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from: orimasaさん
2009年01月24日 11時16分46秒
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日本周遊紀行(136)竹田 「竹田・岡城」
写真:豊後竹田・「岡城址」と本丸跡に建つ「滝廉太郎像」
岡城と名曲・「荒城の月」とは・・、
「豊後国風土記」によれば豊後には八つの郡があり、それらの郡名は基本的に現代まで引き継がれて使用されている。 その中の直入郡には「郷4、里10、駅1」、大野郡には「郷4、里11、駅2、烽1」があると述べられている。 このことは八世紀の奈良期の頃の地方の行政単位や軍事施設が確認することができ、大野川流域・地域もしっかり中央政府の支配下にくみこまれていることが判る。
その大野川流域が注目されるのは、平安時代の終盤からであるという。
平家滅亡後、頼朝と対立した義経をこの奥豊後の地・「竹田」に迎えるための城を用意したといい、それが竹田市の「岡城」の始まりであるといわれている、しかし、義経の豊後下向は失敗した。
頼朝に敵し得ないことを知った義経は、西国へ逃れることを模索して京都を発ち、摂津(大阪)の大物浜から乗船して九州を目ざしたが、船が難破して渡海をあきらめた。
鎌倉幕府の九州支配が開始されると、豊後国は頼朝の知行国として直接掌握され、頼朝の支配が大野川流域にまで及んだ。 それは頼朝直系の家臣・「大友氏」を守護として豊後に赴任させた時期でもあった。
16世紀末、大友氏の滅亡した後の江戸期の豊後は小藩に分けられ、その結果、大野川の流域は概ね岡藩(中川氏)の領となった。 内陸部を領地とした岡藩は、参勤交代や諸物資交易のため大野川の水運を利用すようになり、克つ、瀬戸内海運への重要拠点として中流域に犬飼町と河口の三佐町鶴崎(大分市)の整備に力をいれ、犬飼は岡藩主の中継、休憩基地として繁栄している。 また河口の鶴崎は熊本藩の豊後拠点であり瀬戸内への窓口、参勤交代の中継地として繁栄した。その後、大野川の船運は江戸時代から明治時代に入ると、竹田まで通じるようになり更に発展することになる。
竹田の「岡城址」は市街の東方、標高325mの天神山台地に築かれている。 大野川と稲葉川のほぼ合流地点にあって天然の要害をなし、険しい地形を作り出している。 岡城石垣は苔生し草茂るも堂々とした造りで、曲線を多用しているところは熊本城の「武者返し」に似ている。 世に岡城は、難攻不落の日本三険城の最上の城ともいわれている。
中世・平安末期の1185年頃の岡城は、平家が壇ノ浦で滅亡した際、豊後の豪族である緒方惟栄(これよし)が「源義経」を迎えるために築城したのが始まりと伝えられている。 緒方惟栄は平安時代末期から鎌倉時代初期の武士で、豊後国大野郡緒方庄(現在の豊後大野市緒方町)を中心に活躍し、平家物語にも登場したほどの人物である。 元々、荘園・緒方庄は宇佐神宮の所領で、緒方氏はその領主をつとめ平氏側の一族であった。 平家一族の都落ちを知ると一族を率いて源氏方に寝返り、平氏の九州上陸を阻止するなどの働きを見せた。 こうした緒方一族の寝返りによって鎌倉幕府の九州統治が進んだともいわれる。
源義経が源頼朝に背反した際には義経方に荷担したとされ、このとき彼を匿うために築城したのが岡城とされている。しかしこれが仇となって、後に処罰(流罪)されることになるが、ただし処罰の対象になったのは惟栄とその直接の親子兄弟のみであったため緒方一族の大勢には影響がなく、その系流にある各家は後々まで豊後南部を拠点として活躍し続けたという。
鎌倉末期に大友氏の一族・志賀貞朝がその砦を修築、拡大させ「岡城」と名付け、代々の居城とした。
戦国末期には中川氏が入国、 以降、近代城郭として一応の完成をみた。
岡藩は、中川秀成が初代藩主となり、以降中川家は明治維新まで存続している、父はあの戦国の勇将・中川清秀である。 清秀は当初は池田勝正に属し、後、荒木村重(戦国時代の武将、明智光秀より4年前に織田信長に反逆した武将として有名)の配下となる。 摂津・茨木城主時代に荒木村重の謀反が起きると信長に従っているが本能寺の変後、羽柴勢に加わり山崎の合戦で活躍する。後の賤ヶ岳の合戦では奮闘するも戦死している。父・清秀が賤ヶ岳の戦いで戦死した後、家督は兄の秀政が継いでいた。 しかし、その秀政も早世してしまったため、その弟である秀成が跡取りとなり播磨国六万六千石を継いで豊臣秀吉に仕えることとなった。 その後に秀吉から豊後・岡に七万四千石の所領を与えられている。
尚「岡藩」は、豊後国内で存在した藩の中では最大の藩であり、しばし竹田藩と呼ばれることがあるが、岡城と城下町の竹田とは離れていたため「岡藩」が正しいとされている。
明治7年(1874)の廃城令によって「岡城」は大分県に入札、払い下げされ、城郭・建造物は全て取り壊されている。 現在は雄大な石垣のみが残り、城趾は「国指定史跡」に指定されている。
「荒城の月」という愛唱歌がある・・、
作曲家の滝 廉太郎は東京で生まれているが、父・吉弘は役人で大久保利通の秘書をしていたといい、大久保の没後、地方官として大分県竹田市に移り住んでいる。 父の赴任に伴い幼少の頃の廉太郎少年は、4年間を大分県竹田市で過ごしている。 15歳の頃、東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学し、作曲とピアノ演奏で才能を伸ばしていった。
一方、奥州・仙台出身の土井晩翠が「荒城の月」の作詞をモデルにしたのは故郷仙台市の「青葉城」や福島県会津若松市の「鶴ヶ城」と言われている。 東京音楽学校(東京芸大)の教科書唱歌、歌詞コンクールに晩翠は「荒城の月」を応募、そして入選している。これを当時音楽講師だった滝廉太郎に作曲を依頼する。 廉太郎は幼少時代を過ごした竹田に、21才の頃帰省して「岡城跡」に想いを込めながら、この曲を完成させたといわれている。
晩翠は『滝 廉太郎は歌詞を抱いて故郷大分の竹田町に帰り、その郊外に位置する岡城趾で「荒城の月」を完成した』と言っている。 「荒城の月」は、廉太郎の岡城趾の原風景と晩翠の「青葉城」、「鶴ヶ城」の詩的情感を加えた名城合作と言えなくはない。 岡城の本丸跡には瀧廉太郎の銅像が建てられている。
不朽の名曲「荒城の月」は日本歌曲の原点として、また日本人の心のよりどころとして永遠に歌い継がれている楽曲でもある。
『荒城の月』 詞・土井晩翠 曲・滝廉太郎
春高楼の 花の宴
めぐる盃 かげさして
千代の松が枝(エ) わけいでし
昔の光 いまいずこ
天井影は かわらねど
栄枯は移る 世の姿
写さんとてか 今もなお
ああ荒城の 夜半の月
次回は、軍神・広瀬中佐-
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