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from: エリスさん
2013年07月05日 12時49分38秒
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白鳥伝説異聞・10
トラーキア社殿の中庭では、鞭の音と、それを打ちつけられている男の悲鳴が響いていた。
"ピシッ!"
「うあぁ!!」
「はい、96回~」
と、葡萄を食べながら数を数えているのは、不和女神エリスにそっくりの少年・ディスコルディア――エリスの剣が人格化した少年である。
「あと4回だよ、頑張れ~」
と、ディスコルディアは完全にからかっていた。それを見て、鞭を振っていた少年・ポリュドロス――トロイア王家の生き残りにして、ディスコルディアの世話係は言った。
「意地悪なことを言ってはいけませんよ、ディスコルディア様」
「意地悪じゃないよ、励ましてるんだよ?」
「表情が励ましているそれとは違います」
「へへへ、分かるゥ? だって僕、こいつ嫌いだもん」
「それは僕も同意見ですが」
「ポリュドロスはどうして嫌いなの? こいつのこと」
「女は誰でも自分に惚れると、思い上がっているところです」
「まったくの同意見だね。僕もそこがきらァ~い」
そこで、今まで鞭打たれていた男が喚いた。「俺のしたことのどこが悪いんだ!」
「はい? なにか言ったかい? 下衆がッ」
と、ディスコルディアが言うと、
「俺は彼女を――エルアーを好きになっただけだ。それの何が悪い! 好きになった相手なら、傍にも寄りたいし、触りたいと思うのは当たり前じゃないか!!」
「それは普通の女の子の場合だ!」と、ディスコルディアは真顔になった。「彼女は過去に酷い目にあった。だから男が近付くだけで恐怖する体になってしまったんだ。おまえだってそのことは知らされていただろう。だからこの社殿の男たちは、なるべく彼女に近寄らないように、用事がある時も距離を保って会話をするようにしていた。みんなそうやって彼女を庇っていたのに、どうしておまえだけそれが出来ない! 彼女が嫌がることをあえてするんだ!」
「ですから! 彼女が好きだからです! 彼女が好きだから傍に寄りたい、触りたい。それは普通の事です!」
「だから! その普通のことを彼女にはやってはいけないって言ってるんだ! 前にアレース様からも指導を受けてるだろ? それなのに、おまえはまた彼女に近付いた。あまつさえ抱きついた。一番やってはいけないことだ! 僕のご主人様のエリス様がここにいたら、鞭打ち100回なんかじゃ許さないところだ。その場で手討ちにされてたよ!」
「こんなの理不尽だ......俺は悪い事なんかしてない。彼女だって俺に抱かれてさえくれれば、絶対に俺に夢中になってくれたのに......」
「だから、そういう考え方が......」
ディスコルディアは額に青筋を浮かべて立ち上がり、ポリュドロスから鞭を奪い取った。
「いけないって言ってるんだ、この色情魔がァ!!」
ディスコルディアは目にも止まらぬ速さで鞭を打ち続けた――もう100回どころではない。
それを止めてくれたのは、アレースだった。
「それぐらいにしてやれ。あまりやり過ぎると死んでしまうから」
するとディスコルディアは「いっそのこと殺したいです」と言った。
「気持ちは分からないでもないが、どんな罪人も罪を償う機会を与えてやらねばならない」
アレースはそう言いながらディスコルディアの手から鞭を取り、それをポリュドロスに返してから、地にはへばりついている男の首根っこを持ち上げた。
「オイッ、おまえ。今日からおまえは"ペ"と名乗れ」
「"ペ"? わたしにはアリアペというちゃんとした名が......」
「みすぼらしい名に変えるのも罰の一つだ。そして、今日からレームノス島の工房で下働きをしろ」
「レームノス島? ヘーパイストス様の工房?」
「そうだ。毎日毎日火を起こしているあの蒸し暑い工房で、ヘースやキュクロープスのおじさん達にこき使ってもらえ。日々の重労働で女に現を抜かす余裕もなくなるだろう」
「そんな!? どうかご勘弁を! あそこは人間が立ち入れば、一瞬のうちに干上がると噂されるほど極暑なところ......」
「だから行けと言っておるのだ!」
アレースはそう言うと、空高く"ペ"を放り投げた。すると、そこに二羽のカラスが飛んできて、"ペ"の腕をそれぞれ足の爪で掴み、そのまま連れ去ってしまった。
"ペ"の情けない悲鳴が、だんだんと小さく、遠くなっていく。
「頼んだぞ! ちゃんとヘースのところまで連れて行ってくれよ!」
と、アレースは二羽のカラスに向かって手を振るのだった。
「アレース様」と、ディスコルディアは言った。「ヘーパイストス様のような優しい方が、あいつをこき使ってくれるとは思えないんですが」
「まあ、そうだろうな。それも狙いだよ。とにかくレームノス島は猛烈に熱い。神でなければ耐えられないところだ。そこに、見かけだけは恐ろしいキュクロープス兄弟のプロンテースおじさんとステロペースおじさんもいる。かなりの恐怖を味わいぬいたところで、ヘースが優しさを見せてやれば......心を入れ替えようと、思ってくれるかもしれないだろ?」
「......アレース様って、本当にお人好しですね。エリス様が良く言ってました」
「褒め言葉として受け取っておくよ、ディスコルディア」
「あの、それで......」と、ポリュドロスが口を挟んだ。「エルアーさんはどうなりましたか?」
「ああ、あれなら今ごろ、うちの優秀な姪っ子が治してくれているはずだ」
エルアーが目覚めた時、彼女は柔らかく白い、そして温かなものに包まれていた。
目の前のその豊満な膨らみは、まさしく女性の胸で、エルアーはそれにいつまでも頬ずりをしていたくなる。実際、そうしようかと頬を寄せた途端に、誰かがエルアーの髪を撫でて、彼女を正気に戻してくれた。
「気が付いた? エルアー」
その声に前――胸の持ち主を見上げると、そこに懐かしい人の顔があった。
「レーテー様......」
「良かったわ。私を覚えてくれていたのね」
「忘れるなど......ずっと、お会いしたかったです」
「ホント? 嬉しいわ」
レーテーの満足げな笑顔が美しくて、エルアーの胸がドキッと高鳴った。
「あの......私はどうして......その、レーテー様に抱きかかえられているのでしょう」
「ごめんなさい、また治療させてもらったのよ。あなたが怖い目に遭ってしまったから」
「怖い目って......それじゃ、私......」
貞操を失ったのではないかと言う恐怖が沸き起こったが、それをレーテーが頬を撫でてあげることで収めた。
「大丈夫、大事には至っていないから。何も心配はいらないわ。それより、気分はどう? 気持ち悪いとか、ない?」
「気分は......レーテー様の素肌があまりにも気持ち良くて、幸せです」
「良かった。もう大丈夫ね」
エルアーの記憶の中から、男の体の感触を一切消してしまった。その上で、女体の柔らかさを刷り込んだのである。恐らくこれで、エルアーの恋愛対象は女性になってしまっただろう。
『でもこの子の場合、これが一番いいんだわ。誰とも恋愛を出来なくなるよりは、同性とでも恋愛が出来れば、少しは心が強くなる』
レーテーは先ずエルアーに服を着せてあげて、自分も服を着ながらドアの外の人達に声を掛けた。
「もう入ってきても大丈夫です」
レーテーの声掛けですぐにエイレイテュイアが入ってきて、ヘーラーとヒュスミーネーも入ってくる――マケ―とアルゴスは、どうやら別室で休んでいるらしい。
「おばあ様、お願いがあるのですが」
レーテーが言うと、ヘーラーはニッコリと微笑んで、
「分かってますよ。エルアーをこの社殿に引き取ってほしいと言うのでしょう? すでにアレースとは話が済んでます。心配ありません」
エルアーはこの後、アルゴス社殿の侍女として仕えることになった。トラーキア社殿にはその代わり、ヘーラーの侍女のうち二人が仕えることになった。二人とも結婚適齢期で出会いを求めていたので、男ばかりのトラーキア社殿に行くことはとても都合が良かったのである。
すべてが無事に済んだので、レーテーはその日のうちに倭へ戻ったのだった。-
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