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from: orimasaさん
2009年04月21日 09時50分03秒
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日本周遊紀行(182)出雲大社 「本殿」
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日本周遊紀行(182)出雲大社 「本殿」
写真:出雲大社・本殿
写真:出雲大社の銅鳥居内の神殿配列(右より拝殿、八足門、楼門 御本殿の各神殿)
その奥の高床の最上位にある神殿、つまり大社造りの御本殿に御神体が鎮座している。
本殿建物は、所謂、切妻様式の“大社造り”と言われるもので、神殿口は切妻の妻入部(対して平入)になっている。 こうした妻入の形式に対し、平入の手法をもつ神明造(伊勢神宮など)は、穀物を収蔵する「倉」の形式を踏むものとして、性格を異にする神社形式であるという。 その起源を異にするこの二つの系列が基調となって、平安時代以降それぞれ発展を見せて春日造や八幡造、さらには権現造等々となって変遷していったといわれる。
その本殿の屋根には鰹木(かつおぎ)と、破風部に雲を分け、天を指すといわれる千木(ちぎ)が配してある。 千木の先端の切り込みが垂直なのは祭神が男性ということを表している。因みに、伊勢神宮はアマテラスで女性の神であり、内宮・正殿の千木の先端切込みは水平になっている。
現在の本殿の大きさ、高さは八丈(24.2m)、神社建築の中でも他に比類を見ぬ規模の豪壮さであるという。(現存神社の最高の高さ) ところがこの本殿は昔に遡ぼれば48m、最も古くは三十二丈(98メートル)もあったともされている。
普通、建物は小さいものから大なるものへと時代とともに推移し発達を見せるが、大社の古式からの伝達はこの逆だというのである。 背後に聳える秀麗な八雲山は、嘗ては大社の神体山であり、神体に近ずこうとすれば、この三十二丈説も頷けるのである。
2000年に周辺の調査発掘が行われ、境内から巨大な柱(1本の径約1.4mの柱が3本束ねたもの)が発掘され、伝承と考え方を合わせると48メートル前後あった可能性が高いという。 48メートルは現本殿の二倍、現代のビル14階建てに相当し、現存する世界一の木造建造物(塔を除く)である東大寺大仏殿(約46メートル)を超えるという。
平安時代の「口遊」(この時代の子ども達が文字をならう教科書のひとつ)という書物に書かれた内容の1つに、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで、「一番が出雲大社、二番が東大寺大仏殿、三番が京の太極殿」を意味しているといい、その巨大性を示す有力な証しとなってる。
ただ、出雲大社の場合は高床式が超高床であって、その本殿へ誘う階段が長大なものであって、本殿そのものの建物(建屋)は、現在の大きさか、やや小振りであったとされる・・?。いずれにしても大社は、大社(おおやしろ)であったことは確かなようである。
ここで、社(ヤ・シロ)という言葉の概念について知る必要がある・・、
シロという言葉は、当然、城ではなく“代”である。 代はタシロ(田代)、ナエシロ(苗代)、アジロ(網代)の如く、示された場所を表す。 つまり、ヤシロとは屋代であり、臨時に屋根をしつらえて神祭を行う場所のことである。
神仙(神様)の住居、皇宮族の御殿としてのミヤ(御屋・宮)が造営され、この場所や建物をヤシロと呼ぶのである。 原始家屋の形式である出雲大社・本殿は まさにその「御屋、宮」であったはずである。 国々に散らばる多数の分祀神社や支社は、モリでありヤシロであって、ミヤとはよばれない。 出雲大社はその起源からして、祭神:オオクニヌシの御坐したところ、即ちミヤ・ヤシロ(宮社)であり、神の宮であり、神宮・なのである。 そして出雲の宮社が余りに巨大であったので、いつしか“おおやしろ”、大社、出雲大社になったのである。
本殿内部の御祭神(御神体)配列について・・、
写真:本殿内部、御神体の配列と向き(主神が正面でなく西向きの謎・・?)
しからば、出雲大社にはいろいろ不思議な事柄があるという・・、
その内の筆頭に本殿内部の御神座の位置、配列が“奇妙”であるとされている。 御神体・大国主命の神座が西向きで、参拝者から見ると横向き(そっぽ向き)になっているという。
大社造りの特徴は妻側から拝む形式になっているが、神殿内部の平座ではご神体・大国主命の他に、大和の五神が祀ってある。 その配置の正方形の平座には左方奥隅に大和五神が正面に正対して鎮座し、右方奥隅に大国主が左方(西方)を見る形、つまり正面からは横向きになり、五神にお伺いをたてている、といった構図になっているのである。 しかも、大国主が正面から直接見えぬように、中心に柱(「心御柱」といい、この柱が所謂、大黒柱の謂れであるとされる)を置いて目隠しのカーテンを施してあるという。 従って、我等の出雲の神への礼拝は、傍に控える大和の五神に向かって拝礼している形になる。つまり、いかなる願いも大和の五神がチェックを入れてから大国主に取次ぐという形になっているのというのである。 要するに、我々と大国主とは直接接触を絶っているのであり、このことは大和五神が大国主を見張っていて、このことは大和神の意に反すること、「祟り」を起こすための“行い”を監視しているともとれるのである。このことは、神話における大国主の大和への「国譲り」の結果が現れているとも取れるのである。(「国譲り」については後述・・、)
以上は、御神座が西向きであることの一つの説話であるが、その理由については他にも諸説あるようで・・、
先ず、古代の住宅様式における入口と最上席の配置と向きの関係は、御本殿のそれと一致するという。出雲大社は古代住宅から成り立った神社であるから、御神座も古来の風習のまま設けられたものであるとする。
又、古代では、西の彼方には「常世(とこよ)の国(霊魂が鎮まるところ)」があると信じられていた。そして出雲大社のすぐ西には「国譲り」神話の舞台として有名な「稲佐の浜」があり、又古代の出雲大社の社殿は直接海に接していたともされているので、大国主命は海の彼方(西方)から来た霊威としての性格をも持ち、そのため御神体は西の方向へ敬意を表して座してともいう。 現に出雲大社は、海とのつながりを色濃く持つ神事がある。
いずれにしても、御神座の横向き(西向き)の謎は、出雲大社創建の謎にも隠されているのかもしれない。
御本殿天井の雲の絵について・・、
御本殿の天井には雲の絵が描かれているという。 上段の天井には二雲、下段の天井には五雲の計七雲であり、普通の雲の絵とは少し趣の違った形に描かれている。 出雲の地と雲と聞いて連想するのは、やはり素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲の須賀に宮を造り鎮まられる時に詠まれたとされる・・、
『 八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 八重垣作る 其の八重垣を 』
という歌であろう。
素戔嗚尊は大国主命の御父神でもあり、御本殿の雲の絵も素戔嗚尊との縁により描かれているとされてきた。だが、「八雲立つ・・、」の縁ならば何故七雲が描かれているのか・・?、という疑問についても、出雲大社創建の謎とされ、素戔嗚尊との縁に絡めて疑問視されてきている。
次回は、「国譲り」
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