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  • from: momoさん

    2024/12/08 11:23:04

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    🤔 12月8日 何の日 😣 ニイタカヤマノボレ

    この日は「太平洋戦争開戦記念日」のほか、
    「太平洋戦争開戦日」や「対米英開戦記念日」などとされる。

    1941年12月2日、大本営より機動部隊に対して「12月8日午前零時を
    期して戦闘行動を開始せよ」という意味の

    暗号電報「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ヒトフタマルハチ)」が
    船橋海軍無線電信所から送信された。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    1941年12月8日の「真珠湾攻撃」に「零戦35機」を率いて参加した
    当事者の「貴重な証言」
    12/8(日) 7:04配信 現代ビジネス

    私の手元に、古ぼけた書類の束がある。
    手製の表紙をめくると目に入ってくるのは

    軍の最高機密を意味する「軍機」の朱印だ。
    昭和16年12月8日、日米開戦の象徴となった真珠湾攻撃に
    関する詳細な計画、命令書である。
    なぜこんなものが私の元に来たのか、そして軍の機密のその中身
    とは――。

    「進藤三郎」という男
    昭和15年9月13日、圧倒的勝利に終わった零戦のデビュー戦を
    指揮し、漢口基地に帰還した進藤三郎大尉

    平成12(2000)年2月2日、ひとりの元海軍少佐が88年の生涯を終えた。
    その人の名は進藤三郎。
    太平洋戦争に興味のある人ならまず知らない人はいないであろう
    戦闘機乗りである。

    進藤は昭和15(1940)年9月13日、制式採用されたばかりの零式艦上
    戦闘機(零戦)13機を率い、中国・重慶上空で中華民国空軍の
    ソ連製戦闘機33機と交戦、27機を撃墜(日本側記録。

    中華民国側記録では被撃墜13機、被弾損傷11機)、空戦による
    零戦の損失ゼロという鮮烈なデビュー戦を飾った。

    続いて、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃では、
    空母赤城戦闘機分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦35機を
    率いた。

    その後、激戦地ラバウルの第五八二海軍航空隊飛行隊長、
    空母龍鳳飛行長などを歴任し、筑波海軍航空隊飛行長として
    派遣先の福知山基地で終戦を迎えた。

    戦後はトラック運転手や福島県の沼沢鉱山長などの職を転々と
    したのち、生家のある広島に戻って東洋工業株式会社に入社、
    出向した山口マツダで常務取締役まで務めた。

    戦争中はその華々しい「活躍」がしばしば新聞にも載るほど著名な
    海軍軍人だったが、戦後は一転して平凡な会社員生活で、
    戦争の話はよほど心を許した相手にしか、最後まですることを
    好まなかった。

    進藤が保管していた書類に入る前に、進藤自身の「真珠湾攻撃」
    について、1996年から99年にかけての私のインタビューをもとに
    再現しよう。

    突然の転勤命令
    昭和16年4月、新編された当時の赤城戦闘機隊搭乗員たち。
    中列中央・飛行隊長板谷茂少佐、その右・分隊長進藤三郎大尉。
    このメンバーのうち数人は、のちに第五航空戦隊に異動した

    昭和14(1939)年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことに端を
    発する欧州での大戦は、日本がドイツと軍事同盟を結んだことで、
    もはや対岸の火事とは言えなくなっていた。

    日米関係は悪化の一途をたどり、昭和16年7月28日、
    日本軍の南部仏印進駐を機に、アメリカは日本への石油輸出を
    全面的に禁止、

    イギリス、オランダもこれに同調する。世にいう「ABCD包囲網」で
    ある。

    この制裁措置は、石油その他の工業物資の多くをアメリカからの
    輸入に依存してきた日本にとって、まさに死命を制するも
    だったった。
    米英蘭との戦争は、もはや不可避と考えられた。
    海軍も、極秘裏に開戦準備に入る。

    航空母艦赤城、加賀の第一航空戦隊、蒼龍、飛龍の第二航空戦隊を
    主力に、第一航空艦隊(一航艦=司令長官・南雲忠一中将)が新たに
    編成されたのは、昭和16(1941)年4月のことである。
    一航艦は、空母と少数の駆逐艦だけで編成されたが、
    実戦に際しては、臨時に配属する速力の速い戦艦、巡洋艦、駆逐艦
    などを合わせ、これが世界初の試みとなる「機動部隊」として作戦
    に従事することになっていた。

    進藤は、機動部隊の編成にともなう人事異動で、
    南雲中将の座乗する旗艦赤城の戦闘機分隊長に転勤を命ぜられた。
    進藤の直接の上官、赤城戦闘機隊の飛行隊長は板谷茂少佐である。
    😮 ニイタカヤマノボレ 😔


    「支那事変での長く続いた戦地勤務で、私の体は疲れ切って
    いました。
    できれば今度は内地の練習航空隊の教官配置につけてもらえないか
    と思っていた矢先の転勤命令。

    空母乗組は"搭乗員の華"、誰もが羨む配置なんですが、
    正直なところ、はじめはうんざりしましたね」
    と、進藤は振り返る。

    次ページは:猛訓練で体が悲鳴を上げていた

    以下省略
    https://news.yahoo.co.jp/articles/fbec998c23796589e54864b1c6bfa73079eba86a

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