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2009年12月23日 13時43分10秒
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日本周遊紀行(43)寿都 「弁慶岬」
弁慶岬に立つ「弁慶像」
日本周遊紀行(43)寿都 「弁慶岬」
北海道で本州側に細長く延びた半島を「渡島半島」(おしまはんとう)といい、一般には寿都から長万部を結ぶ黒松内低地以南の地域を指すのであろう。
その先端南部は二つに分かれ、日本海に面する方を松前半島、太平洋が亀田半島と称しているが、こちらは余り一般的な名称ではないらしい。
地図を観ても凡その見当は付くが、この半島は道内の各所に観られるような原野や平原、湿原といった平坦な地域は殆ど見当たらず、急峻な山地帯が一体を占めている様である。
特に半島の日本海に面する北西部の海岸線(30〜40km)は、奇岩や岩礁が連なる山岳地帯となっている。
大成町辺りの海岸のすぐ横には標高816mの「毛無山」が聳え、その山塊が日本海に断崖となって崩(なだれ)れ落ちている。
この地が、北海道最西端の地といわれる「尾花岬」である。
北海道最南端の地「白神岬」でも述べたが、北海道の沿岸周を巡っている小生にとっては是非訪れて見たい地であるが、急峻な山岳地と海岸が一体となっている地域で、残念ながらまだ道路も開通していない様で、従って、訪れるのは無理なようである。
この辺りは、「日本の秘境100選」にも選ばれている辺境の地なのである。
因みに、北海道で100選に選ばれている地域は、知床やサロベツ原野など11ヶ所におよぶらしい。
その渡島半島の付け根に当る「寿都」(すっつ)へ達した。
この地は、北に向って鋭角に尖った岬が在り「弁慶岬」という。
その一角の大きな台座の上に、長刀を持つ堂々とした「武蔵坊弁慶」の像が、仁王立ちならぬ弁慶立ちで立っていた。
一般にも北海道には魅力的な「岬」が多いようで、外周旅行を実行している小生にとっては謂わば通り道のようであり、楽しみの一つでもある。
銅像は寿都町が岬を公園として整備し建てたものらしく、台座に刻まれた「想望」の文字は、北の大地を駆け抜け、悲劇的な最後を遂げた義経・弁慶一行の思いを伝えているという。
ただ、岬の弁慶像を観光の目玉にしたつもりであろうが、今のところ人気の気配は余り無いという・・?。
広々とした駐車場いっぱいに、サブちゃんの「弁慶岬」という歌がスピーカーから流れていで、町を挙げて義経伝説に彩りを添えているのは理解できるが。
その銅像の武蔵坊弁慶は、海を見ている・・、
毎日、岬の先に立ち、義経再挙の兵を乗せた船団が沖に現れるのを待ったのであろうか・・?。
仁王立ちで同志を待つ弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、いつしか岬を弁慶岬と呼ぶようになったという。
チョット、関連するかもしれないが・・、
これより先、寿都湾に面した歌棄(うたすつ)地区に、佐藤家が明治初期に建てたという漁家建築の代表的な大屋敷「鰊御殿」が海に向って建っている。
佐藤家は、義経の家臣・佐藤継信の末裔といわれ、現在でも人が住んでいてニシン場時代の資料館にもなっている。
幕末の1850年代初頭に歌棄、磯谷二場所の場所請負人(指定された区画、区域が「場所」であり、その交易権(生産行為も含めて)を委託された者を「場所請負人」とよんでいる。)を勤め、維新後は駅逓(郵便)取扱人を命ぜらるなど、同地方随一の名家といわれる。
積丹半島の開発および漁法改良に尽力した人物であり、開発功労者として著名であるらしい。
この佐藤家は、義経の家臣・佐藤継信(さとうつねのぶ)の末裔といわれる。
継信は平安時代末期の武将で、源義経の家臣・義経四天王(佐藤継信・忠信兄弟、鎌田盛政・光政兄弟=義経の父・義朝の家臣の子)に数えられる。
2005年に放送されたNHK大河ドラマの「義経」でもお馴染みであろうが、「佐藤兄弟」(忠信:海東健 、継信:宮内敦士が演じている)は元々奥州藤原家(藤原秀衡)の家臣であった。
1180年、義経は、関東・鎌倉において実兄・源頼朝の挙兵を知り、奥州より加勢に向かおうとした際、秀衡の推挙によって義経の側近として兄弟共に平氏追討軍に加わるのである。
1185年、「屋島の戦い」において、強弓で知られた平教経が義経を狙って放った矢を、継信が一身で受け戦死する。
継信の死を悼んだ義経は、懇(ねんごろに)ろに供養を行ったという。
因みに、弟の忠信は、平家が滅亡する「壇ノ浦の合戦」まで戦い抜く。
戦後、義経が兄・頼朝と不和になり鎌倉に入れず吉野に逃れた際もそれに従い、義経を頼朝が差し向けた追っ手から逃すために相手に単身で切り込み、義経を逃れさせた後、自ら京の義経の館に戻って北条時政の軍と戦い、そこで自害している。
弁慶といい、佐藤兄弟といい、いずれも義経の経緯伝説から発しているが、この辺鄙な田舎町に如何にして佐藤継信の子孫が移り住んだか・・?、
その史的経緯はともかく、このような伝説が残っていること事態に、あらためて歴史のロマンを感ずるのである。
「義経蝦夷渡来伝説」は各地に存在するが、義経と共に戦って敗れた落ち武者が、この地に土着したことには頷けるのである。
さて「弁慶岬」であるが・・、
津軽海峡を渡って北上した義経一行が、弁慶の舎弟・常陸坊海尊が率いる船団を待ち受けた場所とも言われている。
江戸時代の蝦夷地探検家・松浦武四郎の「西蝦夷日誌」には・・、
『 近くに小山があり、義経卿此処(ここ)より見給いし 』と記されているとか。
寿都町で毎年夏に開催される「寿都湾弁慶祭り」では、かがり火をたいた義経・弁慶の一行が町を練り歩き、羽織はかま姿の町長と口上を交わす儀式が催されるという。
役場近くには、長さ約90センチの弁慶ゲタが奉納されていて、合わせて弁慶堂が建っているという。
『弁慶岬』 唄・北島三朗
海は朝やけ 男の大地
いのちはぐくむ 日本海
夜明け間近の 寿都湾
金波銀波の 輝く海原に
道をつくって 船がゆく
無事を見守れ 弁慶岬
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2009年12月22日 13時57分44秒
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日本周遊紀行(42)奥尻島 「あの時の記憶・・!」
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日本周遊紀行(42)奥尻島 「あの時の記憶・・!」
国道228号線の「江差ソーランライン」の海岸線を北上するにしたがって、沖合いに横たわっていた。
あの「奥尻島」が次第に近づいてくる。
奥尻島へは江差の港からもフェリーで乗り付けることができるらしいが、1日1便と数は少ない。
「奥尻島」について・・、
この島の南西部の青苗地区はかって、1993年(平成5年)7月12日に起こった「北海道南西沖地震」の主要地である。
その中心部は津波の被害を受け、200人あまりの死者を出した地域であるのは周知である。
その後、防波堤などの大規模な津波対策がなされ、特に、その後に発生した「スマトラ沖地震」を参考に、島における津波対策の先進地ということで、各国の防災担当者から注目をあびることにもなったという。
1993年7月12日22時17分頃、北海道南西沖、奥尻島近くの日本海海底でマグニチュード7.8の地震が発生した。
震源の深さは約3kmで小樽市、寿都町、江差町、青森県深浦町で震度5を観測した。
奥尻島には当時地震計が設置されていなかったが、被害状況から震度6と推定されている。
そして、地震発生数分後に「大津波」が発生したのである。
あの日のこの頃、小生は既に布団に入り、見ていたTVも消してオフタイマーのラジオを聴きながら寝に付こうとしていた。
ボンヤリ聞き入っていたラジオから突然、NHKの定時番組が切り替わり、臨時放送を流し始まったのである。
始めの地震情報からすぐに津波の状況を伝えていて、次第にその様子が明らかに成るに従って、小生の聞く耳は緊張を強いられ、眠気をスットばしたのであった。
特に、当地に偶々(たまたま)宿泊していた、ある報道カメラマンの体験談話は、その恐怖と安堵感が迫真に迫るものがあった。
この夜、小生は殆ど寝ずに聞き入っていたが、うたたね同様の、短時間の浅い睡眠で翌朝目が覚めると、今度はTV映像が津波で襲われた地域が大火事になって燃え盛っているのであった。
そんなあの日の事が思い起こせるのであった。
これは余分だが・・、<br>
やはり、同じ時刻同じ状態で、2002年9月11の夜を思い出すのである。
ニューヨーク発であったが、11日夜、同時多発テロが米国を襲い、ニューヨーク市のWTC(世界貿易センタービル)が破壊され、ワシントンの米国防総省の本部(ペンタゴン)も損害を受けたときである。
ニューヨークでは数千人が命を落としたとみられ、犠牲者数を約1万人とする報道もあったのであるが。
「奥尻島」の事である・・、<br>
地震の後の、それに伴う津波によって、死者行方不明231人、負傷者305人、家屋全半壊流失937軒にも及ぶ大きな被害を出した。
地震発生後、津波は地震発生後の約5分後に奥尻島の海岸を襲い、最高で西海岸・藻内地区の背後の谷筋にそって海抜30.6mの地点まで海水が上昇したという。
この時、22時22分に札幌管区気象台から大津波警報が発令された時にはすでに到達後であった。
島南端の砂州の上に広がる青苗の最南部市街地の「青苗五区」では、第一波が西からの直撃波として押し寄せ、全戸が完全流失し、ここで70名の死者を出した。
奥尻島の最南端の青苗岬のすぐ沖合海域を東に向かって回り込んだ津波は、本震発生の7分後、背後に当たる島の南部、初松前集落付近に集中して、ここで13.2mもの海面高を示したとされる。
人口80人の初松前は全戸流失して32人もの死者を出した。
本震発生後16分ほどして海水は、市街地北側防波堤の付け根の隙間から市街地の北部に浸入して、市街地のなかに強い南下流をつくった。
木造家屋の柱や屋根材、家具などはこの南下する強い流れに運ばれ、南側防波堤の付け根付近で海に投げ出された。
津波の翌日に撮影された航空写真には、市街地を薙払った海水の強い南下流の存在を示す、内港の水面をびっしりと覆った木片の浮遊が見られた。
南端の青苗岬では2m以上の波が1時間に13回も観測されていたという。
又、北海道・本島でも大規模な津波が観測されており、島牧村栄磯では7.5mの高さまで津波が到達し、又、ここ北檜山町・瀬棚町・大成町(現せたな町)などでも死者を出していた。
津波で壊滅的打撃を受けた青苗地区では、12日22時40分頃、翌13日0時30分頃と相次いで火災が発生した。
津波で倒れたホームタンクからの灯油漏れ、道路寸断により他地区から消防車の応援を得られなかったなどの要因により火は燃え広がった。
鎮火に至ったのは最初の出火から11時間後で、延焼面積は約5ha、焼失は190棟に及んだ。 だが、火災を直接の原因とする死者はなかったようである。
奥尻島は、一見フラットに見えるが、島の中心部から南西部よりの位置に、島内最高峰の神威山(標高584m)が立ち上がっている。
奥尻島の主な目玉は、漁業および観光で、特に夏場はとれたてのウニやイカが絶品という。
特にウニは特産らしく青苗地区の浜には、「ムラサキウニ」をモチーフにしたマスコットキャラクターの「ウニマル」が立つという。
又、同地区に奥尻島津波館が建ち、津波慰霊碑が立つ。
次回は「寿都」
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2009年12月21日 14時28分42秒
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日本周遊紀行(41)江差 「鰊と追分と開陽丸」
姥神大神宮と復元された開陽丸
日本周遊紀行(41)江差 「鰊と追分と開陽丸」
国道228号線を別名「江差ソーランライン」とも呼んでいる。
鰊と民謡の「江差」に到った。
『 江差の町を 何かと問えば
昔は鰊で今追分か 中を取り持つ開陽丸 』・・小生
蝦夷・北海道で唯一藩の「松前藩」は万石挌の大名であった。
普通、石高というのは耕地面積、つまり米の収穫高で決まったが、山が迫り北国の蝦夷地・松前藩はその米が無かった。
藩は、蝦夷との交易や漁業(主に鰊)に依って経済収入を得ていた、それは鰊に伴う運上金(税金)のことで、特に江差から吸い上げた額は莫大であったという。
江差には藩の奉行所が置かれていたが、役人が在住するのはニシンが水揚げされる時だけとも云われた。
『 江差の五月は 江戸にもない 』
江差の五月は、ニシンが海上を泡たつように群れをなしてやって来る。
この時の賑わいは「江戸の街」以上のモノがあったという。
湾形に恵まれた江差は、時期になるとニシンが獲れに獲れて、「北海道一景気のいい町」と言われた時期も有った。
江差の浜に姥神町があり、「姥神大神宮」が祀られている。
松前地はもとより蝦夷地の一宮として、代々の藩主、領民の尊崇を集め、藩主の巡国の折には、かならず参殿して藩の隆盛、大漁、五穀豊穣を祈願する祈願所となっていた。
昔、江差の村に姥神という老婆が現れて・・、
「 この村に、ニシンという小さなサカナが打ち寄せるだろう。毎年、これを捕って暮らしたらよかろう 」と告げ、
なお「 網の大きさは、高さが五尺三寸(約1m59cm)目の数は63だよ 」といい、老婆はこれを固く守るようにと村人に言い渡して姿を消した。
江差の浜は、やがてニシンで満ちあふれ、村は豊かになった。
しかし、欲に目のくらんだ人々はいつしかこれを忘れて、大きな網で漁をするようになった。
それは明治の初めの頃だといい、この頃からニシンが次第に捕れなくなり、それは、老婆の言い付けを守らなくなったからと、信じる人が今もいるという。
その後漁民は、大網禁止を藩に直訴する騒ぎや、次々と大網を切る網切り事件も起きた、これを「檜山騒動」ともいう。
こんな騒ぎで、江差の浜は無人の浜になろうとしていた。
こんな中、10年ぶりにニシンが押し寄せてきたのである。
だが江差の浜にはすでに漁民がおらず、いても漁具が無く、ただ地団駄を踏みつつ巨万の富が去るのを眺めるしかなかったという。
その後、大正2年にもう一度ニシンが姿を見せたが、現在に至るまでニシンは完全に幻の魚になってしまったという。
姥神のお告げを無視した漁民は、自らその過ちのド壷に嵌っってしまったのであり、その教訓のためにも「姥神大神宮」が祀られているという。
16世紀頃から始まったといわれるニシン漁は、昭和30年代に終幕を告げた・・が、「江差追分」が江差に残った。
普通「追分」とは信州追分のことで、今の信州・小諸付近である。
ここは中山道が北国街道へ通ずる分岐点でもあって、 追分節の発祥「信濃追分」が北国街道の越後から北前船に乗って、松前や江差にやって来たといわれる。
これが「江差追分」の原点といわれる。
鰊漁で賑わう江差の番屋の宴会の席で、信濃の国からニシン漁の出稼ぎに来た人達が、故郷を想いながら唄う信濃追分に、一座の人は同様に郷愁を感じたのに違いない。
追分節は江差に馴染んだのである。
江差追分は今では日本を代表する民謡に発展し、今では「追分節」の中心挌になっている。
ともあれ、江差の風土にとけこみ、幾度もの変化をとげてきた追分節は、北前船が消えて、ニシンの大群が去っても人々の心に残り受け継がれた。
神宮大祭の「姥神祭」では今も祭りの前夜に江差追分が奉納されているという。
さらに近代では、独特の深い哀調や奥の深さから、江差だけでなく全国の民謡愛好家に歌われるようになった。
恒例の全国の大会もこの地で行われ、隆盛を極めているとか。
『江差追分』 北海道民謡
かもめの鳴く音に 江差の五月は 松前江差の
ふと目をさまし 江戸にもないと かもめの島は
あれが蝦夷地の 誇る鰊の 地からはえたか
山かいな 春の海 浮き島か
忍路高島 沖を眺めて 板一枚下が
およびもないが ホロリと涙 地獄のアノ船
せめて歌棄 空飛ぶ鴎が よりも下の二枚が
磯谷まで 懐かしや おそろしや
「忍路高島(おしょろたかしま)及びもないが せめて歌棄(うたすつ)磯谷(いそや)まで」と、江差追分の数ある歌詞の中で良く唄われている。
「忍路そして高島」は、積丹半島基部・余市に忍路があり、小樽市市街に高島、高島岬がある。
又、歌棄、磯谷は渡島半島の付け根、寿都町にある。
積丹半島の先端には神威岬があり、昔はこの岬から北へは女人禁制で、女性は入ることが出来なかったという。
岬を越えて恋しい人を追っていくことが出来ないので、せめて江差から忍路・高島の中間点の歌棄、磯谷までは参ろう、と歌っているのである。
江差の町入ると左に近代的な港湾が広がり、そこに資料館と大きな帆船が浮かんでいた。
「開陽丸」(復元された)である。
先刻の北海道を襲った台風18号の影響で部分的に被害を受け、見学乗船は出来なかったのが残念であった。
江戸幕府が、オランダに依頼して建造した最新鋭の大型軍艦「開陽丸」が横浜へ入港したのは、1867年3月である。
操艦したのは榎本釜次郎(武揚)が後の艦長になっている。
京の鳥羽・伏見の戦で幕府側は敗れ、当時の将軍・徳川慶喜は大阪よりこの開陽丸で江戸へ敗走している。
その後の江戸から東北の戦・「戊辰戦争」でも幕府軍は敗れる。
幕臣だった榎本は開陽丸、他数隻を率いて、蝦夷地に独立国を造るべく箱館へ向かった。
仙台より土方歳三以下陸兵を満載した船は函館へ上陸、そして五稜郭を落とす。
その後松前方面へ進撃して松前城を攻略する、この時の指揮官は土方である。
そして最後の砦となったのが江差であった。
榎本は土方と謀って、海からも攻めるべく開陽丸を江差え差し向ける、榎本はすぐ沖に開陽丸を停泊させて上陸した。
この時期11月(今の12月)であった。
その時から天候が急変し猛烈な吹雪になる。
操舵の甲斐も無く、一発の砲弾を撃ち込む事も無く、開陽丸は沈没してしまうのである。
それから幾星霜、昭和50年頃から、開陽丸調査発掘が行はれ、引揚げた遺物は2万点を超え、砲弾だけでも30トン・900発という。
因みにこの水面下一帯は「文化財埋蔵地域」になり、海底の開陽丸は文化財になっているという。
次回、奥尻島
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2009年12月20日 10時36分58秒
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日本周遊紀行(40)松前 「蝦夷・松前藩」
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函館戦争図と復元された松前城・二の門(資料)
日本周遊紀行(40)松前 「蝦夷・松前藩」
引き続き「松前」で・・、
蝦夷・北海道唯一の「松前藩」について述べたい。
中世、鎌倉から室町期にかけて、津軽地方は安東氏(平安期の安倍氏の出身)の支配下にあった。
特に、安東氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代を通して、津軽半島の「十三湊」を本拠地とし栄えていた。(十三湖・十三湊の項で前述)
十三湊を根拠としたのは、水運、海運に利があったとされ、船を縦横に操る安東氏にとって、蝦夷地・松前(当時は福山)などは隣の町へ行くようなものであったろう・・?。
松前と津軽の竜飛の間は、僅か20kmに満たないのである。
中世、源頼朝が奥州・藤原氏を滅ぼした後は、津軽地方は出羽国より陸奥国に移され,北海道も陸奥の管轄に入ることになった。
その頃、津軽の安東氏は,鎌倉執権・北条義時により蝦夷管領を命ぜられている。
しかし、南部氏の台頭によりその領域を奪われ、15世紀半ばごろには安東氏は蝦夷島へ逃れてくる。
一方、南部氏の重臣だった蠣崎氏(かきざきし)が反乱を起こし、それに失敗して蝦夷島へ脱出している。
当時、蝦夷支配権はいまだ安東氏が確保していたが、アイヌとの「コシャマインの戦い」などを契機として蠣崎氏が台頭し、16世紀はじめには安東一門としての蝦夷島の代官となった。「蠣崎氏」は、若狭の国の武田氏の流れをくむという。
若狭守護・武田氏の嫡子として誕生した「武田信広」であるが、21歳の若さで出奔し、南部・三戸の南部氏の元へ移っていったといわれる。
南部氏は、元より甲斐の武田の出身で、云わば同族のよしみでもあった。
その後、南部家の領分から知行を許され、蠣崎・武田氏を名乗るようになった。
戦国末期、関白・豊臣秀吉に朝鮮出兵時の本拠・肥前名護屋で面会し、蝦夷地支配の朱印状を与えられ、蛎崎氏は名実共に蝦夷地の領主として安東氏から独立した。
次に、天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸に徳川幕府を開いている。
この時期、東軍、徳川軍に臣従していた蛎崎氏は、徳川家康からも安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、徴役権、交易の独占権を得て、日本最北の藩・松前藩を成立させてて、同時に松前氏を名乗っている。
当時、この辺りはアイヌ語では「マトマ・イ」とよばれていたので、松前になったとされている。
幕藩体制下の松前氏は、蝦夷島の主としての客臣扱いで、格付けは一万石相当の「柳間詰め」(大広間は入れない大名席)といわれる大名であった。
ただ、当時の北海道では米がとれなかったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格にすぎないが。
この時期、安政元年・1854に、日本最北・蝦夷地随一の和式三層の城郭が出来上がる。
ロシアの脅威やアイヌに対する警備のために、必要性が幕府に認められたための松前城であった。
本格築城としてはわが国では最後の築城であるとのこと。
松前藩領は蝦夷地全域とされているが、実効支配していたのは渡島半島のみで、それ以外の領域は放置も同然であった。
藩の知行制度も、他藩と全く違う制度をとっていた。
米の生産がないので土地を与えても意味がないためで、「商場知行制」という商い方式を採用していた。
特定の区域のアイヌとの交易権を与えるというやり方で、藩士はその地域に赴き、アイヌと実際に交易を行い利益を得ていた様である。
時代が進んでくると商人に交易の全権を委ねて、商人に対する手数料を除いたアガリを得る方法に変わり、又、後には、「場所請負制」に変わっている。
つまり蝦夷地全域の交易権を有力な商人に全権委任し、毎年多額の運上金(税金に相当)を徴収するのである。
場所請負制の代表的な商人として、「国後・目梨(クナシリ・メナシ)の蜂起」の原因を作った「飛騨屋」がいた。(根室の項で記載予定)
しかし、領土の上知(あがりち:幕府や藩に没収された土地)や箱館の繁栄のせいで、松前藩の経済状態は奮わず、藩士も城下の民も苦しいものには違いなかった。
下って、戊辰戦争では、箱館戦争の一環として松前城で旧幕府軍と戦って敗戦の憂き目をみている。
その後、お城は奪還したが、明治期、版籍奉還や廃藩置県で社会体制が変化、その後の松前藩は明治期には館藩と称し、ほんの一時、館県と称し、ついで約1年の青森県管轄を経て開拓使所管に入った。
正確な行政区は松前藩、館藩、館県、弘前県、青森県、青森県松前出張所、開拓使函館支庁へと、明治2年より5年の間にこれだけの行政上の地域名が変化している。
お城の奥まったところに郷土資料館が在り、他に藩屋敷や大館跡、松前家墓所等があり、松前はやはり歴史の街であることを実感する。
松前城を出て振り返ると、丘の上の天守閣がハッキリ望めた。
成る程、この状態だと艦砲射撃の餌食になりやすい・・、納得である。
城郭に”サヨナラ”と言って先へ進む。
次回、「江差」
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2009年12月19日 14時05分53秒
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日本周遊紀行(39)松前 「松前城と永倉新八」
松前城の天主閣に本丸御門
日本周遊紀行(39)松前 「松前城と永倉新八」
渡島半島の先端、北海道最南端の岬は「白神岬」である。
案内看板に近寄ってみたが、北海道の記念すべき「南端の地域」にしてはサッパリしたもんであった。
この白神岬は、昔は断崖がせまる急峻な山岳地帯であり、人を寄せ付けない所であった。
松前・函館を往来する「松前街道」はこの山中に在り車馬、人足、旅人等は脚を棒にして急坂の峠道を登り降りした。
しかし暖かく、天気晴朗、波静かな時は、白神山道の急峻な道を避け、この地の「白神岬」の海岸の道のない波打ち際を歩いたらしい。
だが、この沿岸も崖が海に迫っていて、満ち潮の時などは、どうしても海中徒歩を余儀なくされ、この時ばかりは男も女も荷物を頭にのせて裾をたくし上げ、ほぼ素っ裸で歩いたそうである。
「松前」の家並みも、すぐそこに見えていた。
松前は、松前半島の突端にある日本最北の城下町である。
車だと函館から約2時間前後の距離だろうか、しかし、往時は、はるか遠い道のりであった。
松前町に入り、商店街の道を進むと、松前城の天守閣が鮮明に目に飛び込んでくる。
15〜16世紀に開かれたという寺院も多く、一見歴史の浅いと思われる北海道の中で、松前藩は中世から江戸時代を生きてきた特異な存在となっていることが判る。
御城を覗いて見ると、白亜の三層の天守閣が天に聳えている。その横に大手門(本丸御門)が構え、城内や城の背景に広がる静かな寺町は、春には一面の桜花で覆われる桜の名所でもある。
城門の手前に「土方才三も上った坂」と記した看板が有り、この看板に合わせて京都・池田屋事件で活躍した「永倉新八は元松前藩士」ともあった。
「永倉新八」は、新撰組の幹部として活躍、激動の幕末・明治・大正を生き抜き、77歳で天寿をまっとうしている。
新八は後に回想録「新撰組顛末記」などを著作し、史的資料としても貴重な書といわれている。
つい最近の2004年度、NHK大河ドラマ「新選組!」が放送されたが、「永倉新八」役にコマーシャルでもお馴染みな「グッさん」、こと山口智充が中々のはまり役であった。
近藤勇や土方歳三の後ろに居て、やや影の薄い新八であるが、剣の腕は、「一に永倉、二に沖田、三に斎藤一」ともいわれた程だったといわれる。
「永倉新八」は、松前藩・江戸上屋敷で藩士の子として生まれている。
神道無念流剣術道場に通い、18歳で元服し新八と名乗る。
後、脱藩して剣術修行しながら、天然理心流の近藤勇に食客として入門する。
新撰組結盟以来の中核をなす隊士で2番隊組長を務め、1864年の「池田屋事件」では、近藤勇、沖田総司らと共に奮戦する。
沖田が倒れ、藤堂平助が負傷する中、永倉は獅子奮迅の働きをみせた。
又、京都の鳥羽伏見の戦いでは、決死隊を募り官軍の銃弾に対して刀一つで突撃する豪胆さも見せている。
戊辰戦争では各地を転戦するが、会津藩の降伏を知り、その後江戸から松前藩への帰藩が許され保護されてる。
その後は藩医の杉村介庵の婿養子となり北海道に渡る。
明治初年、家督を継いで杉村治備(のち義衛)と名乗り、樺戸集治監(当時は日本国)の剣術師範に招かれ19年間その職に当っている。
晩年は小樽で過ごしているが、盟友・土方歳三にとって北海道は最期の戦いの舞台となったが、新八にとっては長らえて蝦夷地が生涯に場所となった。
小樽の家では近藤勇と土方歳三の写真に、毎日のように手を合せていたという。
松前藩は箱館戦争では新政府軍側、永倉個人は旧幕府軍という相反する微妙な立場にいて、松前では生きにくい面もあったのだろう。
松前から小樽は遠く、藩のしがらみの薄い漁師や商人の町の小樽で、同士たちに思いを馳せながら余生を送ったのかもしれない。
維新後、数少ない新選組幹部の生き残りとして、板橋に近藤勇、土方歳三の墓を建立している。
大正4年1月5日、小樽市にて死去、享年76の生涯であった。
新八の遺骨は、小樽と札幌の杉村家の墓と、新選組慰霊碑の立つ東京・板橋の墓に分骨されているそうである。
近藤勇の眠る板橋に埋めて欲しいといのは新八の遺言でもあり、新選組隊士・永倉新八は北海道では家族とともに、東京では同士とともに眠っている
小樽でのエピソードの中・・、
或る時、孫を連れて縁日を散歩していると5、6人の若い男衆に絡まれた。
彼はその時、鋭い眼力だけで相手を退かせたという話もある。
「松前城」は、日本における最後の城郭である。
戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)と攻防を繰り広げ、落城させられたことでも有名である。
幕末の築城で、北の果てに位置するにも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験、展開しているのである。
明治元年(1868年)秋、蝦夷に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、渡島半島の各地を制圧し、11月5日には元新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。
松前藩の軍は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城している。
これは、函館湾からの旧幕府軍軍艦の艦砲射撃もさることながら、城の構えがあまりに脆いものであったためといわれる。
海からは軍艦・回天が、艦砲射撃で城を狙っていたが、城はすぐ間近に見え何の障害物もなく、砲撃には、まさに絶好のポジションだったという。
これらの弱点を土方軍によって巧みに衝かれた形となってしまった。
現在も石垣にこのときの弾痕がいくつも残っているという。
しかし、翌年には榎本らの暫定政権は新政府軍に降伏し、再び松前城は松前氏の領有となった。
明治4年(1871年)の廃藩置県の施行により、城は明治政府の領有となり、明治期の「廃城令」によって、明治8年(1875年)には天守など本丸の施設を除くほとんどの建築物が取り壊された。
現在のものは、昭和34年(1959年)から36年にかけ、松前城資料館として鉄筋コンクリート造で再建されている。
創建当時から現存する建築物としては、本丸御門と本丸表御殿玄関及び旧寺町御門(現在の阿吽寺の山門)のみであり、本丸御門については昭和25年(1950年)に国指定重要文化財に指定されている。
また、曲輪・石垣などもよく残っており、旧城地一帯が国指定史跡となっている。
現在の松前城は、春には道内有数の桜の名所として名高く、250種・8000本の桜がある。 4月下旬から5月中旬は桜が満開となり、道南の各地から大勢の見物人がおしよせるとか・・。
松前町は、北海道・渡島半島の最南端に位置し、西は日本海、南は津軽海峡に面し、後背は深い山地に囲まれている。
町並みは海岸に面して細長く延びていて、地柄としては発展性の乏しい町の様にも思える。 しかし、松山城をはじめ城下町は、400年以上の長い歴史をもち、全国、250以上の諸藩のある中、広い蝦夷地・北海道でも唯一の藩として存在感を示し認められてきた。
松前は本州・津軽に一番近い地域で、海峡を隔てて僅か20数キロである。
次回も引き続き「松前藩」
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日本周遊紀行(38)函館 「五稜郭と七重浜」
五稜郭城址の異形(下は一の橋)
日本周遊紀行(38)函館 「五稜郭と七重浜」
函館本線の始発駅函館から一つ目の駅・五稜郭駅から東方へ1km半ほど行ったところに
五稜郭公園があり、特異な形をした「五稜郭城址」が在る。
「五稜郭」は、稜堡(りょうほ:城壁・要塞の突角部、16〜18世紀、ヨーロッパで大砲による攻防に備えて発達、城全体は星形をなし、函館の五稜郭はその一種)と呼ばれる五つの突角を配し、文字通り星形の城郭である。
設計は幕府の蘭学者・武田斐三郎で、7年の歳月をかけ1864年にヨーロッパの城郭都市をモデルに竣工した日本で最初の西洋式城郭だという。
当初は外国の脅威に立ち向かうために築造が計画されたが、脅威が薄れていくとともに目的が国家の威信に取って変わり、函館開港時に箱館奉行所が置かれていた。
五稜郭は、慶応4(1868)年4月に大政奉還を経て明治政府へ引き継がれるまで、蝦夷地の中心として重要な役割を果たしたが、同年10月、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍により占拠され、「箱館戦争」の舞台となったのはご承知である。
後には陸軍省の管轄下に置かれ、陸軍の練兵場となり、勿論、当時は市民が立ち入ることはできなかった。
現在、公園として一般に開放されるようになったのは、大正2(1913)年以降のことらしい。
昨今、五稜郭築城百年を記念して展望タワーが建造され、高さは60mの展望台から五稜郭の美しい星型を見ることができる。
周囲は壕を巡らし、春には堀端に巡らされた桜の美しい名所でもある。
「五稜郭」は、戊辰戦争の最後の戦いの地として、大方は周知である。
慶応4(1868)年1月に勃発した「鳥羽伏見の戦い」に始った戊辰戦争は明治2(1869)年5月の「箱館戦争」の終結をもって最終的に終了する。
その最後の戦い箱館戦争は、この道南の各地を戦場に巻き込んでいった。
慶応4年8月、新政府の徳川家に対する処遇に不満を持つ旧幕府海軍副総裁・「榎本武揚」率いる艦隊が、東北諸藩救援、旧幕臣による蝦夷地開拓を目指し品川沖から脱走してきた。
また、旧幕府歩兵奉行・「大鳥圭介」率いる陸軍も江戸を脱走し東北へと向った。
圭介率いる隊と「土方歳三」率いる隊の二手に分かれ箱館を目指し、両隊は五稜郭を占拠し、軍艦、回天・蟠龍が箱館港に入港し、事実上箱館と五稜郭は旧幕府脱走軍の占領下となった。
その後、松前・福山城や厚沢の館城を制圧、江差沖での開陽丸の座礁等のアクシデントもあるが、旧幕府脱走軍は道南・蝦夷地を占領し、蝦夷地領有の独立宣言をする。
目的は新政府からの独立ではなく、名目上は政府下での徳川家による蝦夷地開拓だった。
旧幕軍はその後、開陽丸などを失ったため、宮古湾に停留する政府軍の軍艦・「鉄甲」(宮古の項で詳細後述)などの奪還の奇襲作戦を挙行するが、作戦は失敗する。
これより以降、旧幕軍の劣勢、即ち、新政府軍の攻勢が始まるのである。
新政府軍は4500名を以って青森港を出航、乙部(現、渡島半島乙部町)に上陸し、各地を転戦、奪還、占領している。
このため旧幕府脱走軍は箱館周辺を残すのみとなった。
新政府軍は有川(現上磯町)付近に滞陣し、青森からの補給を待ち箱館総攻撃の準備を整え、遂に1869年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始された。
有川を出発した陸軍は七重浜・桔梗・四稜郭に向い、海軍は甲鉄・春日等が弁天岬台場沖、七重浜沖、大森浜沖から陸軍を援護する。
さらに軍艦、豊安・飛龍に乗り込んだ奇襲部隊は箱館山裏手から市街を攻撃する。
たまらず箱館市街は新政府軍に制圧され、旧幕府軍は五稜郭・弁天岬台場・千代ケ岡陣屋を残すのみとなった。
かつて、京都警備を行った会津藩と薩摩藩を窓口に、降伏勧告交渉がはじまったが、榎本は降伏拒否の意志を伝える。
しかし、弁天岬台場が降伏し、千代ケ岡陣屋が制圧され、ついに降伏を決意する。
明治3(1870)年4月、「五稜郭」は明け渡され、戊辰戦争は各地を戦火に巻き込みながら箱館を最後に終結した。
北海道では箱館や松前などが大きな被害を受け、その復興には多くの時間と費用がかかったという。
新撰組以降の「土方歳三」後半生について・・、<br>
新撰組副隊長の土方歳三が戦死したとされる場所は、現在の函館駅近くの若松町辺りとされている。
敗走してくる仲間を率いて進軍させ、『我この柵にありて、退く者を斬る・・!』と発したという。
歳三は、一本木関門を守備し、七重浜より攻めくる新政府軍に応戦、馬上で指揮を執っていたが、その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。
函館戦争の旧幕府軍・榎本軍の幹部の中で、自ら死地前線に赴き戦死したのは「土方歳三」ただ一人であったという。
戊辰戦争も終盤の慶応4年8月、官軍は「会津」へ殺到、一か月に及ぶ籠城戦となった。
会津戦争では、歳三は母成峠の戦いに敗戦し、籠城に遅れた土方は開陽丸で北上してきた榎本武揚と共に仙台藩の青葉城に登城、列藩同盟の軍議に参加する。
この席上で土方歳三は、榎本に列藩同盟軍の総督に推薦されている。
この時土方は、『元より、死を覚悟の上ですので、各藩のご依頼は辞しませんが、三軍を指揮するには、軍令を厳としなければなりません。命令に背くものは斬らねばなりません。全将兵の生殺与奪の権を与えてくださるなら、お受けいたします・・!』ときっぱり答えている。
土方は、120人前後となった新選組と共に、榎本艦隊で仙台から蝦夷地へと向かった。
約2500名の脱走軍は函館城(五稜郭)に無血入城し、12月には蝦夷地平定を完了し、「蝦夷共和国政府」を樹立した。
土方は大鳥圭介に次ぐ陸軍No.2の陸軍奉行並に選出されている。
新撰組の京都時代は、短気な鬼の副長として知られ恐れられた土方であるが、この頃は人が変わったように温厚な人柄となっていたという。
土方は、現在の森町・鷲ノ木へ上陸した後、東海岸沿いの砂原、鹿部、南茅部から道道の83号線づたいに函館を目指し五稜郭に入った。
その後の戦歴は函館から、木古内、知内、福島から松前にいたり、松前城を落し、江差から熊石まで渡島半島の南端海岸線を巡っている。
土方は、新政府軍が函館総攻撃を開始する頃、敗色濃厚となっても新選組や前線兵士を救うため、わずか80人を従え騎馬で出陣していて、元より死を覚悟しての陣頭であった。
降伏戦死の後、土方の遺体は僚友・安富らにより五稜郭に運ばれ、埋葬されたという、享年35歳の若さであった。
話は変わりますが・・、
函館市西の郊外、函館湾に沿った浜を「七重浜」と云う。
小生が函館を訪れた今日は2004年9月25日である。
当たり前で別に変哲の無い事であるが・・!。
ただ、50年前の明日、つまり1954年9月26日、この場所で史上稀にみる大変な事が起きていたのである。
台風による国鉄客船「洞爺丸の遭難転覆事故」である・・!!。
走行中の車中のラジオで地元の放送局が、「洞爺丸遭難事故から50周年」という題材で、当時の放送記者だった某氏などより、取材当時の模様が語られていた。
小生は50年前は15才、中学三年生で、当時は未だテレビは無く、報道はラジオ・新聞だった。
このマスコミが大騒ぎで報じていたのを、今でも鮮明に覚えている。
この日洞爺丸は乗船乗客1300人あまりを乗せていた。
いちばん近い七重浜の海岸までわずか600mほどの至近距離 であったが、それでも、この、すさまじい台風(後日、洞爺丸台風と命名)のため洞爺丸は横転沈没し、多くの人が耐えきれずに 海底に沈み、生存者は僅かに150人だったという。
そしてこの地が、「七重浜」である。
遭難した死者が浮遊してこの浜に打ち上げられ、七重浜は阿鼻叫喚の凄惨な地獄の浜になったと言う。
タイタニック号に次ぐ史上第二位(当時)の海難事故といわれ、 この事故を契機に政府は莫大な予算を投じて、「青函トンネル」の建設を始めることになるのだが・・、
七重浜に向かって、南無阿弥陀仏・・!。
救難にあたった、ある自衛隊員の手記より・・、
『 私の命ぜられた作業は、砂浜に打ち上げられて海草やごみにまみれている遺体を探しだし、むしろを敷いたトラックの上に並べるというものでした。けれども我々隊員は、現場に到着した当初、あまりの惨状にショックを受け、足がすくみ動けなくなってしまいました。それを見た中隊長は、やにわに手にした指揮棒で我々を叩きまくり、速やかに作業するように命じたものでした。 6トントラックに日本人なら9〜10人、アメリカ人なら6人しか積めません。 仏様ですから、積み重ねるわけにはいきませんでした。七重浜から函館市内までの輸送時間は2時間程でしたが、遺体が多すぎて地元のお寺に収容しきれないため、やむなく函館と現地とのピストン輸送となりました。初めは動けなかった我々も、慣れるに従って、遺体をトラックに放りあげる様になりました。 なにしろ作業が多いので、自然と遺体も荷物扱いになってしまいました。ところが溺死体ですから、大変重いのです。そこで運んできた遺体を「ヨッコラショ」とかけ声もろ共放りあげたところ、現場に拝みに来ていた近所の人たちがそれを見ていて、エライご叱責を受け、閉口したのを覚えています。遺体は、苦しいのか両手を虚空をつかむ様に、もがくが如く握りしめていたり、眠るような子供だったりしたのが、今でも目に焼き付いております。人間の儚さ、脆さを、しみじみと思うばかりです・・、合掌 』。
因みに、この日、同じ北海道の「岩内」で、この台風の煽りを受けて、大火災が発生していた、これについては「岩内」の編で述べよう。
この遭難事件と岩内の大火を題材にした推理小説「飢餓海峡」(きがかいきょう)が、水上勉原作で著されている。
後に、同名小説を原作とする映画やテレビドラマのもなっている。
次回は「松前」(知内や福島は「温泉と観光」の項で述べます)
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2009年12月17日 13時39分33秒
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日本周遊紀行(37)函館 「函館開港」
【北海道・日本海道】 北海道(函館)⇒⇒⇒⇒北海道(稚内)
函館山の砂洲に出来た函館市街(函館山より)
日本周遊紀行(37)函館 「函館開港」
♪♪ はるばるきたぜ 函館へ
さか巻く波を のりこえて
・・・・♪♪
大間から船で函館へ向かうとき、蝦夷大陸の手前に気高く大きな島が見て取れる。
実は、これが「函館山」である。
船が次第に大陸に接近し西側を回る頃になると、この島が陸と繋がっている大陸の一部であることが判る。
「函館」の街は、函館山はとつながる陸繋島(砂州によって陸地とつながった島、潮岬・函館山など)である函館半島から、七重浜方面・亀田平野方面・横津岳山麓方面・湯の川方面に展開している。
函館は深い入り江のある扇を開いたような地形のため、俗に「巴港」とも呼ばれる天然の良港として栄えた。
市章にも「一つ巴」が採用されている。
北海道の表玄関として、まだ北海道が蝦夷地と呼ばれていた頃から漁業(港湾)、各地との貿易、海運によって発達した町で、江戸期には「高田屋嘉兵衛」が拠点とし、蝦夷交易の場として栄えた。
松前藩の役所が置かれ、蝦夷地が天領となると幕府の奉行所も置かれていた。
それ以前の函館は・・、<br>
中世室町期の15世紀、津軽半島に根拠をもっていた豪族・安東氏が南部氏に敗れ、安東政季に従って来た重臣・河野政通らが蝦夷地に渡来してきた。
当時「宇須岸(うすけし)」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたのが始まりとされてる。
「宇須岸(うすけし)」河野館」といわれ、現在の亀田地区・市立函館病院あたりで辺りで、この「河野館」を遠くから見ると「箱」に似ていたところから、「箱館」と呼ばれるようになり、地名発祥の基となったという。
16世紀初、アイヌを見張る前線基地であったが、その「アイヌの反攻」で一族が敗れたため、和人は亀田地区に移り、その後、箱館は以後100余年にわたって歴史の舞台から沈黙している。
明治の開拓時代・文明開化の明治2年、蝦夷地を「北海道」と改め、箱館を「函館」と改称されてから函館の近代史が始まる。
江戸末期、アメリカの使節ペリーが、軍艦4隻をひきいて浦賀(神奈川県)に入港し開国を要求するのは幕末の1853年である。
国内は、開国か鎖国かでゆれ動き、次の年の1854年ペリーが再び来航し、日米和親条約(神奈川条約)を結び、下田・函館の二港を開いてアメリカ船に食料や燃料を与える約束をする。
この時期幕府は、同時にロシア・イギリス・オランダとも和親条約を結んでいる。
これにより箱館は近代日本初の国際貿易港として世界に開かれ、この条約は日本初の不平等条約でもあったが、約300年も続いた幕府の鎖国政策は終わり、北方警備を目的とする箱館奉行所が置かれた。
ペリー艦隊が箱館港に入港した時は、24日間も滞在していたという。
開港の結果として、日本の他の地域に比べて、外国の影響を早くから受けることになり、函館は外国人の目に映った幕末・明治初期における日本の地方都市の一典型として、文筆やスケッチ、写真で数多くの記録が残ることになった。
ペリーは、外国人として歴史上最も早く港湾としての函館の優位性と重要性を認識し、かつ膨大な記録を残した人物でもあった。
彼が後年に編んだ「日本遠征記」は、相当の紙幅を費やして、それまで多くを語られることのなかった、日本中でも僻遠の地・蝦夷にあるこの港のことを、かなり具体的に描写している。
『 その入港し易いこととその安全さとに於いて世界最良の港の一つたる広い美しい箱館湾は、日本諸島をば蝦夷と日本とに分かっている津軽海峡の北側に横たわり、又日本本島の北東端尻屋崎と松前市との中間に横たわる。箱館湾は尻屋崎の西北二分の一西にあたり、距離は約45マイルで、入り口の幅は4マイル、奥に湾入すること5マイルである。』
ぺりーは、当時の欧米や世界へ発信できる、数少ない日本に関する情報源であった。
ペリーは、シーボルト著の「日本」やゴロウニン(ロシアの海軍士官、幕府は蝦夷地を荒らしたロシアへの報復として、海軍少佐ゴロウニンを拿捕した。
その時の記録が日本幽囚記である)の「日本幽囚記」なども熟読していたという。
又、英国から日本付近の海図を入手していて、米国の捕鯨船の停泊地としての地理的優位性として箱館が絶好の位置にあることを、あらかじめ了解していたようでもある。
本州北端の尻屋崎沖を回って津軽海峡へ入ってから、まずは屹立した山・函館山を独立した島と見ていて、その後、西側から回り込むにつれてその島が実は細長い地峡をもって背後の陸地と繋がっている様を実際に目の当たりにした時、ペリーと彼に随った乗員たちをある種の興奮が襲ったという。
当時の列強の海軍関係者が、等しく模範的な軍港と見做してきたヨーロッパのジブラルタル(イベリア半島の最南端に位置する。領域は半島になっており、地中海に面し、陸地側はスペインに接している)との類似が躊躇なく語られているのは、そうした最初の感動が多いにあずかったという。
「日本遠征記」は更に、『 同町は一千戸以上を擁し、その大部分は海岸付近に一本の本通りとなって続いているが、その他は平行した二三の街路を形成し、坂となって背後の丘を昇っている。艦隊内にあってジブラルタルを訪れたことのある程の者は悉く、その位地といい概観といい,函館がかの有名な軍港町と似ているので驚いた。孤立した丘があって、その麓や斜面には家屋が建っており、ジブラルタルの岩山のようであった。』とも記している。
しかし実際は、函館は軍港としての役は果たさなかった。
その代わり「商港」としての充分なほどの役目を成すのである。
欧米文化の影響を直接受け、町並みや建物に今もその面影をとどめ、特に函館西部地区の元町周辺は開港当時から栄えた所で、各国の様式を備えた教会・旧領事館・石畳の坂道と、これらが醸し出す風情はエキゾチックなムードを漂わせている。
また、明治維新における函館戦争の歴史の跡々、北洋漁業の策源地(前線の部隊に必要な物資を供給する後方基地)にみる伝統などが、それら外国文化の名残と有機的に交錯され函館独特の街が形造られているのである。
この砂洲で出来上がった亀田半島の西海岸に「函館駅」があり、歌にも唄われた「函館本線」が、道内一の400kmにもおよぶ遠距離が小樽駅、札幌駅を経て「旭川」まで延びているのである。
函館駅の次の駅「五稜郭駅」からは江差線が西へ延び、一部、津軽海峡線・青函トンネルを介して本州へ繋がっている。
五稜郭駅の東方1kmのところに、函館最大の名所である「五稜郭」がある。
次は、引続き函館・「五稜郭、他」
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2009年12月16日 16時33分02秒
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周遊紀行:温泉と観光(7)下北 「絶景・仏が浦」
下北半島の絶景・「仏が浦」
周遊紀行:温泉と観光(7)下北 「絶景・仏が浦」
「絶景・仏が浦」
下北半島は通称、マサカリ、斧形の半島と呼ばれている・・?。
そのマサカリの刃の中心に在るのが景勝・「仏が浦」である、それは本州の僻地中の僻地に在る。
通称「海峡ライン」と呼ばれている国道338号線を行く。
脇野沢村を過ぎると深い原生林の中へ突き進むといった感じである。
このR338は別名「海峡ロード・海峡ライン」と言うらしい、今はヘヤーピンの山岳ロードを走っているが、見ると津軽半島の平館あたりが、とりわけ近くに眺望できる。
そのためか此処を挟む海峡を「平館海峡」と命名している、この海峡名を付けた理由が理解出来た。
思えば昨日、海峡の向こう平館あたりからこちら側を見た風景は、断崖絶壁の壁であった所である。
国道338のこの区間は、海沿いの山岳路とも言うべきもので、尾根を越え谷を渡って進んで行く。
海峡ラインは、とにかく上下動の激しい急カーブ、急坂の連続であった。
登りきった所、いわば峠の地(特に名称は無い)にかなり広い駐車スペースも有り、周囲の展望も抜群であった。
今度は下りのヘヤーピンのカーブが連続する。
海の青と山の緑のコントラストが良く、思えば行き交う車も殆ど無い、脇野沢からすれ違った車は数台に過ぎない。
やはり、本州の僻地に違いなかった。
しばらくして、まだ海面よりかなり高所を走っているのに、「仏ヶ浦入り口駐車場」とオンボロ看板があった。「仏ヶ浦」の入り口があるらしい。
戻ってきた人達に様子を聞くと、この先往復30分位かかるかなり急な階段があるとか、こちらは山で鍛えた足腰である、早速カメラ2台持って出かけた。
海の眺めが良くなったところで、山肌が断崖の如く切り立ったところに、木製の急なジグザグの階段が現れた。
ハハーン!これか・・!、急ぎ脚で降りる。
仏ヶ浦まで降りるかなり急斜面の階段歩道であり、断崖絶壁を下って行くようで途中から見る、その景観はすばらしいの一言である。
もう既に海岸一帯に、一種異様な光景の奇岩・妖岩の群が見えている。
白い砂浜に降りると、灰色の屹立した岩峰群が圧倒的迫力で迫る。
観光船を営んでいる番小屋のオバサンが、「そこの間を通って、向こう側へ行くと、もっと良いよ」と、岩峰の間を指す。
成る程、これまたすごい・・!!。
名勝・「仏ヶ浦」は、霊が宿るという下北・「恐山」の冥土の入口に当たると言われる。
風雪厳しい津軽海峡の荒波が削り上げた大自然の造形・仏ヶ浦は、冬の厳しい姿と夏の穏やかな姿の両方を持つといい、2キロに及ぶ奇岩の連なりは見るものの心に様々な思いを抱かせてくれる。
「如来の首」、「五百羅漢」、「一ツ仏」、「親子岩」、「十三仏」、「観音岩」、「天竜岩」、「蓮華岩」、「地蔵堂」、「極楽浜」などの名称がつけられ、その総称が「仏ヶ浦」なのである。
仏ヶ浦の浜は、夏の穏やかな海からの眺めは、その名にふさわしい、たおやかな極楽浄土の浜でもある。
大正11年9月、未だ道無き下北の地を訪ねた土佐の歌人「大町桂月」は、仏ヶ浦の奇岩の連なりと神秘的な美しさに触れ、この様なものが人間業ではとても造り様が無いものであり、自然の中にはまさしく造化の天工が住んでいることを確信した、と言い・・、
『 神のわざ 鬼の手づくり 仏宇陀(ほとけうた)
人の世ならぬ 処なりけり 』
と詠っている。
十和田や東北をこよなく愛した大町桂月は、比較的に優しい東北の自然の中で、仏ヶ浦の想像を絶するような奇岩の群れに逢い、風雪の厳しさ、波浪の力など大自然の持つ比類なき力を実感したのであろう。
奥に控える恐山の神秘的な空間と海から見れば、まさしく冥土の入口に当たるのが、「仏ヶ浦」なのである。
そのあまりの符合に歌人は、この下北半島にはまさしく仏や神が住んでいることを確信したのであろう。
その「恐山」へは帰路立ち寄ることにするが・・、仏ヶ浦の羅漢達は、歌人が歌を詠んだその時のままで、今もすっくと佇んでいる。
薄学浅才な小生は、この感動をどう表現してよいか分からないが、確かに自然の造形は人の知識や知能、想像になど遠く及ばない。
タダタダ!!肝を抜かれ、魂が消される、つまり「魂消る」(たまげる)の一語だった。
半ば気を奪われたまま、元の急な階段へ戻る。
「行きはよいよい、かえりは辛い(こわい)」であったが。
車で一寸行った所の高所に、仏ヶ浦の展望台が有って眺めてみたが、現地の目前の迫力には遠く及ばない。
「仏ヶ浦」を観光するには、観光船も良さそうである、船着場があって脇野沢やこの先の佐井から出航している。
次回より海峡を渡って、「函館」から北海道を巡ります
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2009年12月15日 13時32分02秒
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周遊機構:温泉と観光(6) 青森・「浅虫温泉」
海側から見た「浅虫温泉」
周遊機構:温泉と観光(6) 青森・「浅虫温泉」
.
青森市街を遠目に見ながら、国道4号線のバイパスが本線へ出たと同時に海岸に出る。
陸奥湾・青森湾に間もなく夕陽が沈もうとする。
大きく、黄色く輝く黄昏光が全体の風景とマッチしてまことに綺麗である。
小さな岬の「善知鳥崎」を左に見ながら、間もなく「浅虫温泉」に着いた。
浅虫温泉にNTT保養所「善知鳥荘」がある。
小生のお上さんがNTTの職員ということで、そのツテでこの宿を利用させてもらうのだが、先刻、当夜の宿をここに決めて、とりあえず予約を入れる事にしたのである。
「善知鳥」とは始めて見る文字であって、当然、呼名も意味も知る由もない。
“ゼンチドリ“又は”ぜんちちょう”などと勝手に想像していたが、宿の主人に教わってパソコンの文字を叩くと、ちゃんと 「善知鳥」と出てきたのである。
小生の薄学さに些か赤面する次第であった。
青森市の名称の前身は旧古の善知鳥村から発していることは、先の項の『日本周遊紀行(32)青森・「青森と善知鳥・・?」』で述べた。
「善知鳥」は、チドリ目ウミスズメ科の海鳥のことであるが、又、「ウトウ」とは、アイヌ語で「突起」という意味もある。
この辺りは、陸奥湾の中心部であり、ここに喉仏のような夏泊半島が突起となって出張っているのである。アイヌ人は、この半島をウトウと呼んでいたのかもしれない・・?。
さて、「浅虫温泉」であるが・・、<br>
浅虫温泉は夏泊半島の付け根に位置し、陸奥湾に面した風光明媚な県内随一の温泉地である。津軽藩主も度々来湯したという由緒ある温泉でもある。
東北本線の浅虫温泉駅を中心にして温泉街が広がっている珍しい温泉地で、本線駅が温泉街の中心ということで人気もあり、青森市内の奥座敷でもあって平日でも盛況らしい。
昔から古い温泉地として全国に知られており、平安時代の終わり頃(1190年ごろ)名僧・慈覚大師が奥州巡教の折、傷ついた鹿が湯浴みするのを見て発見されたと伝えられている。
その地名の縁は、かつて住民がこの温泉湯で織布の麻を蒸していたため「麻蒸」とよばれ、後に火難をおそれて火に縁のある文字「蒸」を嫌い「浅虫」になったといわれている。
温泉街は山手と海手に分かれ、温泉の発祥地である山手は昔ながらの風情を残した旅館が並び、海側には規模の大きなホテルが連立している。
古い歴史の面影は現在の本陣の宿 ・「柳の湯」に見ることがでる。
ここは津軽藩の本陣のあった場所で、総ヒバ造りの浴槽は津軽の殿様が作らせたものだという。
NTT保養所「善知鳥荘」はそんな温泉街の中にあった。
一息入れて、早速湯船に飛び込む。
お湯は無色透明でサッパリ感、あまりのサッパリさで独特の温泉感が感じられないが、浴槽の湯温は43.5℃で快適である。
源泉は70℃だそうだが、湯口は適温、流入量が少ないのがチョット気になるが、泉質はナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物温泉という。
脱衣所も浴室もコンパクトな造りながら、きちんと掃除が行き届いていて気分が良い。
気が付けば、館内の配慮も充分で、部屋といい調度品の配置といい気配りが感じられる。
部屋食の料理もまずまずで、これで料金が6千円台はやはり安い、結構なことです。
次の朝もゆったりと、朝湯に浸かった。
普通、小生が温泉宿に泊まった場合、概ね3回浴槽に浸かることにしている。
到着時、就寝前それに目覚めの朝湯である。
ところで、昨今は官営・公営の宿屋が、民化の煽りでドンドン潰されてゆく。
NTTも同様で、関連宿舎は全国150〜160ヶ所ちかくあったのが、民営化されてからは30前後に減ってしまった。
同様に郵政の「かんぽ」、厚生の国民宿舎や休暇村しかり、官・公営の宿もドンドン減らされていく。
訳わかるけど、どうにかなんないの・・!、
我々一般大衆の旅人にとってはマッタク、サミシイ限りであります・・!!!
更に、更に当館・NTT保養所「善知鳥荘」も、平成18年度(H19・3月)をもって閉館するらしい。
当節には大変お世話になったことを改めて御礼申し上げたい。
次は、下北・「仏が浦」
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2009年12月14日 11時32分08秒
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周遊紀行:温泉と観光(5) 「黄金崎不老ふ死温泉」
日本海の荒磯渚に構える「黄金崎不老ふ死温泉」、(下は女性用)
周遊紀行:温泉と観光(5) 「黄金崎不老ふ死温泉」
海岸国道101の岩崎村から深浦へ向かうと、日本海へ向かって出ベソの如くチョコンと出っ張った半島がある。
黄金崎又は舮作崎(へなしざき)ともいう。
国道の案内板に従って五能線の踏切を越え、海岸方面へ向かうとやがて「不老ふ死温泉」の温泉旅館が見てくる。
「黄金崎不老不死温泉」である・・!。
この館の奥はすでに海岸線の渚になっていて、この岩浜の一角、岩礁帯の海岸の凡そ50m先に朝日に輝いて、「露天風呂」はあった。
何はともあれ先ず、「湯」に浸かろう。
赤褐色した湯が、飾りっ気がないプラ管より“ザブザブ”入ってくる。
鉄分と塩分が多いためか、錆の臭いが凄く、手を入れてみると何かネトッとした肌触りを感じる。
さっそくに浸かったみる、気持ちいい、やわらかい、 露天風呂には既に数人の先客がいたが、話を聞くと隣の人は和歌山から来たそうだ。
全国各地から、この有名温泉に来ているようである。
不老ふ死温泉は夕陽を見ながら入るのが一番だが、朝日に照らされながら入るのも、又格別である。
手を延ばすと海面に手がとどきそう、岩場で波が砕ける音を聞きながら湯船で浜風にあたる。
これまた気持ちよい。
周囲は岩礁地帯になっていて、景色も抜群!!お湯はややぬるめであり、舐めてみると、やはりというか渋くて塩辛い。
泉質は食塩泉、源泉の温度は49度である。
タオルをお湯に浸けると直ぐに真っ茶色になってしまう、体も少し茶色になってしまったかな・・!。
その名のとおり、「一日一年、三日三年、命が延び、一生浸かると不老不死」に成ると言う。
そんな温泉である・・、イヤハヤ満足・マンゾク。
尚、男湯は海岸に向かって左手にあり、瓢箪型をしているが、コンクリート塀に仕切られた女湯は楕円形のようである。 但し、覗いたわけではありません・・!!
黄金崎(こがねざき)不老ふ死温泉は、海に沈む夕陽が見られる秘湯として、テレビなどや旅行・温泉雑誌で既にお馴染の有名な温泉である。
温泉はそれほど古い温泉ではなく、岩礁にお湯が涌いているのは知られていたが、1970年に初めて海岸をボーリングして温泉を掘り当てたそうだ。
海岸にある温泉旅館には内風呂もあるが、波打ち際の露天風呂がやはり人気で、気分も良いだろう。
以前は混浴だったそうだが、新たに仕切りが造られ、女性専用の二つに分けられてたという。
木造の古い温泉旅館の隣りに、意外に立派な温泉ホテルがある。
ここにも露天風呂があって、結構人気があるようだ。
「不老不死温泉」というのは、他の地にもあるようで(津軽半島・平館)、 こちらの温泉はは「不老ふ死温泉」と書くのがが正しいようである。
当館の看板やホームページには「・・ふ死・・」と記してある、何故”ふ”なのかは定かでない。
いずれにしても、日本海を見渡せる波打ち際の露天風呂には大満足で、お湯もすばらしく、この温泉を大事にしてもらいたいと思う次第であった。
次回は、 青森・「浅虫温泉」
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