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from: エリスさん
2007年04月11日 14時12分13秒
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露ひかる紫陽花の想い出・2
ちょうどそこへ、彩霞の乳母・少将の君が、童女(めのわらわ)として仕えている娘の桜子(五歳)と一緒に、回廊を歩いて来たところだった。これから休暇を取って
ちょうどそこへ、彩霞の乳母・少将の君が、童女(めのわらわ)として仕えている娘の桜子(五歳)と一緒に、回廊を歩いて来たところだった。これから休暇を取って夫の家に帰ることになっていたので、奥方の二品の宮に挨拶をするためである。
「きっと飼い主がそうだからだね」
彩霞は言った。「うちの父君様も母君様だけを妻にしているものね。普通の男の人は、何人もの妻を持っているのでしょ。私も父君様みたいに、一人の人を大切に守ってくれる人と夫婦になるんだ」
「荻も!」
二品の宮は何も言わず――言えずに、微笑みだけを返した。その時、少将に気づいた。
「乳母(めのと)の少将、挨拶に来てくれたの?」
「はい、宮様。今日より十日ほど娘ともどもお暇をいただきます」
少将が言うと、彩霞は「十日もいないの?」と寂しそうに言った。
「すみません、姫君。でも夫の家にいる子供たちも心配なので、ほんのしばらく――あっという間でございますよ。すぐに帰って参りますからね」
「彩霞、駄々をこねてはいけませんよ。乳母だってお休みしたいときはあるし、桜子もお父様に会いたいでしょうからね」
「うん……じゃあ、お迎えが来るまで、一緒に子猫見てようよ、桜子」
「はい、姫様」
桜子は庭への階段を降りていき、姫君たちと一緒に子猫と遊び始めた。
その間に、宮は少将を部屋の中へ促した。
「今のうちに、東の対にも挨拶をしていらっしゃいな」
宮は姫君達の様子を伺い見てから、少将に言った。「蔵人(くらうど 少将の夫)が来たら、直接そちらへ行かせるわ」
「では、お言葉に甘えまして」
少将は部屋伝いに、寝殿を抜けて、渡殿(わたどの)を渡って、東の対へと行った。
東の対へ行くと、庭に紫陽花が咲いていた。紫色と青色と桃色と……。色鮮やかに咲き誇っているように咲いている。――少将はそれを見ると、ニコッと微笑んだ。
「もう、そんな季節なのね」
あの人と初めて会った時も、あの御方の寝殿には紫陽花が咲いていた。
『そのおかげで、私は……』
そう思いながら、少将は部屋の中へと入っていった。
そこには、誰も住んではいなかった。
だが、今にも人が現れそうなほど、部屋の中は整えられている。――鏡、香炉、扇、机、脇息、几帳、衝立障子、そして和琴。
中央には、女物の藤色の表着(うわぎ)が袖を広げて掛けられていた。少将はその表着の前に腰をおろした。
「檀那様、これよりお暇をいただきます。でも、すぐに戻って参りますわ。それまで、姫君のこと、守っていていただけますか?」
藤色の表着は、無言の返事をした。
少将はまた立ち上がると、表着のすぐ傍まで寄った。
表着の袖を手に取る――そっと、少将は頬を寄せていた。
「……お嬢様……」
――あれから何年たったのだろう。遥か昔のようであり、ほんの一瞬前の出来事だったようにも思う。
少将はこの屋敷に上がる前、他の女人に仕えていた。
歴代の典侍(ないしのすけ)の中でも特に才女と讃えられた女人・彩の典侍(あや の すけ)――藤原刀自子(ふじわら の とじこ)。
『私にとって、掛け替えのないほど大事な人だと思い知らされたのも……やっぱり、あの頃だわ』
自分が十七、彩の君が十八の時。ともに四条で生活していた頃だった。
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from: エリスさん
2007年10月19日 15時57分00秒
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「露ひかる紫陽花の想い出・56」
最 終 章
「お嬢様が典侍(ないしのすけ)として内裏に上がられたのは、その年の秋でございましたね」
彩の形見の藤色の表着を前にしながら、少将は独り言をつぶやいた――三条邸、東の対。
尚侍(ないしのかみ)となった薫が内裏で左大将と結婚し、彼女を補佐する者が必要となったため、右大臣の働きがけで彩の典侍就任が決まったのは、彩が十八歳の秋のことだった。彩が内裏に住まうことになり、右大臣の選んでくれた大勢の女房のの中に少将や石楠花も加わって、今までにない華やかな世界に、彩は導かれていった。が、妬みや嫉みも少なからず負うことになるのである。
「私に対する嫌がらせなど、お嬢様のに較べたら大したこともありませんでしたけど」
彩の家柄や容貌がどの女官よりも劣ると言って、彩よりも下位の女官たちはだいぶ僻んだものだった。それでも、少しずつ彼女の人柄に触れて和らいでいき、彼女が典侍ほ辞すときには誰もが惜しむ存在になっていた。
少将への嫌がらせはこれに較べると可愛いものである。彼女は容貌が可愛い上に性格もよく、仕事もてきぱきとこなし、誰よりも彩に信頼されているので、右大臣の世話で来た女房たちがやっかんできた。とは言っても、欠点の見つからない相手を直接悪く言うこともできず、そのネタは専ら夫の少尉のことになった。
「典侍様の一番そばに居る女房の背の君(夫のこと)が、たかが正七位なんてね」
という具合に。
四条邸から来た女房だったら少尉がまだ十二歳でこれから出世できるのだと分かっているのだが、右大臣の世話で来た者たちはまさかそうとは思わず、少将が十七歳だから相手もそれぐらいか二十歳前後と決め込んで、それならば官位も五位かせめて六位があたりまえだと思っていたのだ。本人が昼間に少将を訪ねてきても「代わりに手紙を届けに来た弟かなにか」だと考えていたのである。
石楠花たちも教えてやれば良いのに、本当のことが分かったときの彼女たちの驚きが見物だろうから、と逆に笑ってみていた――確かに、何もかも知った彼女たちの驚きといったらなかったが。
「内裏にいた頃が一番お嬢様――いえ、檀那様が輝いていらしたのじゃないかと思いますわ。辛いことも多くありましたけど」
彩が典侍になることが決まって、もう子供扱いはよしましょう、との乳母の尼君の言葉によって、それまで彩のことを「お嬢様」と呼んでいたが(父親が三位で母親が王族なのだから、本来なら「お姫様」でもいいのだが、源氏の邸に行儀見習いに上がっていたころ「源氏の姫君方と同等に呼ばれるわけにはいかないから」と彩が憚ったので、この呼び方が定着していた)、その日から広い意味のある「檀那様」と呼ぶようになった。だが、少将のような幼い頃からの女房たちはつい昔通り呼んでしまうことがあって、そのたびに笑いが起きていた。
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