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from: orimasaさん
2008年10月24日 09時40分43秒
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日本周遊紀行(7)下田3 「露使節・プチャーチン」
ロシアと北方四島・・、
ペリーが下田を去って間もない同年(1854年)、ロシア使節プチャーチンが日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する、日米和親条約締結の話を聞きつけ、再び來日したもの・・。幕府役人の数度による交渉の結果、同年、長楽寺にて日露和親条約が締結される。
日米和親条約と大きく異なるのは、日露の国境が決められ、択捉島とウルップ島の間に国境線が記載されたこと・・、この日を北方領土の日(2月7日)としている。
因みに、先の大戦以降、未だに北方領土はロシアに占有されたままである・・、長年に亘って日・ロとの返還交渉が成されてきたが、現代に到るまで解決されてない・・。その返還については日本の長年の悲願である。北方領土とは北海道東方、歯舞(ハボマイ)、色丹(ソコタン)、国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)の四島のことであり・・、昨年10月東日本一周の際、北海道東方沿岸で国後島を遠望し、納沙布岬では歯舞諸島を真近に望めた。これら地域、特に根室半島は北方領土返還の拠点になっていて、立て看板や石文が辛く、切なく、それらを物語っている。
蛍の光と北方領土・・、
ところで「北方領土」に因んで・・、「蛍の光」という唱歌があるのは周知だが、最近はあまり歌われていないようである・・?。この歌は、明治14年(1881年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編に載せられた。作詞は稲垣千頴(いながき ちかい)、作曲者は不詳であるがスコットランド民謡である。
明治10年代初頭、日本で小学唱歌集を編纂するにあたって、稲垣千頴が作詞したものが採用され、「蛍の光」となった。歌詞の舞台は大きく異なるが、遠く離れた友を思う心根は、原曲であるスコットランドも日本も共通である。
大日本帝国海軍では「告別行進曲」という題で、やはり各種学校の卒業式典曲として「仰げば尊し」と一緒に、最近まで使われ歌われた。
現在は『蛍の光』は二番までしか歌われていないが、本来は四番まである曲であった。
三番と四番は、辺境の地であっても、それは日本の守りのためであり国のために尽くす、というような歌詞であり、この内容が敬遠されて戦後には歌われなくなったようである。
以下の歌詞は、小学唱歌集初編(明治14年11月24日発刊)に掲載された時のものである。前述の通り、戦後・昭和24年以降はこの中の1番と2番のみしか歌われていない・・。
『蛍の光』詞:稲垣 千頴 スコットランド民謡
一、 二、
蛍の光 窓の雪 止まるも行くも 限りとて
書(ふみ)読む月日 重ねつつ 形見に思う 千万(ちよろず)の
いつしか年も すぎの戸を 心の端を 一言(ひとこと)に
開けてぞ今朝は 別れゆく さきくとばかり 歌(うと)うなり
三、 四、
筑紫(つくし)の極み 陸(みち)の奥 千島の奥も 沖縄も*
海山遠く 隔(へだ)つとも 八島のうちの 守りなり
その真心(まごころ)は 隔てなく 到らん国に 勲(いさお)しく
ひとつに尽くせ 国のため 努めよ我が背 つつがなく
※ 歌詞の内容に問題があるとされ、現在音楽の教科書等では第三節以降が省略されている。
この「蛍の光」は、悲しいまでに美しい旋律(メロディー)である。幼少の頃は歌詞を理解してなくとも、歌ったり、聞いたりしただけで胸にジーンときたものであった。しかも、1番から4番まで理解して歌う時、万感迫るものがある・・。
「蛍の光」の1、2番は同窓の友や師との告別の意味であるが、3,4番は、将来は国のために心を合わせて協力するという歌である。「蛍の光」を、この形、1から4番までしっかりと歌い続けていれば、北方領土の問題は日本人の意識にもっと深く存在し得たはずであろう・・。
戦後の風潮、教育でこれらの感慨を全て捨て去った現在、所々にそれらの付けが回ってきている。日本人の精神そのものが、今の北方四島を見ているようである・・。
尚、「蛍の光」のメロディは、本国のスコットランドや日本だけでなく、その他の各国にも浸透している。 イギリスやアメリカ合衆国などでは新年(スコットランドでは大晦日から)を祝う歌であり、台湾やフィリピンでは新年と卒業式の両方で歌われ、かっては大韓民国(韓国)の国歌でもあったという。
次いでながら、「蛍雪の功」という言葉がある。
「蛍の光」の歌詞の冒頭「蛍の光 窓の雪」とは、「蛍雪の功」と言われる。 一途に学問に励む事を褒め称える中国における故事が由来となっている。東晋の時代の車胤は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。 同様に、同じ頃の孫康は、夜には窓の外に積もった雪の反射する光で勉強していた。そして、この二人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している。
尚、プチャーチン提督が来日していたこの年(安政元年)、東海地方を巨大な地震が襲う、「安政の大地震」と言われるもので、この下田も津波によって全滅に近い甚大な被害を被っている。津波てロシア軍艦・ディアナ号も大破し、亡くなっ水兵は今もこの玉泉寺の敷地内に眠っている。 長楽寺は了仙寺の近くに在る・・。
詳細については西伊豆・「戸田」の項で記載します。
序ながら、下田と吉田松陰のこと・・、
浦賀に四隻のペリー艦隊の来航を見て、アメリカの文化文明に興味を抱いた「吉田松蔭」は、外国留学の意志を固める。ペリーが日米和親条約締結のため再度来航した際に門弟2人とポータハン号へ赴き、密航を訴えるが拒否されてしまい、幕府に申し出るが逆に松蔭は長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。その後幕府が勅許(天皇の免許、許可)なく日米修好通商条約を結ぶと、攘夷論者の松陰は激しくこれを非難、幕閣の暗殺を企てるが失敗して再び松陰は投獄される。
大老井伊直弼の「安政の大獄」が始まると、幕府は長州藩に松陰の江戸送致を命じ、松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首の刑に処される。 1859年・享年29歳。
これ等の事件をきっかけに、江戸期は幕末の動乱の時代に突入、南西諸藩(長州、薩摩、土佐、・・)は倒幕のために立ち上がり、明治の御世へと時代は激しく移行してゆく・・。下田に居留していた当時の吉田松陰の居蹟、旧村山邸は蓮台寺の「お吉の淵」の近くに在る・・。(平成17年:2005年5月23日訪問)
次回は石廊崎まで行きます-
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