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from: Dr. スリップさん
2016/11/15 14:48:40
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日本海海戦大勝利の本当の立役者は誰?(本論)
最近、半籐一利って人の戦争を中心とした日本近代史の本を数冊読んだの。半籐さんて、70歳を超えたおじいちゃんだけど、戦争中は戦争に行く直前の少年時代だっただけに、戦争に対し、常識に縛られない次世代の解析者のような気がするわ。今までの戦史家や小説家が書かなかった、あるいは書けなかったことを、この人はいっぱい書いてくれているわ。超有名な日本海海戦にしても、陰ではもっと凄いエピソードがあったんだなあ、よくそれを表ざたにしてくれたなあと感心しちゃった。バルチック艦隊がウラジオストックに入港するためには対馬海峡と津軽海峡と宗谷海峡の3か所を通過する可能性があり、どこで待ち伏せするかというのが当時最大の賭けだったってことはそれこそ有名な話なのね。もとより日本海軍の力量では、3か所に分散して待ち構えて接触した部隊が戦闘をするなんてことは到底勝てるわけがないことは火を見るより明らかで、まとまって掛からなければそれこそ大本営で東郷大将が豪語した"必ず撃滅しもっす!"なんてできっこなかったのね。そこでどこを通過するかを予測することが超重要なことだったのね。頭のいい秋山参謀は地球をほぼ3分の2周して遠路はるばるやってくるバルチック艦隊は燃料や食料の面からも隊員の士気の面からも最短距離の対馬海峡に来るはずだと、早くから結論を出していて、連合艦隊の大方針になっていったんだって。でも予測した決戦の日を超えても敵艦隊は姿を見せず、みんなが焦りだしたのね。頭のいい秋山参謀などは落ち着かず、夜は靴を履いたまんま寝てたんだって。そしていろんなことが考えられるだけにいてもたってもいられな無くなって、"宗谷海峡へ急行しよう!"なんて言い出すのね。そこへ行くと東郷司令長官は肝が据わっていて、"今更動いたところで敵の尻を追いかけることになり、取り逃がすのは必定だからここで待つ"とがんばったのね。でも、その流石の胆力の東郷司令も敵の行動があまりにも遅いのに業を煮やし、参謀長以下大多数の参謀の意見具申に従って、明日、宗谷海峡へ移動する旨の命令を発令すると約束しちゃうの。これが海戦の2日前、ここで動いていたら、完勝のチャンスは無かったんだわ。この沈痛な決断をしていた連合艦隊旗艦・戦艦三笠の司令室に血相を変えて飛び込んできた人がいたの。この人こそ第2艦隊参謀長の藤井較一大佐で、大将や中将や少将など偉いさんがいっぱい集まっている中で、東郷司令に"決してここを離れてはいけない"って直談判したの。彼は当時としては天才的な数理シミュレーションをやって、絶対に対馬海峡を通るっていう結論を出していたのよ。秋山参謀も頭がいいけど、彼の場合は直感的ひらめきよるものだけど、藤井大佐の場合はサイエンスだったのね。そして、東郷司令はついに"良く分った、ここで待とう"と言ったの。そうしたら、何と27日の未明、哨戒中の信濃丸から有名な「敵艦見ユ」の無電が飛び込んできたのね。
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