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  • from: orimasaさん

    2008年07月08日 09時14分35秒

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    日本周遊紀行:温泉と観光編(34) 松島-Ⅳ「瑞巌寺」



    瑞巌寺参道

    日本周遊紀行:温泉と観光編(34) 松島-Ⅳ「瑞巌寺」


    瑞巌寺本堂


    本道裏庭園


    瑞巌寺石窟

    瑞巌寺の歴史について・・、
    <font size="2" color="#0000FF">さて、国道を隔てた「瑞巌寺」である。
    年輪を重ねた大杉木立の真っ直ぐな参道を行く、大きなお城の様なお堂が在った。

    「瑞巌寺」は東北地方切っての名刹であることは周知であるが、寺の名称は初め延福寺として開山している。 後に臨済宗・円福寺となり、現在の松島青龍山瑞巌円福禅寺すなわち「瑞巌寺」となったという。
    執権統治者も時代によって奥州藤原二代・基衡から執権北条時頼、仙台藩藩祖・伊達政宗らの名を連ねる。  
    創建開祖は平安初期「円仁禅師」によるものである・・、

    「円仁」は下野(栃木県)の出身で、少年期に比叡山・延暦寺に入山し、伝教大師最澄の弟子になっている。その後中国は唐に渡り、五大山で9年間修行を積んでいる。
    この9年間の滞在中の紀行日記・「入唐求法巡礼行記」はマルコポーロの「東方見聞録」、三蔵法師の「西遊記」とともに、三大旅行記として高く評価されているという。
    帰国後、延暦寺の座主となり、諸国遍歴の後、71歳で没しているが・・、直後、生前の業績によって、円仁に日本で初の大師号・慈覚大師の法号が授けられた。
    東国巡礼の旅に出た時を縁に日光山、立石寺、中尊寺、毛越寺(もうつうじ)、恐山の円通寺、そして、ここ瑞巌寺など、開祖(または中興)とされる有名古刹が数多くある。

    平安末期の奥州合戦の際に瑞巌寺(当時は延福寺)は、頼朝の命により義経(源頼朝の実弟)を三千の衆徒で護摩を焚いて呪詛 (じゅそ:うらみに思い相手に災いが起るよう神仏に祈願すること。まじない、のろい) したと伝えられている。 そしてその後、奥州平泉の藤原家は陥落している。

    瑞巌寺(円福寺)が最も隆盛を極めたのは室町期で、当時の大伽藍の規模は今の松島海岸と周辺山域一帯がそうであり、東北最大の禅院として栄えたという。
    現在の瑞巌寺の中心は、その当時の境内の北西隅一角にすぎないとう。 
    その後は次第に衰え、戦国末期の頃は極度に荒廃していた。

    鎌倉期より縁のあったのは伊達家であり、戦国期の伊達政宗が再建を決したのは慶長9年であった。 自ら縄張りをして円福寺の再興に着手し、足掛け5年の歳月をかけ、今の瑞巌寺が落慶している・・。 
    造営にあたっては、紀州熊野から海路で用材が運ばれ、京都や根来から名工130人が集められたという。

    本堂内部は桃山様式の粋を尽した作りで、彫刻や襖絵は絢爛豪華、総欄間の彫刻は極彩色で飾られている。 堂内の袖部(そでぶ部:本堂、礼拝堂以外の部分)は十数の部屋が仕切られている。 その為、巷(ちまた)では瑞巌寺は伊達家・仙台城(青葉城)の第二の居城、仙台藩の軍事要塞といわれる出城では・・?とも云われていた。

    次回は、 松島-「瑞巌寺の高僧」

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