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  • from: orimasaさん

    2008年12月24日 11時08分45秒

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    日本周遊紀行(114)松浦 「渡辺綱」


    先に、松浦党について述べたが、再び「松浦」について・・、

    瀬戸町から伊万里大橋を渡って対岸の鳴石地区へ渡る。 
    鋭いV状の湾が途中で対岸と最も接近している場所では指呼の間である。しかし、V先端の河口市街までは未だ相当の距離を残している。 従って、松浦市方面や平戸方面に行くには伊万里市街地を通り、かなりの大回りコースを余儀なくされた。だが、幸いに平成15年、山代町と黒川町を繋ぐ延長約3kmの伊万里港臨港道路、つまり伊万里大橋が完成した。この大橋の完成により15キロ約40分ほどの時間短縮になるという。
    先ほどまで松浦半島の西を走行していた時は、入り組んだ道路で余り展望は望めなかったが、こちら湾の西側来て伊万里湾の深い入江に面した穏やかな海が望め、湾内には大小の島々が浮かぶ風光が垣間見える。
    すぐ横を松浦鉄道が走る。 国鉄時代、炭鉱があった頃は急行が走るほどの大盛況だったそうだが、その後の合理化のあおりで第三セクター鉄道「松浦鉄道㈱」になり再スタートを切ったようである。 赤と青の線を施した白の車体の汽動車(ジーゼルカー・・?)が海岸沿いを、ゆったりと走る姿はいい眺めである。 最近は、列車本数も大幅に増やし、新しく作られた駅は、国鉄時代より2倍にも増え、利便性は大幅にアップした。 その結果利用客も増え、最近では黒字経営になっているという。全国的にも珍しい成功例であろう。

    やがて伊万里湾が離れる辺り、長崎県に到ったようである、松浦市である。 
    「今福」の港を過ぎ、平尾の岬あたりへ来ると一段と伊万里湾・外浦のパノラマ絶景、入り組んだ島々の明媚な風光が、目に眩いほどの鮮やかさで飛び込んでくる。風評だが、弘法大師があまりの美しさに筆を投げたと伝えられているのも大いに納得である。そして、ここは正真の「松浦」である。 古来、この湾に海人・水軍、松浦党が発祥し発展したのも頷ける。 この松浦の海岸を抜けてR204の唐津街道(平戸街道)は、平戸へ向っている。
    松浦海岸の大火力発電所を見送ると、すぐ「御厨」という小さな港があった。この鄙びた田舎に「御厨」(みくりや)という地名、地域名は以外だった。 御厨とは、狭義には神饌(しんせん・神えのお供え物を調進する屋舎。御台所)、広義には古代・中世、皇室の供御や神社の神饌の料を献納した皇室・神社所属の領地のことで、古代末には、その荘園の一種とされていた。 
    当地の「御厨」は、古代・平安期の頃は宇野御厨と称して伊勢・皇大神宮の官領であったらしく、伊勢神宮に海産類などを御供していたとされる。「和名抄」(平安中期に編纂された百科事典に相当)には荘園として、先に述べた「東松浦」は松浦荘、西南北松浦は「宇野御厨荘」と記され、この宇野御厨は神社、朝廷に魚貝類を献上していたと記されている。
    平安末期、御厨の住民は源平合戦で平家に味方した者が多かったが、当地が皇大神宮に属し、敬虔な生業(なりわい)をしていたということで、領地没収にはならなかったといわれる。

    松浦党の発祥については先に記したが平安中期の990年頃、摂津・渡辺の庄にあった源頼光が肥前守に任ぜられ、渡辺綱(わたなべのつな:平安中期の武将。源氏の一族で本名は源綱。坂田公時、平貞道、卜部季武とならんで源頼光の四天王と称された:大江山の酒呑童子退治で有名)を同伴して松浦郡に下向したからと云われる。
    任期を終えて帰洛したが、綱はこの間に男子・子供をもうける。又、後に渡辺綱の孫に当る松浦 久が「宇野御厨」の検校(けんぎょう:荘、社寺の総務を監督する役)となって「今福」に着任している。 これらが松浦市の北部沿岸に松浦家・松浦党が発祥した直接的な事由であり、祖先が肥前国と関係をもった最初でもあるという。

    渡辺氏は、摂津国の渡辺津(大阪市中央区)を本拠地とする渡辺党と呼ばれる武士団を形成し、瀬戸内海の水運に関与し、瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になると共に皇室領の大江御厨(摂津の御厨)をも統轄していた。 彼らは摂津国住吉の浜(住之江の浜、大阪湾)を拠点に、海運、海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したとされる。肥前国の松浦氏もその庶氏の一人で、松浦党をはじめ山代氏に連なる松浦氏族を輩出している。
    尚、綱は「源満仲」(清和源氏の祖、源氏の祖)の子・頼光に仕えて四天王の一人と称せられたが、この綱の子が摂津・渡辺党となってこの地に展開した。 渡辺氏は元々は嵯峨源氏(嵯峨天皇の一族、嵯峨源氏)の一党で、その一人源綱(みなもとの・つな)が、清和源氏の源満仲の娘婿の養子となり、母方の里の摂津国渡辺(現・大阪市中央区)に住み、同地を本拠地として渡辺綱(渡辺源氏)と名のり渡辺氏の祖となったと云われている。その兄弟達は、名乗りが一字であることが特徴的で、綱の子達から多くの諸流渡辺氏が生まれた。九州の水軍・松浦党の祖の松浦久(渡辺久、源久、渡辺綱の孫)もまた渡辺氏の出である。
    尚、源 満仲(みなもと の みつなか、清和源氏3代目)は平安中期の武将で、清和源氏・六孫王経基(清和源氏2代目、清和天皇の第6皇子の子、皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされる)の子で、「多田」を号したことから多田 満仲(ただ の みつなか)とも呼ばれる。その子達が各地へ散って、その地の源氏の名を起こす。長子の源頼光は摂津源氏、次男の源頼親は大和源氏、三男の源頼信は河内源氏のそれぞれの祖となっている。 
    又、清和天皇を祖とする清和源氏は、主に源 満仲から武家源氏の道を歩んだとされ、その代表に河内源氏の源頼朝がいる。

    次回は「平戸」へ渡ります。



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