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from: orimasaさん
2009年04月14日 08時55分11秒
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日本周遊紀行(178) 津和野 「千姫事件」
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津和野は、「つわぶきの生い茂る野」から、その名が生じたというが・・、
益田は、古代から山陰と山陽を結ぶ交通の要衝地であった。現在でも主要幹線である国道9号線が京都を発って日本海を巡り、ここ益田で高津川沿いに内陸に向かい、「津和野」を経て、山口、山陽道の下関に達している。 そして、並行してJR山口線が走っている。
山口線は、山口市の新山口駅から益田市の益田駅に至るJR西日本であり、国道と同様に、中国山地を斜めに横断する主要な陰陽連絡路線でもある。
山口線で特筆されるのは、御存じSL(蒸気機関車)列車の運転であろう。 ここのSLは、国鉄時代からの1975年12月を最後に姿を消していたが、地元や鉄道ファンの要望により、観光も兼ねて1979年8月に山口・小郡から山陰内陸の「津和野」まで運転されることになったという。 貴婦人と呼ばれるC57(シゴヒチ)形蒸気機関車牽引で「SLやまぐち号」が走り、すっかり有名になり全国区にもなった。 この事は「動態保存」という保存法の先駆けとなり、この列車の成功を受けて全国主要各地でJRの蒸気機関車の復活運転が行われるようになったのは周知である。
SL運転で有名になった内陸の地「津和野」は、元々、全国的にも有名な観光地であり、関東地区からも「萩・津和野」のツアー観光などで常時、紹介されている。 山峡の地で、谷あいに赤い石州瓦の家々が密集する小さな町であるが、一言で言えば「萩の縮小版」とも言われる。 人によっては、山に囲まれて、のんびり長閑なところは萩よりも風情が有り落ち着けてよろしいともいう。 町屋は歴史的建造物や史跡なども多く、「山陰の小京都」と言われる所以である。
津和野は「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツにもつといわれる。
遠い昔、山紫水明のこの地に住みついた人々は、群生する「つわぶき」の可憐な花に目をとどめ、その清楚で高雅な風情に魅せられ、自分たちの住む里を「つわぶきの野」・・、つまり「つわの」と呼ぶようになったという。
因みに、「つわぶき」(石蕗)とは、フキに似た植物で、葉に艶(つや)があることから「つやぶき」、転じて 「つわぶき」になったといい、晩秋に黄色い頭花を 咲かせる。 観賞用のほか、茎は食用にまた葉や根茎は民間薬として利用される。
津和野は、既に縄文の頃より人が住み着いていたという痕跡もあるが、鎌倉期になって本格的な城つくり、町つくりが始まる。 鎌倉期、鎌倉幕府の御家人・吉見頼行が地頭として任じられ、文永・弘安の役の直後だっただけに、日本海の海岸防備に当たらせた。 この時期、吉見氏は本城・津和野城を津和野に築き、当時は三本松城と呼ばれていた。
戦国期、吉見氏は、主君である大内義隆を滅ぼした陶晴賢(すえはるかた)や益田氏らの大軍に山麓を包囲され猛攻撃を受けたが、100日余の籠城戦での末に毛利元就の援助を受け陶晴賢を退却させている。この戦いは、世に「三本松城の役」と呼ばれ、この山城の要害堅固さを天下に知らしめたという。
津和野・吉見氏は、この後14代続いたが、慶長五年(1600年)「関が原の役」にあたり、毛利氏に組して西軍に味方したため、敗れて長州へ移されてしまう。 その後に入部したのが坂崎出羽守成正であった。
関ケ原の合戦の後、軍功のあった坂崎出羽守直盛が津和野城主となり、城の大修築を行ない、高石垣の近世山城を築き上げ、現在見られるような津和野城跡の原型を造りあげた。
この坂崎出羽守も、かの「千姫事件」のため一代でお家断絶となった。
「千姫事件」とは・・、
元和元年(1615)の「大坂夏の陣」に際して、坂崎出羽守は炎上する大坂城内から徳川家康の孫である千姫(7歳の時に豊臣秀頼に嫁ぐ)を満身創痍となって助け出した。 これには、千姫を助けた者には嫁にして与えるという、家康の言葉を信じたからであった。 ところが意に反して千姫は、今で言うイケメンだった本多忠刻(ただとき)のもとに嫁ぐことになってしまう。 これを知った出羽守は千姫の輿(こし)を奪い取り、刺し違えようとまで思いつめる。 だが、このことは幕府の露見するところとなり、千姫の父・二代将軍徳川秀忠は坂崎直盛に対し、幕府への反逆として断固たる処置を命じた。
この時、騒動の張本人である家康はすでに亡く、老中評議の結果、坂崎出羽守の自決で決着させようとした。 しかし、出羽守はこれを聞き入れず、結局、坂崎家の家老が出羽守を殺害し、その首を幕府に差し出して一件落着となった。 これには将軍家の指南役・柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとも言われている。 この事件のため坂崎家は、津和野城主となってわずか16年でお家断絶となっている。
2005年9月25日、津和野町、日原町が合併し、現在の「津和野町」が発足している。山口や萩と関連が深いが、れっきとした出雲・島根県の所在である。
次回は、浜田
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