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from: from POCS MLさん
2007年08月13日 06時24分51秒
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神様と天使と人間の関係
>コーランは天使からの啓示であることが、読んでいて感じられました。>>天使には基本的に許しがないと感じました。>また、イエス様に対しては、メシアであり
> コーランは天使からの啓示であることが、読んでいて感じられました。
>
> 天使には基本的に許しがないと感じました。
> また、イエス様に対しては、メシアであり天使より上の存在と認めながらも、メシアであるイエス様も最上の神の僕である使徒に過ぎないと言っています。神に従いながらも人間に対してかなり不満を持っているということが感じられました。
http://bbs.goo.ne.jp/ac55492/message/20070805?format=time
神様と天使と人間の関係は非常に重要ですね。
キリスト教の「堕落」にしても、仏教の「無明」にしても、
悪魔と化した天使に人間が隷従してきたことを意味しているわけですから。
人間が本然の位置に立てるかどうかも、この天使との関係が深く関わっているわけですよね。
本来神の子であるはずの人間が、なぜ自分を神の子と呼べず、しもべと呼ぶようになったのかといえば、実は、天使に従属する立場になってしまったからですものね。
今、世の中の文芸作品には、神と悪魔の闘いみたいなストーリーがよく見られますけれど、人類はこれを真剣に考えなければならないですよね。
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from: from POCS MLさん
2007年09月28日 07時03分03秒
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「愛と自己認識」
「仏教哲理」から愛について引用し感想を書きます。
ここは仏教哲理といいながらかなり独自的な見解で神の愛をテーマとし
て書いてあります。
原理講論の喜びの原理から、自己認識を対象を通じてすることによって喜びを感じるというのは原理ですが、神様は全知全能、絶対者であるがゆえに真の愛以外に真の喜びは得られないことを知っておられ、それゆえに与え続ける神様なのかもしれません。
「神とは円心に記されるI See(私を認識する)である。自覚ISeeMyself
は、円心においてそのMyself(自身)を隠して「見えざる神」として立つ。対格なる Myself(自身) を隠すということは、絶対する[対立を絶する]ということでもある。」
神は、調和的な存在でありそれは円で表現されることは統一原理と一致します。
「ところで、I See(私を認識する)の本然は他動である故、円心に立つ神は、孤立しては心安きこと能はず、常に対格を求めてやまない。それが神の愛であり、神は愛ゆえに常に対格を求めるのである。」
喜びは自己の性相と形状を相対的に感じるときに生じる。
それは自己を認識するという意味であると取れる。
自己を知ることは独自的には実現できず相対があってこそ可能である。
調和の中に立つ中和的主体である神様が心情ゆえに相対を求めたという点においては統一原理とほぼ一致します。
「ところで、所与の個の主格なるI Seeならば、自身の主体存在を受取って保つ者である故、所与なる対象Thisを、同じく受取るという形で見るほかないであろう。
しかし神は絶対者である故、神が対格に対するというのは、対象を与えるという能与でなくてはならぬ。神は、自らの内より対格を産成し、相対の世界にこれを立て、その相を美しとして愛で慈しむ(美しむ)のである。」
「神は絶対であり全であるから、神は全能であって、どんな対象でも与えることができる。
神がSee Myselfなる対象、いなむしろ対者を求め、それを自らの内から与えるとき、神はそれと絶対してI See Myselfなる自覚式を充足せしめ、自覚すなわち真実に達するのであるが、そのほかにも、それの低次元に、神は無数の対象thisを求め、それを自からの内から与へて、I see thisなる式を成す。
それがいわゆる神の世界創造であり、キリスト教は自覚のこの論理を基盤として立つ。そのthisとは存在であり、宇宙であり、世界であり、天地であり、また自然界である。」
神様は自己を完全に与えることによって相対世界を創造し、それを良しとして、世界を愛された点は一致するが、その中心が何であるかが不明確であるが、統一原理においては人間であることを明確にうたっている。
「Myselfとは実にI love myselfである。
その神の自愛が人生に反映して、人間の各種の愛となる。たとえば物を求める好愛(I love this)、人を愛しみ人を恋うる愛(I love thee)、おのれのみを愛する我愛(I love myself only)、等々である。」
この点で問題となるのは神様が自己を与えることによって他者(相対)を愛する道を選んでいるということである。だから「おのれのみを愛する」という「のみ」というのは問題となると言えよう。
また、己を知る「自体自覚」は単なる自己愛でなく他者を必要とする相対性から生じ、他動であるというはじめの内容とも一致していないのでこれは統一原理から見ると説明不足を感じる。己を愛する愛は特に幼児のころは自己への防衛本能としても表れるが己のみを愛するわけではない。
「もと人倫の道たることを本質とする儒教では、二人の間の心の交流を「仁」と名づけ、それを昇華せしめて道の最高の原理となした。
ギリシア人は求める愛をエロースと名づけ、原初キリスト教はギリシア語アガペーを以て、神の主動性により人間に向って贖罪的に下降する「尽くす愛」を表はした。
これらはみな神の自愛の相対界における顕現である。」
この内容はほぼ統一原理にみても問題はないと思われます。
「これらに対し、仏教は「慈悲」なる語を以て、愛のもつ遠心力と求心力とを極めて適切に表現する。
慈を邦語では「いつくしむ」と訓ずるが、それは、「美しむ」義である故、円心の絶対が現存在を円周に立て、その姿を美しと愛でる心である。
しかし、かく円心を去って円周に立つ姿は可憐である故、それを見る円心の心は痛む。それが悲であって、これにより、相対の現存在(「一切衆生」sarva‐sattva「生きとし生ける者」)を絶対境へ迎へ取ろうとする如来の本願は「悲願」と称へられる。円心に作く空なる慧が、空に背く,我執・我所執なる有を対象として、それを空ずるのが大悲となるのである。よって一般に、対者を円周に立てるのを慈といい、円心に摂取するのを悲という、と解してよいと思う。」
この内容は主体から対象に与える情的力を愛、その結果対象から返ってくる情的力を美と見る統一原理とほぼ一致する。授受作用を遠心力、求心力と見る考え方も同様だと思われます。
「この「慈悲」は子に対する親の思いとして最も普遍的にかつ切実に発現する。
親とは円心の絶対の座に立って、円周にわが子を生み、その子を常にわがもとへ迎へ取りつつ生きる者である。この親の心を昇華せしめて仏・菩薩の大慈大悲とする。「一切有命の者が眼に遮らねば止む〔眼前に立たなければそれまでのこと」。眼にさえぎらば必ず慈悲心生ず。是を菩薩と云う」(慈雲尊者「十善法語」)
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