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  • from: orimasaさん

    2009年02月24日 11時45分49秒

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    日本周遊紀行(157) 宮崎 「天孫降臨の地」



    天孫降臨の地、両・高千穂は譲らない・・!?、

    油津付近の展望の良い休憩地一服しながら、地元の焼酎、銘柄は何と「天孫降臨」が有るのに気が付いた。 500mlを1瓶、記念に購入したが、記念といっても飲んでしまえばすぐ無くなるのだが。 「天孫降臨」の銘柄の由来は勿論、アマテラスの御孫(天孫)の「ニニギ」御一行様が日向の国の「高千穂」に御降臨されたことに由来している。 

    再び、その「天孫降臨」の事であるが・・、
    降臨したのは高千穂とあるが、ただ、その高千穂は宮崎県、鹿児島県と両方に在り、両・高千穂の本家争いにまで発展しているともいう。 
    先ず、鹿児島は霧島山系の「高千穂峰」であるとの主張している。その理由は日本書紀に「日向の襲(熊襲・隼人)の高千穂峰・・」と書かれていることに由来し、襲は大隈地方のことであって、更に、降臨された山頂には青銅の「天の逆鉾(さかほこ)」があると記されている。 現に、大相撲の井筒親方は鹿児島出身で現役時は、これに因んで「逆鉾」(さかほこ)というシコナを付けている。
    これに対して宮崎は「高千穂町」であるとしている。 ニニギノミコトは稲穂のことであり、稲作農業の象徴とされる。つまり、降臨したのは火山灰(薩摩地方)が積もるような所ではなく、稲作に適した高千穂町であるとしている。 
    宮崎県、鹿児島県との本家争いはともかく、そも、「高千穂」という地名の起こりは、ニニギがこの地に降臨するとき千本の稲穂をつみ、その籾(もみ)をしごいて蒔いたとことから「千穂」というようになり、その上にニニギノミコトの尊さを意味する「高」の字を付けて「高千穂」と呼ぶようになったと言われている。

    「高千穂町」は九州山脈のほぼ中央部、宮崎県の最北端に位置し、町の中心部を五ヶ瀬川が西北から南東にかけて貫流し、途中、名勝・天然記念物「高千穂峡」が神秘的に創出している。 この地は、天孫降臨や天の岩戸開き、などの神話の高千穂町としても知られ、その起源は古く、古代遺跡の発掘や多くの出土品等の遺物により、紀元前4世紀頃から既に集落が作られたという史実もある。  又、神代の神社も多く在り、 高千穂神社は、創建はおよそ1800年前といわれ日向三代の神々と神武天皇の御兄君を祀っている。 神話を今に伝える「天岩戸神社」は、天照大神がお隠れになった天岩屋戸が御神体とされ、近くには岩戸開きの“ご神議”が開かれた「天安河原」もある。 高天原遙拝所、天孫降臨後に神々がこの丘に集い、天上の高天原を遙拝したと伝えられている。 くしふる神社や荒立神社といった、神話史跡や古代神々にまつわる社宮や史跡も多い。
    高千穂町の東方の北川町には、日向の海を見下ろす可愛山に、ニニギの墓地とされる「可愛山稜」が鎮座しているのである。

    又、宮崎の北方、西都市にはニニギに纏わる(まつわる)、都萬(つま)神社というのが鎮座している。 
    降臨の後、尊(ニニギ・天の神)と美しい姫・コナハナサクヤ(国津神の大山祗神・オオヤマツミ=地の神の娘)が結ばれる。この二神の結婚式は、日本最初の正式な結婚式といわれ、その式と新婚生活の場となったのがこの「都萬神社」と伝えられている。 日向三代の神話における最初のクライマックス「天と地の統合」である。 因みに、媛・コナハナサクヤは、「酒解子神」(さかどきこがみ)という別名を持ち、酒造りの神様としても、この社に祀られている。 媛が自分の子供を育てるのに自分の乳だけでは足りずに甘酒を作って三つ子の子供たちに与えたといい、銘柄は「甘甜酒(あまのたむざけ)」というのが日本最初の酒と言われる。 天孫降臨の地は、日本の清酒発祥の地であり、地元の銘柄に「天孫降臨」とあるのは納得である。
    西都市は宮崎県中部の市域で、往時は日向国府の所在地であり、その市街地西方に「西都原(サイトバル)古墳」という古墳群もある。 古墳とは、高く土盛りした古代の墳墓のことで、日本での多くは当時の王や豪族ら有力者の墓とされている。
    宮崎は古代「日向の国」とよばれた。
    この地は「神話と伝説のふるさと」ともいわれ、古事記や日本書紀にも多く記され、日向神話をはじめ、数多くの伝説や史跡があふれている。 「西都」はその日向の中心地であり、多くの神話や伝説が伝わっている地でもあるが、実質、「古墳」という形で現代までその史跡が残されているのである。 
    日本には時代区分に云う「古墳時代」というのもあり、今からおよそ1700年前の弥生時代が終わった3世紀末〜7世紀末頃までの凡そ400年間いい、巨大な墓づくりが行われた時代である。 異例なのが、弥生時代(中期ごろ)にも墳丘墓(ふんきゅうぼ)と呼ばれる大きな墓がつくられ、各地域ごとに、形もいろいろと独自につくられたらしいが、古墳時代になり、全国的に共通した形と内容を持つ古墳が造られたという。
    西都原一帯に色濃く残されている西都原古墳群は、300基もの古墳の存在が確認されていて、
    古代から相当な規模の国がこの地にあったと思われている。 その古墳の大部分はいまだ発掘されないまま、多くの謎を秘めて千数百年もの時を眠り続けているという。
    この古墳群の中で最大級の二つの古墳「男狭穂塚(おさほづか)」と「女狭穂塚(めさほづか)」というのが在り、この墳墓は、ニニギとコノハナサクヤの夫婦の墓とも伝えられている。

    次回は、再び「桜島」


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