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  • from: orimasaさん

    2008年12月18日 15時12分09秒

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    日本周遊紀行(103)厚狭 「厚狭地方」


    「厚狭」という名称は、歴史的にも大変意味の有る地名であったが・・

    国道2号線を更に行く・・、宇部市、小野田市の北部山地をかすめ、山陽町から下関方面へ向かっている。
    宇部は「宇部興産」、小野田は「小野田セメント」といった有名企業名を思い起こす。 いずれも沿岸地区は、素材供給型化学工業を中心とした近代工業都市として発展し、瀬戸内海沿岸地域で有数の臨海工業地帯を形成している。 宇部は、明治期以降の石炭産業を通じて資源エネルギーの基地「石炭の町」として、小野田はセメントの発祥の地「セメントの町」として、その基盤が現在に受け継がれている。 今の社名は、太平洋セメントと称して、小野田セメントと秩父セメントが合併して秩父小野田セメンとになり、更に、日本セメント(旧浅野セメント)が合同して、その名が付いたようだ。

    子供の頃より粉と水が一緒になると、どうして石になるの・・?、と思っていたが、物心ついて、学生時代には化学も専攻したが、今でもその不思議さは変わらない。
    セメントの主原料は石灰石、けい石、粘土および鉄分が原料であり、地球上に無限に有る資源である。主要化学成分は酸化カルシウム (CaO) 、酸化けい素 (SiO2) 、酸化アルミニウム (Al2O3) および酸化鉄 (Fe2O3) で、これらを適切な化学組成となるよう調合し、粉砕・混合するのが原料工程である。 原料工程で調合した原料粉末を高温(1450℃以上)で焼成することにより原料どうしの化学反応を起こし、クリンカーと呼ばれる化合物を合成する。クリンカーと適量の石膏(硫酸カルシウム(CaSO4・2H2O))を混合・粉砕して粉末状の仕上げたのが「セメント」である。コンクリートとは、セメントに砂や砂利(骨材という)に水(水和反応=水が他の物質と結合する化学反応)などを加えて結合させたものを指し、建築資材として一般にセメントコンクリートと呼ばれる。
    小野田市には、明治16年(1883年)に建造した最初のセメント焼成用の竪窯が、わが国に唯一残っているという。近代窯業史上、西日本における建設事業の近代化を支えた中心的施設として高い価値があり、竪窯は国重要文化財に指定されている。
    尚、小野田は2005年3月22日付け、小野田市と山陽町が合併して「山陽小野田市」が誕生している。

    その山陽町の町並みに入って来て、「厚狭」の駅前に到った。 
    山陽本線、美弥線(みね:美祢市を通る)、向う側に新幹線駅舎とターミナル駅のようであるが人影は極少なく、町並みもコンビニが一つ有るか無いかの小さな街である。 厚狭と書いて“あつきょう”などと勝手に呼んで納得していたが、実は“あさ”と読むのである、薄学の至りであった。
    ところで、この地は山陽町である。 所々の建物の看板を見ると何故か厚狭〇〇、〇〇厚狭・・とあって、山陽〇〇とは殆ど無いのである。 山陽町は1956年、厚狭町、埴生町が合併し誕生していて、たかが50年の歴史にすぎない。ただ、厚狭郡山陽町で、僅かに厚狭の地名が残ってはいたが、ところが、最近の合併で「山陽小野田市」になり、昨年(2004年)、同じく厚狭郡楠町が宇部市に編入されるに至って、「厚狭」という行政上の地域名は中国地方、日本から完全に消滅したのである。

    厚狭郡(あさぐん・あさごうり)は、嘗ては今の宇部市(岐波地区を除く)、山陽小野田市、下関市の東部(吉田、王喜地区)で構成されていた。「厚狭」という文字は何時頃から使われたかは定かでないが、既に毛利氏の時代には言われていたようである。 厚狭はアサと読み、古代アサとは王朝の事を指して呼ばれた名称であるともいう。
    山口には神話期の頃から飛鳥・奈良期創生の頃まで、王朝が布かれていたことは歴史に興味のある者は知っている。
    大陽町厚狭の東北の位置に当たる今の「加茂神社」(賀茂神社・鴨神社)は、聖徳太子にも所縁があるといい、厚狭川を挟んで西南の地に位置する今の「洞玄寺」周辺は、物部守屋の縁者が一時王朝を敷いていたとも言われる。寺の裏山には4世紀後半、長門国の初代長官の墓と言われている前方後円墳が発掘されている。これは、「厚狭」が長門国最古の中心地であることを物語っており、更に、境内からは西暦600年前後の祭祀に使用された須恵器(古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた大陸系技術による素焼の土器)が出土している(洞玄寺遺跡)。この時期が「厚狭」という地名の興りだろうといわれる。
    又、後年、毛利氏の時代には、毛利元就の五男・元秋が本家毛利氏の「萩」移封後、厚狭(厚狭郡山陽町)に知行地を与えられたことから厚狭・毛利家と呼称され、八千石余りを領している。 毛利本領の萩城・大手門の南100mの地に「厚狭毛利家萩屋敷長屋」が配され、面積約一万五千㎡にも及ぶ広大なもので、現在も萩に残っている武家屋敷の中では最も大きい建物となっている。(国の重要文化財に指定されている)
    厚狭には、厚狭毛利家の累代の墓所及び墓碑が在る。 墓所は洞玄寺裏山に概ね500㎡の敷地で、厚狭毛利家の菩提寺として二代元康以降、十三代に至る歴代当主及び一門四十三基の墓碑が建立されているという。 三代元宣が、元康の法号により洞玄寺と命名したとされる。(市指定文化財指定)
    当時の厚狭は山陽道の宿場として、又、厚狭の市と呼ばれる定期的に市も開かれ、大いに繁栄したという。かつての宿場街が、現在もそのまま商店街となっていて、年季の入った木造の金物屋、造り酒屋の土蔵を改造した酒舗、幾時代か前の商店街という雰囲気を味わうことができる。
    この様に「厚狭」という名称は、歴史的にも大変意味の有る地名であった。今は厚狭の駅前は閑散として、時折、高架の新幹線がガーオーと往来しているのみであるが・・。

    次回から「九州」へ参ります



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