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  • from: orimasaさん

    2008/08/23 11:21:38

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    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅵ、「厚木の由緒、由来」


    日本周遊紀行(132) 厚木・Ⅵ、「厚木の由緒、由来」

    奈良から平安時代の仏教の伝播を物語るものとして、遺跡から発掘されている瓦塔片や飯山金剛寺・船子観音寺などの仏像があり、この頃、南都仏教(奈良期、平城京を中心に栄えた仏教)及び天台・真言宗などが伝わっていたことが判明している。
    中世には、相模国(神奈川県)を北から南へ流れる相模川の東、海老名の地に国府を、また1200年には国分寺と国分尼寺が建立され、当時、そこは大和朝廷から相模国府へ続く旧道が交差する相模国の拠点だったとされてる。

    教育委員会が刊行した「厚木の地名考」によると、厚木の名が初めて文献に登場したのは、室町元年(1338年)禅僧の夢窓疎石が南北朝時代・足利尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)にあてた書状の中に「相州厚木郷」という名が記されているという、どのような内容、目的の文献であるかは定かでないが・・。

    夢窓疎石は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけて、国師号を授けられた臨済宗の禅僧であり、「苔寺」で知られる京都の西芳寺、天龍寺、鎌倉の瑞泉寺など、多くの庭園の設計でも知られている庭園師でもある。
    高 師直は足利尊氏の重臣、執事であり南北朝時代の争乱の時期、尊氏に従って南朝方と戦い軍功が多く、尊氏に従って室町幕府創立に寄与している。 
    疎石は足利家とも縁があり、高氏とも深いつながりが在ったと見えて、師直の兄弟達は疎石に帰依(従い服すること)している。 
    夢窓疎石と武将・足利尊氏の側近であった高師直とは相州・厚木郷において何らかの理由で接点があったことが想像出来る・・。
    尚、この時期、足利氏による室町幕府成立に伴って、政治の中心は相模の国・鎌倉から再び京都に上っている。 

    相州・鎌倉は、幕府滅亡後は足利氏による地方としての政庁・鎌倉府を設置(鎌倉公方)し、関東十ヶ国における出先機関としての役目を果たしている。 この政庁執権を、関東公方とも称している。 この公方を補佐するために上杉氏などの関東管領が置かれていた。

    序ながら、この関東管領・上杉氏(扇谷)の家臣で、相模国守護代を勤めた「太田道灌」がいる。 
    江戸城や川越城を築城したことで特に有名であるが・・、

    <font size="2" color="#0000FF">「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだに なきぞ悲しき」


    の歌でも有名な人物であるが、この厚木市街西方、糟谷(かすや:現伊勢原市)地区に居を構えたいた。
    だが、ある日、讒言(ざんげん:はかりごと)によって当主の上杉定正によって暗殺される羽目になる。 毎年10月、伊勢原市では 「道灌祭り」が盛大に行はれている。


    さて、「厚木」の地名であるが・・、
    自然環境に恵まれている厚木地域は、縄文時代前期5、6千年前のには人が住んでいたと言われている。そして、土着民であるアイヌ民族が住んでいたともされ、厚木の地名に「厚木は諸川の合流下(相模川三川合流点)のところにあって、アイヌ語でいうAtu(吐き出す)ki(場所)=吐き出す場所が、その起源である」という説もある・・?。
    尤も、厚木の各所地名には、アイヌ語と思しき地名が数多くあるというが・・。

    更に 「厚木・あつぎ」の地名の由来であるが・・、木材の集散地であったところから、集め木、アツメギがアツギに変化したとされるが定説ではない・・?。 
    しかし、信憑性はある。 厚木周辺の北西方向の山域は丹沢山塊から派生する低山地帯を形成し、比較的人が入りやすい森林地帯でもある。
    現在、神奈川県で唯一の村である「清川村」は丹沢御林とも呼ばれ、七沢・煤ケ谷その奥にあたる宮ケ瀬の東丹沢山一帯に繁茂する森林は徳川氏が江戸に入るに及んで「丹沢御林」と称され、後に幕府御料林とも呼ばれた。  
    御林は幕府直領下におかれ、江戸城修築や江戸の町並みを造営、其他の木材に使用に供された。
    この山林を守り、用材の諸役を課せられた村々や人々には年貢・諸役を免ぜられていたという。 

    丹沢東部に属する村々である愛甲郡煤ケ谷村、宮ケ瀬村、大住郡寺山村、横野村の四ヶ村には、御領林の警衛なども命ぜられ、村民による巡見管理を任されていた。 併せて、この地区を御留山(おとどめやま)とも称していた。
    新編相模国風土記の記事によれば、この四ヵ村の巡視のための番札を掛けた大きな欅の木が宮ケ瀬から秦野へ通ずる林道上(県道秦野清川線)にあり、このことから、この地を「札掛部落」と名付けられたとある・・。 現在も、草にやや埋もれてはいるが証しの石碑も残っている。


    次回は、「宮が瀬ダム」



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