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from: 岐阜のすーさん
2010年08月05日 05時11分39秒
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納得できるまで
私たちは日々変化しています。見方や考え方も日々変わっていきます。
物事の本質をつかむことは、それほど簡単ではありません。本当にこれが本質かと疑いながら追求する体験の積み上げが必要になります。
そして、自分自身で納得した時点で追求が終わります。これは、人に言われたから終わるのではありません。自らの決定です。
理解をするためには、「わからない。」が前提になっています。「わかった。」と言ってしまえば、それでその問題は解決になります。「でも、本当かな?」と疑うとまだ追求は続きます。
結論を急ぐ理由はないのですが、「わからない。」という不安定な状態は誰もが嫌います。早く結論を出して次に進みたいのです。
一度に2つも3つも抱えている問題があれば、早く結論を出したくなるのも道理です。しかし、それでは本当の解決にはなっていません。そのため、また、いつかその問題が首を持ち上げてきます。ただ、次の問題に取り掛かるためには一応の区切りをつけただけなのです。
ちゃんと脳は知っています。だから、「本当は、また解決していないよ。」と教えてくれるのです。
これを子どもの理解で考えてみると恐ろしいことが見えてきます。
この子はどんな子だろうと追求しているうちはその子をよく見ています。しかし、一旦「この子は、こんな子だ。」と決めたら、安心して、目を離してしまいます。本当はそうでないかも知れないのに、他にわからない子がいれば、そちらに目を向けるためにこの子については一応の結論を出しておくのです。
でも、本当は、この子をわかっていないのです。その後に違った面が見つかると、「あれ?、こんな子ではないはずなのに。」「先生は、信じていたのに。」「何か裏切られた気分だ。」などと言うのです。目を離した瞬間から追求をやめた自分が勝手に解釈したにも関わらず、あたかも子どもが変わったように見てしまうのです。
もっと深く関わりをもてば、見え方も違ってきただろうけれど、追求をやめた時点で見方が固定されてしまったのです。
これを防ぐには、常に子どもを固定して見ることなく「こんな一面もあるかもしれないな。」と結論を出さないで、仮の姿だと見ることです。どの子も固定的に見ることなく、仮の姿とし、常に「本当はどんな子なんだろう。」と追求し続けるのです。
信じるということは、自分本位です。相手とは無関係です。本当の姿を見ていないにも関わらず、勝手に自分の都合のよい姿を相手に当てはめているだけなのです。ですから、裏切られたと言って相手を責めることは本来すべきではないかもしれません。本当の相手を十分見ていなかった自分が勝手に解釈しただけなのですから。
互いに相手を認め合う関係ができれば、そこには裏切りはありません。何があっても、そんな面もあるのだと認められるからです。ですから、ここには、愛しかありません。
もし、新たな面を発見し、裏切られたと思うようであれば、どこかで勝手に自分の都合よい相手にしているのです。
ですから、互いに信頼合える関係を築くには、相手を丸ごと承認できることが前提になります。
これは、子どもと教師の関係だけに留まりません。親子関係、保護者と教師(学校)の関係、学校と地域の関係、生産者と消費者の関係、企業と企業の関係、行政と住民との関係、国と地方の関係、国と国との関係等様々な関係性の中で考えてみるとそれがよくわかります。
自分の利害で相手を勝手に解釈すると不平不満が出てきます。努力する姿を認めるよりも、相手を責めるのです。
共に生きる私たちです。完璧ではありません。互いに信頼しあう関係を本当に気づきたいのならば、まずは、互いに認め合い、そして、補い合わなければならないのです。
人間関係が希薄になっている現代社会に必要なのは、「承認」かもしれません。
子どもは純粋です。疑うことはしません。疑うことを教えるから、疑うのです。
子どもには、大人の愛に包まれて「承認」される自分を多く体験させたいものです。
(本当は大人も愛されたいと思っているのですが・・・・)-
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