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  • from: orimasaさん

    2008年07月05日 10時40分22秒

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    日本周遊紀行:温泉と観光編(34) 松島-Ⅱ「五大堂」



    松島海岸の五大堂

     《五大堂と坂上田村麻呂》
    今日は10月3日の日曜日であった。 
    雨の日とはいえ、さすが天下の松島である・・、大勢の人が巡っている。
    赤い狐狸橋(下が透けて見えるので、透橋ともいうらしい・・)を渡ると「五大堂」である。 如何にも歴史を感じさせる瀟洒な建物で、松島の島々を見据えて鎮座している。

    平安初期、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のおり、毘沙門堂(毘沙門天=四天王の一つ、男の神、戦・勝負の神、北方を守護する神)を建立したのが最初といわれる。 
    平安初期の828年、慈覚大師円仁が瑞巌寺を開いた際、五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになったとか・・。 
    桃山様式の美しい木造建築で、下屋部分の周囲に12支の彫刻が施されている、これは太陽の方向に正面を向いた時、その時刻を表すともいう。   国指定重要文化財


    太平洋に向かって立つ五大堂


    <font size="2" color="#0000FF">坂上田村麻呂
    (さかのうえの・たむらまろ)について・・、
    奈良後期から平安初期、日本の国土は概ね稲作文化が浸透していた。 
    ところが東北北部地域、とくに津軽地方以北は狩猟や漁業、山畑農菜等・・、想像以上に豊かだったので、そのまま縄文の食文化が継承されていた。 
    当然、何かと手間の掛かる米作りとは相容れぬもので、西方(西日本地方)とは食文化をはじめとする文化摩擦が生じていた。 
    これらの住民は、主として先住民といわれた蝦夷民族(えみし)・アイヌであったのだが・・。

    この頃時代によって様々であるが、奥羽の先住民族である蝦夷と大和朝廷との関係は、国と統一と西方文化を広めるため、蝦夷との争乱がしばしば記録に出てきている。 
    都からの援軍、増派が度々されているが、蝦夷側の抵抗が激しく、支配下に収めることに難渋していた。 
    そんな中、蝦夷鎮圧と西の文化(稲作文化)の融合を推し進めるべく登場したのが「坂上田村麻呂」である。 
    朝廷は、坂上田村麻呂を将軍に武装した”稲作キャンペーン集団”ともいうべき大軍を派遣し、この時の拠点を一旦、多賀城に置いている。

    この時期、田村麻呂は休息時、近くの絶景地・松島を見物遊山に出かけている。
    そして、その松島の余りの美しさに、この地に戦勝祈願を兼ねて「毘沙門」のお堂を設えたという・・、今の五大堂である。

    彼は戦においても、相手の事情を理解しつつ、やみくもに武力を用いることがなかったといい、そのため戦後はよく治まったとされている。 
    また彼の人柄は「怒れば猛獣も倒れ、笑えば赤子もなつく」という魅力に富んだ風貌伝説とあいまって、武将であるのに寛仁の心をもった人といわれ、敵対将軍としては、珍しく、いつのまにか津軽の人たちにも染み込み、慕われてきたといわれる。

    津軽の「ねぶた祭り」は、この時の戦の駆け引きに使われたのが起源とされている。 
    ねぶた祭りは、坂上田村麻呂が武者人形として、毎回のように登場していることは周知である。
    因みに、この時代に都は長岡京から、延暦13年(西暦794年)、京都の「平安京」に遷都されている。
    天皇は桓武天皇の時期であり、その3年後に蝦夷は平定されている。 坂上田村麻呂が、初めて「征夷大将軍」の称号を授かった時でもある。

    田村麻呂は、大陸渡来人の子孫ともいわれる。 
    中国が漢の時代、後漢・霊帝(2世紀の戦国時代)の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿智使主)を祖とすると伝わる。 
    坂上氏の本拠地は、大和国添上郡坂上であるとされ、代々、坂上(さかのうえ)氏を名乗っている。

    田村麻呂は、8世紀の後半の791年以降蝦夷征伐を行い、797年「征夷大将軍」となり、蝦夷の平定を進めている。 
    征夷大将軍とは、その名称の通り「蝦夷を征伐する」ための朝廷から授かった臨時の役職名であった。 
    田村麻呂以降は使われることがなかったが、平安末期から鎌倉創世記、源平の争いで源頼朝がこの役職を希望し、1192年朝廷から征夷大将軍を任じられている。 
    頼朝以降の征夷大将軍は、もっぱら武家の頭領の地位を表す役職になり、江戸末期1867年の「王政復古」の政令で廃止されるまで続くことになったのは周知である。

    次回は、 松島-「坂上田村麻呂の追記」

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