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2007年06月30日 07時10分13秒
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「罪と死と永遠の生命」
今までの宗教においては罪と悪と堕落性と死を混同させてきました。
仏教では、百八煩悩と言う言葉に象徴されるごとく、罪を性質のゆがみとしてきました。
また、六道輪廻を繰り返して煩悩による歪んだ性質を変更して仏性に変えて成仏することを救いの第一目標としてきました。
また、キリスト教においては贖罪論との兼ね合いで罪が入ったので
「あなたは、ちりだからちりに帰る」(創世記3・19)、
「罪の支払う報酬は死である」(ロマ・23)
と言うような聖句を根拠に、肉身的な死までも罪によってもたらされたと理解してきました。
これは創造科学においても、ヤングアース派は、死は悪の結果であり、本来の完全な世界にはないのだという極論にまで達しています。
しかし、現代科学によれば、共生循環という考え方からも、死はこの世界では必要なものです。
キリスト教においても、仏教においても、神に帰ること仏に帰ることが救いだと言っている側面があるにもかかわらず、
キリスト教においては物質的な死がなくなることこそ神の最終的な救いの摂理だと保守的キリスト教徒は見てきましたし、
仏教においてはこの世を否定し霊的な救いのみを強調するケースが見られます。
どちらにおいても、神様と親子の関係を回復して愛の完成と成長をなし、家庭を築いて神様を中心とした四大心情圏を地上において完成する中で地上天国を築き、そして地上での責任分担を終えると老衰により肉身を脱ぎ天上天国に行くという、創造原理が明確でないからです。
復活論において原理講論では
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31833362
「ルカ福音書九章60節の記録を見れば、父親の葬式のために自分の家へ帰ろうとする弟子に、イエスは死人を葬ることは、死人に任せておくがよいと言われた。」
「我々はこのイエスのみ言の中で、死と生に対して互いにその意義を異にする二つの概念があるということを知ることができる。」
「第一は、葬られなければならない、その弟子の父親のように、肉身の寿命が切れた「死」に対する生死の概念である。このような死に対する生は、その肉身が生理的な機能を維持している状態を意味する。」
「第二は、その死んだ父親の葬式をするために、集まって活動している人たちを指摘していう「死」に対する生死の概念である。」
「それではどうしてイエスは、現在その肉身を動かしている人たちを指摘して、死んだ人と言われたのだろうか。それは彼らがイエスに逆らって、神の愛から離れた位置、すなわちサタンの主管圏内にとどまっていたからである。」
「ゆえに、この死は肉身の寿命が切れる死を意味するのではなく、神の愛の懐を離れて、サタンの主管圏内に落ちこんだことを意味する死のことなのである。したがって、このような「死」に対する「生」の意義は、神の愛の主管圏内において、神のみ言のとおりに活動している状態をいうのである。」
とあります。
そして、これこそが永遠の生命です。
ここら辺をしっかりと踏まえ地上生活の創造目的を明確に理解していくことが、本来の罪や悪が何であるかと理解することにもなり、さらに神の創造の明確な主張を可能とすると思います。
また、理神論者は神を矮小化する行為だと言いますが、人間が神の子として創造され人間が愛の完成をなすことによって喜びの対象となるように創造されたことからするならば、
人間が自ら神様を証していかなければ創造目的が成就されないことは当然のことと言えるでしょう。icon
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2007年06月29日 07時56分26秒
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「仏教の意義」
仏教は、人類がメシヤを迎える準備をするために絶対者から与えられたとても重要なものであると思います。
それも含めて、仏教は、これほど普及しているにも関わらず、その意義が十分に理解されていないことを感じます。
私が、啓示のように衝撃的に知ったのは、鳩摩羅什のことでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E6%91%A9%E7%BE%85%E4%BB%80
法華経など主要な経典を漢訳した鳩摩羅什は、大乗仏教の礎を築いた偉大な人物ですが、ここにサタンが侵入していたことを、私はたまたまつけたテレビでちょうどそのときやっていたシルクロードの番組で知るようになりました。
鳩摩羅什は、ホームページにも、
「402年 姚興の意向で女性を受け入れて破戒し、還俗させられる。以降、サンスクリット経典の漢訳に従事」
とありますが、結局、堕落してしまったのです。
そして、その罪にさいなまされ、このような罪あるものでも救われるという意味の言葉をひそかに経典に忍び込ませた、とナレーターの松平さんが言っていました。
「極楽」という言葉がまさにそれです。
これは釈尊の教えにはなかったものだということです。
釈尊が説いた小乗仏教は、サタン分立を目的としたものでした。
しかし、今の仏教にはその精神が失われてしまっていると言って、過言ではありません。
悪魔の存在を真に受けず、これを精神的な問題のように言います。
その原因がこの鳩摩羅什の堕落にあったと、厳しい結論をせざるを得ないように思います。
霊界のことを考えていく上において、悪魔の存在、天使の存在なども、
明確に示していく必要があると感じています。icon
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2007年06月28日 06時44分53秒
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「本質的種」
「種類にしたがって」 (バイロン.C.ネルソン)
http://park8.wakwak.com/~dendo/seishonomanabi/scratch.htm
によると、不稔性(生殖細胞の発育不全・不和合性などが生じること)が本質的種の区分として重要なものとしてあげられています。
例えば、ラバ-馬とラクダのあいの子-の場合は、ラバの雄雌では子孫を残すことができないようです。雌のラバは馬の子孫しか残すことができない。このように似た染色体を持つ動物での雑種は子孫を残せない。
また、植物などで雑種が可能なものでも、自然に帰すと何代かのちに元に戻ってしまうという傾向があるということで、
種により変異の幅がある程度許容されているものもあるものの、明確な種の区分があるというのがこの本の主張する種の内容です。
初版は古い(1961)ものですが、分子生物学という新しいアプローチが確立された以外はここらへんの問題はあまり変わっていない気がしますので、この内容についてはまとめておこうと思います。
この本には、進化論の主張は超自然の力が一箇所でも働いたことを認めるならば崩壊する、と書いあります。
アメリカでのIDの異常な迫害を見ると、進化論者は、自然淘汰が崩壊すると自分たちは研究ができなくなるとでも思っているのでしょうか?また、神様が創造したなら法則なしの何でもありで科学など関係ないとでも思っているのでしょうか?
超越的な力を信じながらも科学研究をしている方はそのほかの分野にはたくさんいるのに、そのような偏見を生み出す見えない力のようなものが働いているのでしょうね。icon
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2007年06月27日 07時21分59秒
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「基本種と成長期間による多様性」
創造科学では、種には基本種があり、そこから変異によって、犬のように、さまざまな多様性ができたとみますが、
統一思想的に見れば、これも成長期間を経て神様の構想が現れたと見れると思います。
個性真理体はまったく神様の構想と無関係で形成されるとは考えにくいからです。
ただ、人間の責任分担を中心としてこの結果に外的にも影響が出る可能性が考えられると思います。
人間の堕落によって霊肉ともに環境圏が本来から逸脱してしまった内容によって、その授受作用の結果、外的にも神様の構想理想から外れた結果が現れる可能性はあると思います。
万物は基本的に原理の自律性と主管性のみによって成長期間を経ますが、人間には責任分担があります。
万物も、「切なる思いで神の子の出現を待ち望んでいる」とあるように、人間の影響を受けていますので、何でも神様の構想だというと問題ではあるとは思います。
環境問題などは、一説によると共産主義者が社会主義的な制圧を目標として誇張したりしている面もあるようですが、人間が創造本然の願いに生きれば解決していく問題なのかも知れませんね。icon
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2007年06月26日 06時51分18秒
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「Re:Re:創造目的を中心とした種分類が必要?」
生物学的に見る種は外観の違いでかなり細かく分けられていますから、本質的にはこういったものは同種なのかも知れませんね。ただ、環境の違いに対応して分岐できる生物の発展性の範囲なのかも知れません。
もう少し、この本の内容も全般的に調べていきたいと思います。
他の資料でも調べてみます。
ちなみに、久保有政牧師は「創造論の世界」で
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30546409
生殖細胞中に同じ数、同じ型の染色体を持っているものが「本質的種」であり、外観の違いに関係がなく交配し、繁殖力が可能なものとしています。
これらは不変的で、「本質的種」の範囲内で変異が可能だが、この「本質的種」を超えて変異することはないとしています。
例をあげれば狼と犬は「本質的種」としては同じであると見ます。この考え方は、遺伝子プールの考え方とも近く、統一思想の愛の門の考えとも近いと思います。
ただ、渡り鳥などで、同じ種でありながらも交配して繁殖することが環境によってできなくなるケースがあるようで、これをもって新しい種ができたとする進化論者がいます。
ただ、むしろ、これは環境対応によって交配が制限されただけでこれを新しい種と呼ぶには無理があります。外観もこの場合はほとんど変わりません。一時的に環境対応によって制限されるものの、また環境が近くなっていけば徐々に交配が可能な子孫を生むように変異すると考えられますが、こういう環境対応のところでどのように考えるかと言う問題はあります。
このように考えると、愛の門と創造目的性を組み合わせて考えないと、片方だけでは「本質的種」がなんであるかがわからなくなると思います。icon
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2007年06月25日 06時49分25秒
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「Re:創造目的を中心とした種分類が必要?」
> 「そこで,空間的・時間的に異なる生物個体どうしが同種か別種かを判断するには推測に頼るしかない.
> 推測に用いられる判断材料は,(1)形態―とくに生殖にかかわる器官,(2)生態的情報,(3)人為的な交配実験の結果,などである.
> ただし交配実験によって生存力と妊性のある雑種が得られたとしても,その両親が同種であるという結論に直結するとは限らない.
> 自然状態では決して交配しない2つの「種」の間でも,人為的な実験環境下では容易に交配してしまい,妊性のある雑種が生じる例が数多く知られているからである.」
自然状態でどうか、でしょうね。
自然界の多様性は、この秩序の上に成り立っているわけですから。icon
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2007年06月24日 07時43分25秒
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「創造目的を中心とした種分類が必要?」
生物学においても生物の種を分類しようと努力がなされてきたが、「聖書」の言う「種類に従って」の種が何であるかを明確にはできなかった。
それは外形から判断しようとしたからであるが、非常に難しい問題ではあると思います。
「マクロ進化と全生物の系統分類」の内容をあげてみます。
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31464855
■種とは何か
「すべての生物学は種を単位にして構築されているといっても過言ではない.」
「種という言葉のもつ2つの異なる意味を区別する必要かある.すなわち「分類群としての種]と「分類カテゴリーとしての種」である.」
「たとえば背骨をもつことで特徴づけられて他と区別されるような生物の集まりは「脊椎動物」という分類群である.」
「ではどんな分類群を「種」という分類階級に当てはめるべきであろうか.
逆に,「種」という分類階級に割り当てられるべき分類群が共通してもっている性質はあるだろうか.」
「鳥類学者のマイア(E.Mayr)は1940年代に「生物学的種概念」を提唱した.
生物学的種概念においては,「種」分類階級に割り当てられるべき分類群の構成メンバーは互いに交配可能だが,「別種」のメンバーとは生殖的に隔離されている.」
「この考え方に従うと「脊椎動物」は種分類階級に当てはめるには相応しくない.たとえばメダカとネコがたがいに交配できるわけではない.これに対して「柴大」と「シベリアン・ハスキー」は交配可能である.したがってそれらは生殖的に隔離されてはいない.」
「比較しようとする2つの生物群が同種かどうかを判断するうえで生物学的種概念を実際に適用する場合には,それらの間での生殖隔離の有無を観察することになる.」
「しかし,これが可能なのは調べようとする2つの生物群が自然条件下で同時かつ同じ場所(同所的)に生息している場合に限られる.」
「そこで,空間的・時間的に異なる生物個体どうしが同種か別種かを判断するには推測に頼るしかない.
推測に用いられる判断材料は,(1)形態―とくに生殖にかかわる器官,(2)生態的情報,(3)人為的な交配実験の結果,などである.
ただし交配実験によって生存力と妊性のある雑種が得られたとしても,その両親が同種であるという結論に直結するとは限らない.自然状態では決して交配しない2つの「種」の間でも,人為的な実験環境下では容易に交配してしまい,妊性のある雑種が生じる例が数多く知られているからである.」
「生殖隔離が不完全な状態で2つ(またはそれ以上)の集団が隣接して分布している場合,個々の集団を「半種]とよび,それらの集団を全体として「上種」とよぶことがある.上種を構成する個々の半種は,生物学的種概念を適用しても同種・別種の判断ができない.」
「生物学的種概念は有性生殖する生物にしか当てはまらない.」
「細菌は分裂によって無性的に増殖するため,ある分類群を「種」の階級に当てはめるべき客観的な基準が存在しない.」
「このように,生物学上「種」とよばれているものの「あり方」はさまざまであり決して一様ではない.また,個々の「種」の間が常に明瞭に分けられるとは限らない.すなわち,自然の中には本質的に分けられるかどうかわからないものが存在しているようだ,ということがわかり始めたわけである.分類学の結果は仮説的である.生物学者は操作上の都合から仮説的にそれらを離散的な枠組みに当てはめて対処しているのである.」
これらを統一思想から見るならば、生物を創造目的を考えず一律に見すぎたという側面に問題があると思われます。icon
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2007年06月23日 07時09分34秒
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「Re:変化(発展性)と個体の創造」
> 現代の進化論は、事物の生成と運動のみを捕らえそこに目的性
> を見出すことを嫌う。これは価値観の多様性によって人間の宗
> 教性を排除しようとする思想が暗に働いているように思われる
> 。これは、形を変えた唯物思想である。
デカルト機械論ですね。
この世界は物理法則のみで展開しているという純然たる科学的
思想に基づくものです。
ある部分では間違っていないのですが、果たしてそれで完全かと
いうと完全にはならないわけですよね。
> しかし、目的性のないところに法則性はないのである。
法則性があることまでは、科学ではっきりとわかりました。
また、それに目的性があるかどうかというのは科学では扱わないと
科学者は言いますね。
> すなわち、個体の創造目的があって、連体としての全体があり、
> それらが相互関連性も持つのが変化・発展なのである。
ここがポイントですね。
進化、変化、発展は、個体の相互関連性があって初めてあり得る
ということが、きわめて重大な大真理であり、
これを進化の前に持ってこなければならないということですね。
> すなわち創造的対応がなされないところに個体の進化はあり得
> ないのであるから、単なる変化・発展としての進化はなく、そ
> れは創造であると理解できる。
そういうことですね。
相互関連性は神様によって与えられたものであり、
むやみやたらなものではないということですね。
いかなるものも、この相対的授受相関関係の秩序の中で存在
しているわけで、これを逸脱することはどうやっても出来ない
わけです。
よって、新たなる相対的授受相関関係は、神によって新たに
もたらされなければあり得ないということですね。icon
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2007年06月22日 10時51分54秒
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「変化(発展性)と個体の創造」
先に述べたことと同様でありますが、進化論は変化を重視しているので、
変化とは何か?と言う角度から考察してみたいと思います。
現代の進化論は、事物の生成と運動のみを捕らえそこに目的性を見出すことを嫌う。これは価値観の多様性によって人間の宗教性を排除しようとする思想が暗に働いているように思われる。これは、形を変えた唯物思想である。
事物は、確かに運動している。しかし、事物には普遍性もまたあるのである。それは、事物が基本的な4つの力の相互作用で成り立っていることや、雄しべ・雌しべ、オス・メスなど陽性実体・陰性実体、主個体・従個体など陽性と陰性の二性性相で成り立っている事からも明白である。
統一思想から見れば、すべての事物や生物の成り立ちは不変と変化、自己統一性と発展性の統一によってなされているのである。
哲学でいえば、形而上学は自己同一性のみを扱い、弁証法は変化のみを扱ったのであるが、先に述べたようにこれらは創造目的を中心として統一されるのである。
進化論においては変化を中心に扱い、自己同一性を自然淘汰に頼っている。すなわち、物質の法則性に頼っているのであるが、
それに対しての意味を問うことを避けている。しかし、目的性のないところに法則性はないのである。すなわち、個体の創造目的があって、連体としての全体があり、それらが相互関連性も持つのが変化・発展なのである。
これらを基盤として神様の創造を考えるとき、個体目的を超えた変化には新しい力の入力がなければならない。そうでなければ個体と全体との関係性の変化にとどまることになるだろう。
個体同士の関連性がいくら変わっても個体の不変性を超えて変わるには新たな力が必要である。すなわちそこで創造がなされるのである。
このように見るときに相対的授受相関対応説、すなわち創造的対応がなされないところに個体の進化はあり得ないのであるから、単なる変化・発展としての進化はなく、それは創造であると理解できる。icon
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2007年06月21日 06時37分22秒
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「Re:Re:Re:球面定在波」
> 球面定在波のモデルが、その計算の出発点になる可能性を
> 少なからず感じています。
私もそう思います。
不確定性原理や相対性理論も含めすべてを説明できる
統一理論になると思います。
> その“ひも”の端が繋がっている“面”は、
> 互いに1対1に対応しています。
> そしてその“面”が、超弦理論でいうところの
> “Dブレーン”に相当するのではないかと考えています。
ひもと直交するので、球面(Dブレーン)は空間次元、時間次元を
含まない、時空を超越した次元ということですね。
このDブレーン上の移動が非常に面白そうですね。
シュレジンガーの猫のパラドックスも解けそうに思います。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwjs.htmicon
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