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from: orimasaさん
2009年03月12日 11時23分05秒
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日本周遊紀行(167) 九州山地 「五家荘、五木村」
序(ついで)ながら、「西南の役」で敗れて、敗残の薩摩軍が辿ったといわれる、所謂、九州脊梁山地の町村について述べてみよう。 北は阿蘇山系、南は霧島山系に挟まれ、宮崎と熊本の県境の九州の屋根と言われる山峡の地に、郷愁と伝説を秘めた村々や部落が点在する。
先ず、肥後・熊本に属する「五家荘」(ごかのしょう)と「五木村」について・・、
「五家荘」について・・、
1300〜1700m級の九州山地の奥深い位置に点在する五家荘は現在、八代市泉町(旧:泉村)の中の旧村であった椎原、仁田尾、樅木、葉木、久連子の五つの集落の総称であって、特に五家荘という行政地名としては地図には載っていない。
五家荘地方は、平家落人伝説の残る九州中央山地の奥深い山間に点在する集落のことで、九州の秘境中の秘境と言われている地域である。 管原道実の子孫や平家の落武者と源氏の追討など追われる者と追う者達が山奥深く入り込み、そのまま住みついてしまったという興味ある伝承の地でもある。
菅原道真は、藤原氏の策略によって太宰府に左遷されるが、道真の死後、長男と次男にも追討の手が延び、それを逃れるためこの地に入り、左座(ぞうざ)という氏名を名乗って、仁田尾(にたお)、樅木(もみき)辺りに住みついたという。
又、平家一門の平清経(平重盛の三男)は、源義仲が上洛したことにより豊後竹田の緒方氏を頼って四国から豊後鶴崎を経て竹田に入ったとされている。 緒方氏の娘を妻として緒方姓を名乗ったが、緒方維義が叛旗を翻し源氏方へ寝返ったため、清経は太宰府から山賀の城、柳が浦へと落ち、世をはかなんでそこで入水したとされる。 だが、五家荘の地へ逃げ込んだという伝承もあり、その後、三人の息子たちが其々の里に住み着き、庄屋として領地を開拓したという。
五家荘にある「平家の里」は、都を偲ぶ隠れ里の雰囲気が漂い、朱色が鮮やかな神殿造りの「平家伝説館」(資料館)には平家落人伝説の資料などが展示してある。又、能舞台や当時を偲ばせる古民家が点在し往時を偲ばせている。 他に、最奥部の樅木(もみき)地区には、現在は観光名所となっている「ロープの吊橋」が多数見られる。
「五家荘」は川辺川の上流域にあり、深い渓谷に架かる藤の蔓を使用した吊橋が、地域住民の日常生活に重要な役割を果してきた。だが現在は、大部分がワイヤーロープの吊橋に架け替えられ、五家荘の名所となっている。
「五家荘」は、豊かな自然とロマンが今も残っている地域である。
次に、五木村について・・、
「おどま盆ぎり盆ぎり・・」と、どことなく哀愁をおびた子守唄である。
「五木の子守唄」で有名な五木村は、川辺川上流に沿って集落が点在している。 現在、この五木の近辺はダム工事のために狭い道をダンプカーが行き来しており、道路工事などの最中であるらしく、いづれは、子守唄の里でもある五木の中心地は、ダムの底に沈むことになるようである。
壇の浦の戦に破れた平家の一族である武将17人、そして従者135人が五木、五家荘の山中にひそみ、さらに世人の目をくらますため、源氏の武将の姓である土肥、椎葉、那須、黒木らを名のり、居着いた(いつき=五木)であろうという伝承(平家伝説)がある。
五木村から肥後・八代へ抜けるのに「大通峠」というのがあり、かつて貧しい五木の名子(なご・中世から近世、一般農民より下位に置かれ、主家に隷属して賦役を提供した農民)達は、娘たちが七つ八つになると、ロベらし(クチ減らし・家計が苦しいので、家族の者を他へ奉公にやるなどして、養うべき人数を減らすこと)のため、町(八代)に女中奉公に出したもので、そのための親子は、必ずこの峠で別れなければならなかった。 「マチさ行けば毎日マンマ(御販)が食べられるとバイ」・・と、母親の声を後に泣きながら山を下って行く光景がしばしば見られたという。 五木の子守唄の一節に、「おどま親なし七つの年に、よその子守で苦労する、つらいもんばい他人の飯は、煮えちゅおれども のどこさぐ・・」
と、当時の悲しい様子が見て取れる。
子守唄公園には温泉センターや歌碑、ユニークな子守唄像が立っており、かやぶき茶屋や子守茶屋の店もあり、お茶や椎茸などの地元名産品などが販売されている。
『五木の子守唄』 熊本県民謡
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
盆が早よくりゃ 早よもどる
辛いもんだな 他人の飯は
煮えちゃおれども のどにたつ
おどま勧進勧進 あん人たちゃよか衆
よか衆ゃよか帯 よか着物
歌詞にある「おどま勧進勧進」の勧進とは、「もの乞い、乞食」のことで、「私は乞食(こじき)」という意味である。
哀愁を帯びたメロディーと切ない思いが伝わる日本でも代表的な子守歌であるが、レコード等で全国的に有名になった「五木の子守唄」とは別に、五木村で古くから唄い次がれてきた「正調五木の子守唄」もある。
『正調五木の子守唄』 伝承者 吉松 保
おどまいやいや 泣く子の守にや
泣くと言われてにくまれる
泣くと言われてにくまれる
ねんねこした子の可愛さむぞさ
おきて泣く子のつらにくさ
おきて泣く子のつらにくさ
全国的にも有名な「五木の子守唄」であるが、歌詞は様々なものが伝えられているという。 特に、正調五木の子守唄は歌詞で1番、2番というもはなく、どれが元唄で、何番まであるかなど全然判っていいないという。 専門家によると、多分、即興的に歌われ、そして消えていったものも多数有るともいわれている。
又、歌詞やメロディの発生時期・時代についての記録も伝承もなく、自然発生的に歌われだしたものが、今日まで伝承されてきたと解釈されている。伝承者によって似たようなものもあれば、ひらがな、漢字などを含め、記述した人によっても微妙な違いがあるともいわれる。
次回は、椎葉村-
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