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創造目的学会

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    2007年09月29日 06時13分58秒

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    「Re:愛と自己認識」

    「仏教哲理」神様の愛についての内容でもう少し補足すべきと感じるところを書きます。


    > 「ところで、所与の個の主格なるI Seeならば、自身の主体存在を受取って保つ者である故、所与なる対象Thisを、同じく受取るという形で見るほかないであろう。
    >
    > しかし神は絶対者である故、神が対格に対するというのは、対象を与えるという能与でなくてはならぬ。神は、自らの内より対格を産成し、相対の世界にこれを立て、その相を美しとして愛で慈しむ(美しむ)のである。」
    >
    > 「神は絶対であり全であるから、神は全能であって、どんな対象でも与えることができる。
    > 神がSee Myselfなる対象、いなむしろ対者を求め、それを自らの内から与えるとき、神はそれと絶対してI See Myselfなる自覚式を充足せしめ、自覚すなわち真実に達するのであるが、そのほかにも、それの低次元に、神は無数の対象thisを求め、それを自からの内から与へて、I see thisなる式を成す。
    > それがいわゆる神の世界創造であり、キリスト教は自覚のこの論理を基盤として立つ。そのthisとは存在であり、宇宙であり、世界であり、天地であり、また自然界である。」


    ここで、創造とは何かということが問題となる。
    神様は単に自己の一部を相対化したのでなく、自己の要素の一部を抽出して与え授受することによって別存在を相対的世界に創造したと考えられます。
    この点からあくまでも被造物なのです。また相対からの自己認識は愛ということを考えると、単に自己の性相と形状を相対的に感ずるときに喜びが生じるというよりも、相対的に感じながら、かつ「調和」が見出される時に喜びが生じると考えると、創造目的、四位基台にもよりよく一致して納得がいくと思います。


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  • from: from POCS MLさん

    2007年09月28日 07時03分03秒

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    「愛と自己認識」

    「仏教哲理」から愛について引用し感想を書きます。
    ここは仏教哲理といいながらかなり独自的な見解で神の愛をテーマとし
    て書いてあります。
    原理講論の喜びの原理から、自己認識を対象を通じてすることによって喜びを感じるというのは原理ですが、神様は全知全能、絶対者であるがゆえに真の愛以外に真の喜びは得られないことを知っておられ、それゆえに与え続ける神様なのかもしれません。

    「神とは円心に記されるI See(私を認識する)である。自覚ISeeMyself
    は、円心においてそのMyself(自身)を隠して「見えざる神」として立つ。対格なる Myself(自身) を隠すということは、絶対する[対立を絶する]ということでもある。」

    神は、調和的な存在でありそれは円で表現されることは統一原理と一致します。

    「ところで、I See(私を認識する)の本然は他動である故、円心に立つ神は、孤立しては心安きこと能はず、常に対格を求めてやまない。それが神の愛であり、神は愛ゆえに常に対格を求めるのである。」

    喜びは自己の性相と形状を相対的に感じるときに生じる。
    それは自己を認識するという意味であると取れる。
    自己を知ることは独自的には実現できず相対があってこそ可能である。
    調和の中に立つ中和的主体である神様が心情ゆえに相対を求めたという点においては統一原理とほぼ一致します。

    「ところで、所与の個の主格なるI Seeならば、自身の主体存在を受取って保つ者である故、所与なる対象Thisを、同じく受取るという形で見るほかないであろう。

    しかし神は絶対者である故、神が対格に対するというのは、対象を与えるという能与でなくてはならぬ。神は、自らの内より対格を産成し、相対の世界にこれを立て、その相を美しとして愛で慈しむ(美しむ)のである。」

    「神は絶対であり全であるから、神は全能であって、どんな対象でも与えることができる。
    神がSee Myselfなる対象、いなむしろ対者を求め、それを自らの内から与えるとき、神はそれと絶対してI See Myselfなる自覚式を充足せしめ、自覚すなわち真実に達するのであるが、そのほかにも、それの低次元に、神は無数の対象thisを求め、それを自からの内から与へて、I see thisなる式を成す。
    それがいわゆる神の世界創造であり、キリスト教は自覚のこの論理を基盤として立つ。そのthisとは存在であり、宇宙であり、世界であり、天地であり、また自然界である。」

    神様は自己を完全に与えることによって相対世界を創造し、それを良しとして、世界を愛された点は一致するが、その中心が何であるかが不明確であるが、統一原理においては人間であることを明確にうたっている。

    「Myselfとは実にI love myselfである。
    その神の自愛が人生に反映して、人間の各種の愛となる。たとえば物を求める好愛(I love this)、人を愛しみ人を恋うる愛(I love thee)、おのれのみを愛する我愛(I love myself only)、等々である。」

    この点で問題となるのは神様が自己を与えることによって他者(相対)を愛する道を選んでいるということである。だから「おのれのみを愛する」という「のみ」というのは問題となると言えよう。
    また、己を知る「自体自覚」は単なる自己愛でなく他者を必要とする相対性から生じ、他動であるというはじめの内容とも一致していないのでこれは統一原理から見ると説明不足を感じる。己を愛する愛は特に幼児のころは自己への防衛本能としても表れるが己のみを愛するわけではない。

    「もと人倫の道たることを本質とする儒教では、二人の間の心の交流を「仁」と名づけ、それを昇華せしめて道の最高の原理となした。
    ギリシア人は求める愛をエロースと名づけ、原初キリスト教はギリシア語アガペーを以て、神の主動性により人間に向って贖罪的に下降する「尽くす愛」を表はした。
    これらはみな神の自愛の相対界における顕現である。」

    この内容はほぼ統一原理にみても問題はないと思われます。

    「これらに対し、仏教は「慈悲」なる語を以て、愛のもつ遠心力と求心力とを極めて適切に表現する。
    慈を邦語では「いつくしむ」と訓ずるが、それは、「美しむ」義である故、円心の絶対が現存在を円周に立て、その姿を美しと愛でる心である。
    しかし、かく円心を去って円周に立つ姿は可憐である故、それを見る円心の心は痛む。それが悲であって、これにより、相対の現存在(「一切衆生」sarva‐sattva「生きとし生ける者」)を絶対境へ迎へ取ろうとする如来の本願は「悲願」と称へられる。円心に作く空なる慧が、空に背く,我執・我所執なる有を対象として、それを空ずるのが大悲となるのである。よって一般に、対者を円周に立てるのを慈といい、円心に摂取するのを悲という、と解してよいと思う。」

    この内容は主体から対象に与える情的力を愛、その結果対象から返ってくる情的力を美と見る統一原理とほぼ一致する。授受作用を遠心力、求心力と見る考え方も同様だと思われます。

    「この「慈悲」は子に対する親の思いとして最も普遍的にかつ切実に発現する。
    親とは円心の絶対の座に立って、円周にわが子を生み、その子を常にわがもとへ迎へ取りつつ生きる者である。この親の心を昇華せしめて仏・菩薩の大慈大悲とする。「一切有命の者が眼に遮らねば止む〔眼前に立たなければそれまでのこと」。眼にさえぎらば必ず慈悲心生ず。是を菩薩と云う」(慈雲尊者「十善法語」) 


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  • from: from POCS MLさん

    2007年09月27日 06時55分53秒

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    「真如と慈悲と大日如来」

    統一思想要綱では真如を仏教の神に当たるものとして扱っている。また、真如と慈悲の関係を注(p795)では、如来から説明している。

    「如来とは「真如より来れる者」という意味であるが、妙法蓮華経には
    「如来の室とは一切の衆生(生きとし生けるもの、特に人間を意味する)の中の大慈悲心是なり」(橋本早男・岩本裕訳「法華経」岩波書店=岩波文庫、1964年、(中)p.158)と書かれている。
    したがって真如が慈悲の根本であるということができる。」

    しかし、真如そのものからの説明でなく、仏教においては真如そのものは単に真理の根源である善悪を超えた冷たい存在というイメージだろう。
    そこで、法身説法を説き、法身が人格的存在であることを証した大日経においては如来を統括し、すべての存在を誕生させる人格的存在として大日如来という表現方法が考え出されたのだろう。

    大日如来は摩訶毘廬遮那如来とも呼ばれているが、これはサンスクリット語をそのまま音写したものであり、「マハー・ヴァイローチャナ」で「大きい光り輝くもの」という意味であり、「ヴァイローチャナ」はインド神話の太陽神(日天)の別名であるが、それより大きいとは太陽神を超えるものという意味となる。

    中唐時代の中国密教の第一人者である善無毘三蔵(637〜735)とその弟子一行禅師が「大日経」を漢訳する際に「大日如来」としたことに由来する。(密教曼荼羅 新紀元社 p.28参考)

    従来の仏教的人格神は多神教的な根源的存在から発生したものであり、
    仏教徒の中には創造神の崇拝は多神教的な原始的宗教に見られる次元の低いものとみる傾向もあるが、

    「大日如来」においては根源的な存在でありながら人格的な存在であることは、宇宙の根源としての創造神という考え方とほぼ同一と見ることができ、
    統一思想における、絶対者は本性相と本形状の中和的主体であり、その根源的属性が心情である、と説く考えに近いということができます。

    また、曼荼羅思想は多神教的偶像的な要素もみられるがそれすらも根源的な神様(大日如来)の信仰につなげ、すべてを堕落から復帰しようとする神様の慈悲深さを感じます。


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  • from: from POCS MLさん

    2007年09月26日 06時40分44秒

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    「Re:Re:Re:Re:如来 = 救世主? 大日如来の相対として立つ人間」

    > しかし、どうなのでしょう。
    > お釈迦様がおっしゃった如来は、法の根源にあたるもので、
    > 実体すなわち被造世界(法界)の主体にあたります。
    >
    > 如来は時空を超越した根源者の側にあると思います。


    現在の仏教に合わない解釈であることを承知で、
    アダムのロゴスからすべてが作られたという理解から、
    来るべき完成人間の可能性を論じてみたのですが、

    ただ、釈尊のおっしゃっている内容からすれば、
    その時点で存在している真理そのものを証する存在で真理がある以上、
    その存在は霊的存在でありながら疑うことができないという内容である気がいたしますので、
    やはり救世主である可能性は低いでしょうね。

    一応、1つの可能性を感じたので議論する価値ありと感じ?マークで議題をあげていました。


    >> もう1つの解釈としては、神の真理をそのまま証する霊的な使者、すなわち神の代理をしていた天使の中の天使長クラス(ガブリエルやミカエル)などをして如来と言った可能性は感じられます。
    >>
    >> この天使長は堕落人間が到達できる最高位と同格であり、しかも、神様の創造の技を見てきた存在なので、
    >> 文鮮明先生の御言葉にあるように、堕落人間にとっては神的存在だからです。
    >
    > こちらのほうが可能性としては高いのではないでしょうか。


    神以外の存在で完成人間の構想(ロゴス)でもないとするなら、神の代役を果たした天使長以外には考えられないと思います。


    >> 私はメシアを弥勒菩薩として例えたのは本来的には不充分な表現ではないかと感じています。
    >
    > 弥勒菩薩には救い主という意味合いが十分にありますが、
    > 不十分とおっしゃっている意味は、完成実体を意味しているか
    > どうかという点ではなかろうか、と思います。


    さすがに、鋭いですね。その通りです。


    > そういう意味では、大日経に出てくる金剛サッタは、
    > 完成人間を意味しており、かつ、大日如来の相対として立つ人間を
    > 意味しております。


    なるほど。
    私は大日如来というのは、
    真如という言葉であると真理の根源と言う意味合いが強く人格的な神様の意味を表していないため、
    如来を統括し、かつそのすべての根源である人格的側面を持つ超越者としての大日如来という呼び名にする必要があったのではと解釈します。

    そのような大日経の中に相対として立つ立場の完成人間を表す教えがあるのは非常に意義深いですね。


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  • from: from POCS MLさん

    2007年09月25日 06時36分37秒

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    「Re:Re:Re:如来 = 救世主?」

    > 私が原語の意味合いから思ったのは、来るべき真理の実体、理想像をもともとは如来としたのではないか?と思ったのです。
    >
    > しかし、それがだんだんと神そのものを指すようになったのではとも思えたのですが、


    なるほど、真如に対して如来ということで、
    そう思われたのかもしれませんね。

    しかし、どうなのでしょう。
    お釈迦様がおっしゃった如来は、法の根源にあたるもので、
    実体すなわち被造世界(法界)の主体にあたります。

    如来は時空を超越した根源者の側にあると思います。


    > もう1つの解釈としては、神の真理をそのまま証する霊的な使者、すなわち神の代理をしていた天使の中の天使長クラス(ガブリエルやミカエル)などをして如来と言った可能性は感じられます。
    >
    > この天使長は堕落人間が到達できる最高位と同格であり、しかも、神様の創造の技を見てきた存在なので、
    > 文鮮明先生の御言葉にあるように、堕落人間にとっては神的存在だからです。


    こちらのほうが可能性としては高いのではないでしょうか。


    > 私はメシアを弥勒菩薩として例えたのは本来的には不充分な表現ではないかと感じています。


    弥勒菩薩には救い主という意味合いが十分にありますが、
    不十分とおっしゃっている意味は、完成実体を意味しているか
    どうかという点ではなかろうか、と思います。

    そういう意味では、大日経に出てくる金剛サッタは、
    完成人間を意味しており、かつ、大日如来の相対として立つ人間を
    意味しております。


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  • from: from POCS MLさん

    2007年09月24日 07時26分42秒

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    「Re:Re:如来 = 救世主?」

    私が原語の意味合いから思ったのは、来るべき真理の実体、理想像をもともとは如来としたのではないか?と思ったのです。

    しかし、それがだんだんと神そのものを指すようになったのではとも思えたのですが、

    もう1つの解釈としては、神の真理をそのまま証する霊的な使者、すなわち神の代理をしていた天使の中の天使長クラス(ガブリエルやミカエル)などをして如来と言った可能性は感じられます。

    この天使長は堕落人間が到達できる最高位と同格であり、しかも、神様の創造の技を見てきた存在なので、文鮮明先生の御言葉にあるように、堕落人間にとっては神的存在だからです。

    私はメシアを弥勒菩薩として例えたのは本来的には不充分な表現ではないかと感じています。


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  • from: from POCS MLさん

    2007年09月23日 06時32分19秒

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    「Re:如来 = 救世主?」

    メシヤにあたるのは弥勒菩薩なので、如来はこれとは違うと思います。

    弥勒菩薩とは誰か
    http://home.att.ne.jp/apple/world/miroku1.htm

    「弥勒菩薩…五十六億七千万年後に兜率天から下生して釈迦如来の教えに漏れた衆生を救済するという仏である。」
    「弥勒という名前は、サンスクリット語“マイトレーヤ”の漢訳」

    また、如来には、大日如来にしても、阿弥陀如来にしても、肉体がありません。

    これに対して、釈尊もイエスも、またメシヤも、肉体をもった人間でありますので、
    これと如来とは別格の存在だと思います。

    釈迦如来は、如来と一体となっている釈尊を尊称していった言葉であり、イエスキリストを神と呼ぶのに匹敵する言葉だと思います。

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  • from: from POCS MLさん

    2007年09月22日 06時57分41秒

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    「如来 = 救世主?」

    私が感じたのは、真如から真理を受肉して証をするために来るものが、如来の本来の意味であり、
    神の真理を証して世を救うために来るもの、救世主、キリスト、メシアというような意味が本来の如来という意味であるという気がします。

    それで釈迦が釈迦如来と呼ばれているのであろうと思うのですが、どうでしょうか?

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    2007年09月21日 06時56分09秒

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    「Re:Re:真如 仏教哲理」

    「仏教哲理」の内容を正確に把握してもらうために一応該当箇所を全文載せます。難しい内容ではありますが、如来の意味するところをいろいろな角度から述べています。


    以下、「仏教哲理 佐藤通次著」より引用

    「般若の智慧によって縁起の道理を如実に見ることが、仏陀の「正覚」の内容であった。仏陀(Buddha)とは。"覚者"(目ざめた人、悟った人)の義であり、仏陀の正覚において「現から真へ」の得脱成仏が典型的に成就されたのである。

     それは相対から絶対への転換であるが、相対を出離して絶対に到るというだけでは、その絶対が相対に対するもの、則ち一種の相対たるものにとどまることから、仏陀は必然的に、絶対を、相対と相対せざる相において確保せねばならぬ。それには、解脱せる相対を貫通し直すほかに道はない。かくして仏陀は、一旦出離せる相対界に改めて復帰するのである。

     伝説では、仏陀は成仏後、おのが正覚の境地を人に説き示すことの困難を思って絶望していた。相応部経典の「勧請」が仏陀のその時の感懐を述べる。

    「辛苦してようやく悟り得たものをなにゆえ人に説かねばならないのか
    貧りと怒りに焼かれる人々にこの法を覚るのは容易でない
    そは世の常の流れにさからい甚深、微妙、精緻にして知りがたい」

     しかし、娑婆世界の主なる梵天(Brahman)の切なる勧請によって、ついに説法の開始を決意したという。

    「われいま甘露の門をひらく 耳ある者は聞け、ふるき信を去れ」


    仏陀の説法の開始を「初転法輪」という。法輪(dharma cakra)を転ずると共に仏陀は、彼を表はすさまざまの称呼のうち最美称とされる「如来」となったのである。

    覚者仏陀の覚は「自覚、覚他、覚行窮満」と釈されるが、自ら悟り、他を悟らせ、覚行を完成せしめるのが覚者たるものの面目である。これに対し如来とは、所沢仏典による伝統的解釈では、
    ”真如を証して衆生済度に来れる者"の義であるから、換言すれば「真→実」といふことにならう。
    『大赦涅槃経』聖行品第十九には「真実とは、すなはちこれ如来、如来とはすなはちこれ真実」と言っている。」


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    2007年09月19日 07時50分48秒

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    「Re:真如」

    >真如といわれるものが神ではないかと思うのですが、私もそれほど
    >多くの著書を読んでいるわけでないのではっきりはわかりません。
    >ただ、大日如来の場合は各如来、菩薩、天部などの中心に
    >存在するということで神様を意味すると考えても良いとは思います。

    統一思想要綱でも、「真如」と書かれていますね。
    http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30817504


    >真如の消息を請人にもたらすのが説法であり教化である故、曇
    >鸞(五四二寂)の『浄土諭註』下には「如来者法相説」と釈し
    >ている。真如より来れるコトバそのものとなるのが、如来の意
    >義である。」


    真如は一般的にあまり知られていない言葉ですが、
    真如の消息を伝えるのが説法だということですし、
    如来は、“真如”を証して「衆生済度に来れる者」だということは、
    如来は絶対者である真如の使者であるというのがもっとも正しい理解ということになりますね。

    大般涅槃経
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83%E7%B5%8C

    『大般涅槃経』聖行品第十九にどのように書かれているのか、
    調べてみる必要がありますね。


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