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from: orimasaさん
2009年03月10日 11時50分18秒
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日本周遊紀行(166) 延岡 「藩主・内藤家」
写真:鎌倉材木座「光明寺」の歴代内藤家の墓所(重文)
陸奥国・磐城平と日向の国・延岡の内藤家とは・・?、
国道10は日向市街の中心地、日豊本線・日向駅に達した。
市街地は海岸の方向に広がっていて、その町外れの海岸には壮絶な風景が広がっている。 通常、黒潮洗う太平洋に面した宮崎の海といえば、すぐにフェニックスロードと言われる長閑な日南海岸を思い浮かぶが、こちら県北部は日南海岸とは対照的な「日豊海岸」(国定公園)といわれる壮絶なリアス海岸が、日南とは勝るとも劣らない特異な景観を誇っている。 そのなかでも日向市西方郊外の絶景ポイントである「日向岬」は、特に、馬ヶ背(馬が背)といわれる付近一帯の岩が柱状節理の断崖絶壁を成し、越前海岸の「東尋坊(とうじんぼう)」をも凌ぐともいう。
日向駅から日向市街、日向岬、日向灘と日向ずくしのこの地は、町並みと自然のおりなす大景観が隣合った珍しい地域の一つであろう。
門川町から延岡に入った。
この「延岡」は小生の田舎・実家(福島県いわき市)と非常に縁が深いということが判明している。 「延岡」は水辺の町で、各河川が合流している水郷の町である。事実、「日本の水郷百選」にも選ばれていて、五ヶ瀬川、大瀬川、そして祝子川の清流を街の近隣に抱き、「水郷・延岡」の愛称でも人々に親しまれている。
この五ケ瀬川と大瀬川に挟まれた三角州・高さ50m余りの延岡山の山丘に縄張りしたのが平山城・延岡城である。 今は「千人殺し」と言われる城跡の石垣が、その名残を留め、城山公園として市民の憩いの場になっている。
最初に城が築かれたのは遥か遠くの昔・天平時代(奈良時代の後期)のことらしいが、江戸期まで下って1614年 (慶長19年)、有馬直純が島原から入封し、城および城下町建設に力を注ぎ、本格的城郭が完成している。 以降城主は三浦氏、牧野氏と替わり、延享4年(1747)・内藤正樹が七万石で入封すると、そのまま世襲して明治に至っている。
牧野氏の時代、牧野貞道(1719〜1747年までの日向延岡藩二代藩主、寺社奉行や京都所司代を歴任)の出世で経費が嵩み、藩財政は困窮するに至った。 そのため、江戸中期(1747年)の「三方領知替え」の制度により、牧野氏は常陸国・笠間藩に転封となり、代わって陸奥国・磐城平藩(たいらはん)より内藤政樹が7万石で入封した。 なお、磐城平藩には笠間藩より井上氏が入封している。
「三方領地替え」とは江戸期に徳川幕府が行った大名に対する転封処分の手法の一つで、大名三家の領地を互いに交換させることを言う。 例えば、大名家Aを大名家Bへ、BはCへ、CはA領地へ同時に転封することで、「三方領地替え」、「三方所替え」、「三方国替え」とも称した。 江戸時代を通じて何回か行われているが、中には、四家が関係した「四方領地替え」の例もあったという。
さて、話は飛んで、小生の実家・田舎、福島県いわき市(磐城藩)であるが・・、
江戸期においてはこの地方を磐城平藩と称して、鳥居、内藤、井上、安藤の四大名が領地を支配していた。 中でも内藤家は永く、江戸初期の1622年から1747年まで125年間、六代の永きに亘って治めていた。 内藤家は、徳川家譜代として戦国期より活躍し、大阪の陣では江戸城の留守居役を任されるなど、江戸幕府を開くにあたり功績は大きい。
江戸中期、六代目内藤 政樹の代の磐城平藩では、天地変による洪水や凶作、また過去の悪政などにより藩財政の破綻が続き、そのため重税で苦しめられた領民の不満が鬱積していた。そして、ついに元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生するのである。 四方から平城下に押しよせた一揆勢は凡そ二万人ともいわれ、富豪や商家を打ち壊し乱入、 役所、獄舎をも襲ったという。4日間、武士団に抗し訴え続け、ついに減免措置を勝ち取ったという。 だが、この騒動で領主・内藤政樹は責任をとられ、日向・延岡藩7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる。 去るに及んで次の歌を残したという。
『日に向ふ(日向) 国に命を 延べおかば(延岡)
またみちのくの(磐城平) 人に逢うべし』
こうして九州・日向延岡・内藤氏は、磐城平藩と同様の年月(124年)に亘り藩政を治めることになる。 江戸幕末、延岡藩・内藤家は、薩摩藩を筆頭に倒幕派の南九州諸藩の中にあって、徳川譜代藩であるがゆえに佐幕の立場を採らざるをえず、苦況に立たされるが・・。
このあたり、「鎌倉」(日本周遊紀行・特別編)の項でも記したが、内藤家・江戸上屋敷は江戸城外郭門の虎の門に続く外堀辺りにある。 内藤本家は磐城平藩より財政難の連続で、内藤貧乏の守・・と、そのあまりの質素な暮らしぶりを揶揄(やゆ・たとえ)されたほどのであったという。 しかし、七万石の小藩ながら、その後もなお私財をつぎ込み城下町の再興に尽くすなど、民衆に支持された名家でもある。
そんな生活ぶりの中、内藤家は代々「浄土宗」を崇拝信仰している。 菩提寺は鎌倉材木座「光明寺」で、寺院は徳川家康によって関東十八檀林(だんりん・栴檀林の略 仏教の学問所、平安時代の檀林寺に始まるが、学問所を檀林と呼ぶようになったのは室町末期で、近世、各宗で設ける、関東十八檀林の類、学寮のことでもある)の一つに数えられ、その筆頭に位置づけられた名刹である。 総門より、巨大な山門をくぐると本殿があり、その横奥に内藤家の廟所があって、磐城・平藩の初代から日向・延岡藩の幕末までの、代々の墓所が一同に祭られている。 このように江戸初期から末期まで、代々の大名の墓が整然と全部一箇所に揃っているのは大変珍しいという。 墓石が順よく並ぶ姿は美的でもあり、壮観であって、鎌倉市の史跡にも指定されている。
先にも記したが、延岡城の内藤家は日向灘の海を望める高台にある。 江戸住まいの日々、彼岸や盆の参詣のひと時には、内藤家の人々は鎌倉・材木座の海に重ねて、日向灘を思い出していたに違いないと思われる。
城址内の一角、延岡城の西の丸、もともと延岡藩主の御殿があった地に「内藤記念館」があり、延岡藩の歴史を伝える貴重な資料や書・絵画などが保管されているという。
次回、延岡の「可愛山陵」-
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