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  • from: orimasaさん

    2009年02月20日 11時03分04秒

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    日本周遊紀行(155)都井 「都井岬」


    写真:都井岬

    日本原産の野生馬・御崎馬とは・・、

    都井岬は野生馬の生息地として有名である。 
    「御崎馬」(みさきうま)と呼ばれる野生馬が約100頭が、ハーレムというグループをつくって生活している。 約300年も前に放牧したものが野生化し繁殖したもので、体高は130cm程度で首が短く毛並みが荒い、純度の高い日本馬で、寿命は永く40才位まで生きるという。 野生馬なので蹄鉄を打つ必要がなく繁殖は自然まかせだが、牧草の管理等は人の手が入り、岬の入り口には柵や門が設けて管理されている。

    御崎馬(岬馬)は、信州の木曽馬、陸奥の南部駒や北海道の道産馬などとともに日本古来の在来馬と言われ、日本種ではあるが、約2000年も前の縄文時代後期から弥生時代中期にかけて古代・中国(蒙古系)大陸から導入された馬がその起源とされている。 その後、日本では馬の生産が盛んに行われ、各地に多数の官営の牧場が作られていて、特に平安後期から鎌倉時代以降の武士の時代には軍馬として重要な役割を果たした。
    又、牛とともに農業や輸送に不可欠の家畜であったために幕府直営や藩営あるいは民営の牧場が盛んに作られた。九州南部では日向の駒を集めて都井村の御崎の牧(御崎牧場)で生産され、これらの馬を御崎馬(岬馬)と呼んだ。 御崎馬は主に高鍋藩・秋月家の乗用馬として管理され、現在もその面影を残していると言われる。 実際に御崎馬を使役した古老によれば、農耕にも使用したが本来は乗馬用であり、瞬発力も持久力もあったという。 御崎馬は、牧場開設当初から殆ど人手を加えない粗放な管理しか行われず、廃藩後の明治期には御崎組合の共有牧場となり、その粗放な飼い方は、そのまま続けられてきたという。 そのため御崎馬の風貌や習性あるいは体型や資質は野生状態そのものを思わせるという。 これが「都井の野生馬」と言われ、「自然における日本に特有の家畜」として国の天然記念物に指定されている。

    ところで、日本の名馬といわれる陸奥の「南部駒」や「甲斐の黒駒」の血統は、共に蒙古、中国、露国の血統が入った品種改良馬といい、起源は御崎馬と同じであるという。
    源頼朝が藤原氏の陸奥の国を平定した後、「南部駒」の特産地であったことに目を付け、貢馬(くめ)といって馬を年貢として納めるようにしたという。 
    この時期、頼朝は馬産地で知られる陸奥の国へ、甲斐源氏(現在の山梨県)出身の南部光行(なんぶ みつゆき)を転封している。 甲斐の国は「甲斐の黒駒」で知られる名馬の産地で、光行は馬の育成には詳しく、赴任先の陸奥の国では国造りの傍ら、牧場経営にも当たらせ、大いにその手腕を発揮したという。 当時、馬は軍用として極めて貴重であり、この馬の管理,貢馬のための行政組織が「戸」の起こりといわれる。 「戸」とは広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。 その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そしてここ八戸市がある。
    尚、甲斐は、飛鳥以前の古墳時代といわれる頃から牧(牧場)が作られ、馬の生産地とされてきた。この馬を「甲斐の黒駒」として古事記や日本書紀にも登場し、聖徳太子に献上されたともいわれている。 これにより馬に乗る聖徳太子の伝説は全国に広がったという。
    平安時代、武士の道を選んだ清和源氏はこの甲斐の馬を手に入れたことでその勢力を強め、騎馬の将・源頼信の話が「今昔物語」で精彩を放っているという。 戦国初期、一世の雄・武田信玄もまた清和源氏の流れを汲む甲斐源氏の一人であり、甲斐の騎馬軍団が関東地区を席巻したことは余りにも有名である。

    話はチョット反れたが、日本在来馬には乗系(軽種・騎馬用:乗馬に適したもの)と駄系(重種・農耕用・肉用:荷物を載せ運ぶのに適したもの)の二つのタイプ(型)があるという。 乗系は体形的には足や首が長く、運動が滑らかであり、瞬発力、持久力があり、駄系は大型で、ずんぐり形で肉が付きやすく、奮発力、持久力に優れ、肉食用としても重宝される。
    広大な芝生が広がる都井岬の丘陵地帯には、野生馬の「御崎馬」が生息しているが、江戸期・元禄年間、高鍋藩・秋月家が軍用馬や農耕馬を岬に放牧したのが始まりと言われ、昭和30年代までは地域農業の担い手として活躍していた。 だが、農業の機械化が進んだ今日、観光用として現在まで繁殖し続け、今では約100頭が棲息しているという。
    馬の社会は一夫多妻制で、一頭のオスを中心に4〜5頭のハーレムをつくる。 ただこれは優秀なオスだけの話で、子孫を残せない悲しくも寂しいオスの群れもあるという。 手付かずの自然ゆえ苦難の歴史もあり、最大で160頭もいたものが戦後の一時期、草原の減少や病気などで50頭位にまで減少したこともあったという。 その後、昭和28年(1953年)に国の天然記念物に指定されたことから、寄生虫の除去などの保護活動が本格化したことで何とか持ち直したという。
    野生馬の中には、水道の蛇口を首でひねって水を飲む賢い馬もいるという・・!?、飲み終わった後、閉めることはどうかな・・?。

    都井岬の最南端標高250mの断崖には、白亜の都井岬灯台が建つ。 距離・44キロメートル先までの海上を53万カンデラ(カンデラ:「光源そのもの」の明るさ、ルクス:「照らされているある面」の明るさ)の光で照らすといい、都井岬沖を行き交う船の安全を昭和4年から守り続けている。 灯台の最上階は展望室になっていて、天気のいい、空気の澄んだ秋の晴れた日には大隈半島から遠く種子島、屋久島まで見渡すことが出来るという。この灯台は九州で唯一、内部が見学できる観覧灯台でもあるとのこと。
    他にも、都井岬には馬の生態や岬の自然を紹介する都井岬ビジターセンター「うまの館」がある。(入館料大人500円) 又、都井岬の先端部の断崖に御崎神社があり、この御崎神社の創建は和銅元年(708)と伝えられている古社で、周辺にはソテツの自生地などもあり公園化されている。 宮崎に来たのなら日南海岸の序に、こちら「都井岬」も是非見て欲しいお薦めのポイントであるとか・・!!。

    次回は、日南・「油津」

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