたくさんの子宝に恵まれて、幸せになっている姿だった。
 『これは、絶対に口に出してはいけないわ。ケレーンの幸せが逆に壊れてしまうかも』
 カッサンドラーは自分で右の頬を叩いて、硬直していた表情を緩和させた。
 「ああ、びっくりした! あなたに恋人がいるなんて知らなかったから! それもそうよね、二年も会っていなかったのですもの」
 「すみません、その……アポローン様の手前、里帰りしづらくて」
 「ごめんなさい、それは私のせいでもあるのよね」
 「いや、姉上は悪くないですよ。わたしが姉上の立場だったら……未来で、愛する人に捨てられると分かってしまったら、同じことをしていたかもしれません」
 「ありがとう、ケレーン」
 「いや実は、実際に昨日、それと似たようなことをやってしまいまして……」
 「昨日? ああ、だから昨日は来られなかったのね。いったい何をやったの」
 「実は、シニアポネーはアポローン様の妻になるはずだったのです」
 「え!?」
 と驚いてから、カッサンドラーは口を閉じた――余計な事を言ってはいけない。
 「シニアポネーにとっても思いがけない話でした。突然、お仕えしているアルテミス様より、アポローン様に輿入れするように命じられて、それで強制的に連れて行かれそうになったのですが、以前から昵懇にしていただいていたヘーラー女神様やエリス女神様のお力を借りて、なんとか寸前で助け出すことができたのです。そして、アポローン様にもわたし達の結婚をお許しいただいたのです」
 「……なんだか、大変だったのね」
 もっとじっくり話を聞こうと、立ち話ではなく神殿の中へ案内しようとすると、そこへ髪を振り乱しながらヘカベー王妃が走ってきた。
 「ケレーンの馬車が空から降りてくるのを、私の侍女が見かけて……」
 ヘカベーは走ってきたせいで呼吸が乱れるのを、なんとか落ち着かせようとしながら、ゆっくりとケレーンの方に歩いてきた。
 そして、ケレーンの両手を取って、言った。
 「大きくなって……ケフィアーナに似てきたわ」
 ケフィアーナ……ケレーンの生母にして、ヘカベーの召使いとして仕えていた奴隷の名前だった。

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from: エリスさん

2010年10月01日 11時34分15秒

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「未来は視たくない・3」
 「どうゆうことだ!」
 アポローンは当然のごとく激怒した。
 「なぜわたしと結婚できないなどと! つい今しがた誓いを立てたばかりだと言うのに。その証として、そなたに予言の力を授けたのに!」
 「その予言の力で、視えてしまったのです! 二年後、あなた様が他の女性に心変わりして、私は捨てられ、あなた様をさんざん憎みながら自刃して果てるのを。私は、あなたを嫌いになりたくはないし、ましてや憎みたくもない。だから、このまま結婚しないでお別れしたいのです!」
 泣きながら訴えるカッサンドラーの姿に、アポローンは無理強いすることができなくなってしまった。
 「仕方ない……結婚は諦めよう。だがしかし、そなたは神との誓いを一方的に反故にした。その報いは受けなければならない」
 「はい、仕方ございません。この予言の力はお返しいたします」
 「いや、返さなくてよい。一度与えた力を取り返したりなど、神は決してしないものだ」
 「では……」
 「その代わり、そなたの予言は誰にも信じられることはない。どんなに重大な危機が訪れようと、そなたの予言だけは誰もが否定するのだ。それがそなたに与えられた報いである!」
 アポローンはそう言い放つと、天へと昇って消えてしまった。
 残されたカッサンドラーは、アポローンが言ったとおりの未来を視ていた。
 「誰も私を信じない……どんな危機が訪れようと……でも……」
 これでいい、とカッサンドラーは思った。アポローンを憎むことになるぐらいなら、他の誰に信じてもらえなくなっても、耐えられる……。


 カッサンドラーがアポローンを拒絶したことを聞いたケレーンは、すぐにアポローンのもとに行き、謝罪した。
 「我が姉の身勝手な振る舞い、どうかお許しくださいませ。つきましては、わたしも君様のお傍を辞したいと……」
 「待て!」
 アポローンはケレーンに皆まで言わせなかった。
 「おまえがわたしのもとを去るのは、決して許さぬ」
 「しかし……」
 「おまえはおまえだ。姉がどんなことをしようと関係ない。おまえはずっとわたしの傍にいるのだ! 出て行ったらそれこそ許さぬぞ」
 「君様……」
 「まあ、おまえがそう言い出すことは分かっていた」
 興奮のあまり椅子から立ち上がってしまったアポローンは、そう言いながら座りなおした。
 「カッサンドラーと上手くいかなかったら、きっとおまえはわたしの傍を離れてしまう。そう思ったから、カッサンドラーには嫌われないように気をつけようと、慎重に交際をしていたのだが……。こうなってしまって、本当に残念だ」
 「そうだったのですか。それで、いつになく順序だてて交際を申し込んだのですね」
 「そういうことだ。だから頼む、わたしから離れるなどと言わないでくれ。わたしはおまえを気に入っているのだ」
 アポローンの言葉につい嬉しくなって、ケレーンは笑顔になった。
 「分かりました。これからもご奉公させてください、君様」
 こうしてケレーンはそのままアポローンの側近でいたのだが、やはりアポローンに遠慮してか、里帰りをすることは極力控えるようになったのである。

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from: エリスさん

2010年10月01日 11時34分15秒

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「未来は視たくない・3」
 「どうゆうことだ!」
 アポローンは当然のごとく激怒した。
 「なぜわたしと結婚できないなどと! つい今しがた誓いを立てたばかりだと言うのに。その証として、そなたに予言の力を授けたのに!」
 「その予言の力で、視えてしまったのです! 二年後、あなた様が他の女性に心変わりして、私は捨てられ、あなた様をさんざん憎みながら自刃して果てるのを。私は、あなたを嫌いになりたくはないし、ましてや憎みたくもない。だから、このまま結婚しないでお別れしたいのです!」
 泣きながら訴えるカッサンドラーの姿に、アポローンは無理強いすることができなくなってしまった。
 「仕方ない……結婚は諦めよう。だがしかし、そなたは神との誓いを一方的に反故にした。その報いは受けなければならない」
 「はい、仕方ございません。この予言の力はお返しいたします」
 「いや、返さなくてよい。一度与えた力を取り返したりなど、神は決してしないものだ」
 「では……」
 「その代わり、そなたの予言は誰にも信じられることはない。どんなに重大な危機が訪れようと、そなたの予言だけは誰もが否定するのだ。それがそなたに与えられた報いである!」
 アポローンはそう言い放つと、天へと昇って消えてしまった。
 残されたカッサンドラーは、アポローンが言ったとおりの未来を視ていた。
 「誰も私を信じない……どんな危機が訪れようと……でも……」
 これでいい、とカッサンドラーは思った。アポローンを憎むことになるぐらいなら、他の誰に信じてもらえなくなっても、耐えられる……。


 カッサンドラーがアポローンを拒絶したことを聞いたケレーンは、すぐにアポローンのもとに行き、謝罪した。
 「我が姉の身勝手な振る舞い、どうかお許しくださいませ。つきましては、わたしも君様のお傍を辞したいと……」
 「待て!」
 アポローンはケレーンに皆まで言わせなかった。
 「おまえがわたしのもとを去るのは、決して許さぬ」
 「しかし……」
 「おまえはおまえだ。姉がどんなことをしようと関係ない。おまえはずっとわたしの傍にいるのだ! 出て行ったらそれこそ許さぬぞ」
 「君様……」
 「まあ、おまえがそう言い出すことは分かっていた」
 興奮のあまり椅子から立ち上がってしまったアポローンは、そう言いながら座りなおした。
 「カッサンドラーと上手くいかなかったら、きっとおまえはわたしの傍を離れてしまう。そう思ったから、カッサンドラーには嫌われないように気をつけようと、慎重に交際をしていたのだが……。こうなってしまって、本当に残念だ」
 「そうだったのですか。それで、いつになく順序だてて交際を申し込んだのですね」
 「そういうことだ。だから頼む、わたしから離れるなどと言わないでくれ。わたしはおまえを気に入っているのだ」
 アポローンの言葉につい嬉しくなって、ケレーンは笑顔になった。
 「分かりました。これからもご奉公させてください、君様」
 こうしてケレーンはそのままアポローンの側近でいたのだが、やはりアポローンに遠慮してか、里帰りをすることは極力控えるようになったのである。

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from: エリスさん

2010年09月17日 13時52分06秒

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「未来は視たくない・2」

 ケレーンが差し出した手紙を受け取ったカッサンドラー王女は、初めの方をちょっとだけ読んで、すぐに頬を赤らめた。
 「アポローン様が、私を!?」
 「そうだよ、姉上。すごいでしょ!」
 ケレーンがとても嬉しそうに言うので、カッサンドラーはますます恥ずかしくなって、後ろを向いてしまった。
 王女として、また巫女として、異性とはあまり接しないように育てられてきたが、年頃の娘としての感情は当然持ち合わせている。以前一度だけ、遠くからアポローン男神の姿を拝したことがあるが、その時はなんて美しい男神かと心がときめくのをどうにもすることができなかったのを覚えている。――ケレーンに背中を向けたまま手紙の先を読むと、アポローンもまたその時にカッサンドラーに好感を持ったと書いてある。
 「君様がラブレターを書くなんて、今までにないことなんですよ」
 と、ケレーンは言った。「今までは、気になる女性がいたらすぐに声をかけて、それでますます気に入ったらすぐに求婚していたんです。それなのに、姉上にはこうして順序を踏んでいらっしゃる。生半可なお付き合いでは済ませたくない、という君様の気持ちの現われだと思います」
 「そうね……でもそれは……」
 カッサンドラーはケレーンの方を向き直した――その頬はまだ紅潮していた。「私があなたの姉だからよ。大事な側近であるあなたの姉だから、粗略に扱わないでくれているのだわ」
 「そんなことないです! きっと、姉上のことが本当に好きだから、だから真剣にお付き合いしたいのだと思います。それとも……姉上は君様がお嫌いですか?」
 「まあ、そんな! 嫌うなど……」
 憧れていた男性から好意を寄せられていると聞いて、相手を嫌いになれる女などいない。
 「あんな方とお近づきになれたら、とても幸せでしょうね」
 「では、君様と会ってくださいますか?」
 「それは……私は巫女だから、先ずは私がお仕えするアテーナー女神さまにお伺いをたてなければ」
 カッサンドラーはケレーンに退出してもらうと、すぐに女神像に祈りをささげた。すると……天井から一筋の光が射してきて、彼女にこう言うのだった。
 「貞節を守って交際すると誓えるのなら、アポローンと会うことを止めはしませんよ。そして、いざ結婚が決まったら、巫女を辞めればいい話です」
 アテーナーの慈悲のある言葉に感謝したカッサンドラーは、すぐに手紙の返事を書いてケレーンに渡したのだった。
 ケレーンがアポローンの社殿に戻ると、アポローンは落ち着かない様子で部屋の中を歩き回っていた。そしてケレーンの顔を見るなり、
 「どうだった!」と食いついてきた。
 「はい、姉から返事を……」
 もらってきました――と言う間もなく、アポローンが手紙を奪い取るのを見て、ケレーンは失礼ながらも微笑ましくなってしまった。まるで十代の少年のように見えたからだ。
 手紙の返事を見たアポローンは、「おお!」と感嘆の声をあげた。
 「ケレーン! そなたの姉上がとても良い返事をくれたぞ」
 「はい、君様」
 「アテーナー姉上からも、多少クギを刺されてはいるが了承がいただけたようだ」
 「ようございましたね」
 「良し! すぐに出かけるぞ!」
 「え? 今から……姉のところにですか?」
 「そうだ。カッサンドラーに会いにいくぞ。居ても立ってもいられぬからな!」
 「しかし、アテーナー様には貞節を守るようにと釘を刺されて……もうすぐ夕方ですよ?」
 「完全に夜になる前に帰ってくれば、不謹慎にはならない! それに、もしも帰りが遅くなってしまったとしても、弟であるそなたが立ち会ってくれれば問題はなかろう!」
 「まあ、確かに」
 ケレーンのその返答を聞くと、よっぽどもどかしかったのか、アポローンはケレーンを抱き上げると、窓から空を飛んでトロイアへ向かったのだった。


 それからアポローンとカッサンドラーの清い交際は七日間続いた。その七日間だけで、二人が互いを理解し、愛し合うようになるには十分だった。
 そして、アポローンはトロイアの丘でカッサンドラーに告白した。
 「カッサンドラー、わたしの妻になってくれ。わたしと結婚してくれたら、そなたに神の力を一つ――そう、わたしが司る予言の力を与えよう」
 「予言の力……未来が見えるようになるのですね。そうなったら、私はその力でこの国を守ることができます。王女としてこんな嬉しいことはありません」
 「では、わたしの求婚を受けてくれるか?」
 「はい、喜んで」
 「ありがとう、カッサンドラー」
 アポローンはカッサンドラーを強く抱き締めた。
 「では、約束通り力を与えよう。目を閉じて……」
 カッサンドラーは、アポローンにキスをされると、それと同時に力が体内に流れていくのを感じた。
 そして、視えてしまった……。今から二年後、銀髪の娘がアポローンの前に現われて、アポローンはその娘に心を奪われてしまう。結果、自分は捨てられて、苦しみ悶えながら命を絶つ姿が。
 唇を離した後、カッサンドラーの様子がおかしいことに気づいたアポローンは、「どうしたのだ?」と声をかけた。
 「私……私!」
 カッサンドラーは泣きながら答えた。「私は、アポローン様とは結婚できません!」

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